聖書 ルカ3:23-38 |
はじめに
聖書通読(聖書全部を読む取り組み)でスイスイ進む書物と、てこずって通読を止めてしまう書物とがあります。
たとえば創世記は物語になっていて読みやすい、詩篇や箴言(31章あるので1日1章で1か月)は区切りがはっきりしていて続けやすいといった感想を聞くことがあります。それとは逆に出エジプト記の後半やレビ記は規定や律法ばかりで読みにくい、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル書(大預言書)やホセアからマラキ書(12の小預言書)の預言書は意味が分かりにくいといった感想を聞くこともあります。
そして、もっともよく聞くのが「系図」です。聖書は旧約聖書、新約聖書からなっていますが、イエス・キリストの登場する新約聖書を初めての聖書通読をする人に勧めることも多いでしょう。しかしその最初のマタイの福音書は「系図」で始まります。なじみのない人物の名前がズラッと並んでいるところで興味や関心が薄れてしまうこともあるようです。
そして本日の箇所も「系図」が出てきます。というよりも、本日は系図のみになりますからみなさんにとっても、また説教者である私にとってもチャレンジにあふれた時間になるかもしれません!
土曜の午後に礼拝の備えをしてくださる姉妹方がおられます。昨日は「メッセージの準備をすることに追い詰められているのではないですか?」と励ましてくださいました。もちろん産みの苦しみという意味での重みもありますが、今日の私たちに語りかけてくださる生の主の声をともに聴くワクワクする時でもあります。
主がここからお一人おひとりに語りかけてくださいますように。聴く私たちが今日私はこのことを主によって語られた」と確かな思いを抱いて新しい週を始めることができますように。
契約とキリスト
今日の個所に目を通してみてください。いったい、ここにおける聖書の目的は何でしょうか。著者であるルカはこの系図の個所を通して、聴く私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
聖書を正しく理解するためには、訓練が必要です。訓練は確かな技術、正しい姿勢、積み重ね(繰り返し)です。そうして訓練された者は、過去のある時点と比べて確実に成長や成熟、進歩を感じることができます。「できた」「わかった」という喜びを味わうということです。
聖書の理解のためには、常に「全体と部分」を意識することが大変重要です。日本語には「木を見て森を見ず」ということわざがあります。このことわざの教訓(教え)も「全体と部分」「部分と全体」を同時に見ることの大切さです。前をご覧ください。ごいっしょに頭の体操をしましょう。(3つの図を出し、それぞれ何が見えるか考える)
図1:顔が正面に見えるか、横向きに見えるか
図2:四角模様がいくつ見えるか。もう一つはナイショ
図3:トラが何匹いるか
こうした問題はいっしょに考えると楽しいですね。一人だとすぐ答えをみてしまうし、もし自分が間違っていても同じ間違いをしている人がいると変に安心します。
さて、これを踏まえて朝の個所に当たってみましょう。
いったいこの系図は何を意味しているのでしょう。
この個所を通してどんな教えを示しているのでしょう。
この系図は「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、・・・」(3:23)ということわりから始まっています。唐突に始まったのではなく、1~2章があり、また3章でバプテスマのヨハネの登場と活動があり、そこから満を持すようにしてイエス・キリストについての記述がこの3章23節から始まります。著者ルカは、イエス・キリストのことを伝える冒頭にこの系図を記すことが最も効果的だと考えたのです。みなさんと把握しておきたいことは次の2つです。
1 聖書は契約の書物である
2 聖書の中心(目的)はイエス・キリストである
どちらも当たり前のことかもしれませんが、実はこの2つを確認しておくと、聖書をいつも正しい道筋で読むことができます。聖書は契約とイエス・キリストの書物。この場合は契約=森、イエス・キリスト=木です。どちらか一方だけでは正しく(あるいは楽しく)聖書を読むことができません。個人で聖書通読をする場合は、ぜひこの2つを毎回確認して通読に取りかかってください。
契約は神の救いを進めて行く道です。ここをはずれて神の救いが進展したり、完成したりすることはありません。なぜなら神は私たち人間と違い、言ったことを必ず守られる方であり、約束しことを必ず成就される方だからです。契約というとき意識していただきたいのは、法律家のような神ではなく、全知全能の神をイメージすることです。神は何でもおできになる方(I am God Almighty:Gen.17:1)です。詳しくは後ほど見ますが、このキリストの系図はどこまでさかのぼっているでしょう。「神に至る」(3:38)とありますね。この系図を見るとき、神は最初の人間アダムからイエス・キリストに至るまで、いっさいを説明できる形で導いておられる方だということがわかります。このようなことができるのは、全知全能の神以外ありません。イエス・キリストを中心に、歴史の初めから計画され、それを実行されてきたという圧倒されるような事実を私たちに伝えるのが、この系図の役割です。
こうして契約というポイントをつかんでいると、聖書全体が見えて来るので、過去においては全能の神が働かれたのだという励ましを受けることができ、将来については神が導かれるのだという希望を抱くことができます。神は思いつきで行動したり、進路を変えたりする方ではありません。初めから終わりまで契約に基づいて行動なさいます。私たちが神の契約(約束、真実)の中に生かされていると知ることは大きな平安を得る源です。
2. 日常をともに
聖書の全体図である契約を覚えつつ、今朝の個所をつぶさに見てまいりましょう。森の中に植わった木の部分です。もう一度今朝の導入節をご覧ください。
「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた」(3:23)
「働き」とは宣教活動のことで、ここから「公生涯(こうしょうがい、英語ではministry)」と区分するのが一般的です。聖書外の書物には三十歳になるまでの少年時代のイエスの奇跡を記したものもありますが(トマスによるイエスの幼児物語/聖書に救いに必要なすべてが書いてあるので読む必要はありません)、聖書は通常、生まれたときのキリストを記してからは、宣教を開始された公生涯へとひとっ飛びします(マタイ、マルコ、ルカ)。ただしこのルカだけは、イエスが十二歳になられたときの出来事を記しています(2:41-52)。
公生涯がおよそ三十歳であったとは、私たちにとってどんな意味があるでしょう。それはイエス・キリストは十字架にかかることだけを経験されたのではないということです。キリストの生涯は一瞬の痛みや一時の苦しみだけではありません。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった」(2:52)、「この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、 ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか」(マルコ6:3)と記されています。イエス・キリストは三十歳まではいわゆる「普通の人」として過ごされたのです。背たけが小さいことを経験し、身長が伸びる成長を経験されました。兄弟、そして妹たちがたくさんいました。キリストは長男として多くの責任、弟妹たちの世話、大工としての見習い、技術の習得など当たり前に経験されたのです。
しかも「マリアの子」と言われていることから、父ヨセフは早くに他界したというのが定説です。キリストは日々たくさんの家事手伝い、弟妹たちの世話、また友と遊ぶ楽しさも重ねた。十二歳とはそういうことです。またキリストは家の将来、周囲からの期待、進路や仕事について考え、祈り、歩まれた。三十歳とはそういうことです。キリストだけは一気に成人し、一つの苦労、悩み、病もなく成長したのではありません。
今、あなたは何歳でしょうか。イエスが三十歳であったというのは、あなたがいくつであってもキリストはいっしょに日常を歩んでくださっているということです。決して上から目線ではなく、「そのことを知っているよ」「あなたの悩みの辛さがわかる」「今は忍耐のときだね」「泣いて、叫んでいいんだよ」と言ってくださるのです。キリストもそのようにして日常を過ごされたからです。
私たち人間同士の付き合いについて考えてみましょう。あなたにはすべてを打ち明けることのできる友や家族がいるでしょうか。「こんなことを言ったら相手には重いだろうからやめておく」と変に気を使うのが普通です。ちょうど良い程度自分を開示し、ちょうど良い程度自分を隠して付き合うのが人間同士です。それが家族でも親友でも同じです。自分の思い、醜さ、困りごとを全部そのままさらけ出すことは遠慮しますし、不可能です。
しかしキリストに対してはそうではなくても良いのです。「彼が自分のいのちを死に明け渡し(注ぎ出し)」(イザヤ52:18)た方がキリストです。キリストは私たちのためにすべてを明け渡してくださいました。それゆえ、キリストは私たちを決してはねのけず、説教せず、上から目線のアドバイスをせず、面倒がって話をそらさず、イライラして貧乏ゆすりをしません。実は広くて複雑な私たち人間の心。その一つひとつの部屋にキリストは訪れ、耳を傾けてくださいます。そうして私たちが心配、怒り、焦り、痛み、不安、頼み事、恥、孤独、傷、愚かさ、経済的なこと、病、恨み、ねたみをことごとくキリストに明け渡し、注ぎ出し、さらけ出すように招いておられます。これは救いです。しかも今日の私、あなただけではありません。5年後、10年後のあなたとも、ともにいてくださいます。あなたはどの部屋をキリストに対して開けますか?閉ざしている部屋があれば、ぜひキリストに開いてください。
3. あなたとともに
さて、ここからは系図を読み進めていきましょう。イエスは「ヨセフの子と考えられていた」(3:23)と少々意味深な書き方からさかのぼっていきます。聖霊によって宿ったイエス・キリストは母がマリアであっても、父については「ヨセフの子と思われていた」程度でした。そのことを受けてルカは「ヨセフはエリの子で」と続けます。これはキリストの系図を記したマタイとは違う人物です(「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ」マタイ1:16)。それでルカはキリストに関して父系ではなく母系の名前をさかのぼって記したことがわかります。このことは当時の系図の書き方でも自然なことでした。
ザっと知らない名前が続きますが中ほどに「ダビデ」(3:31)の名前が出てきます。このダビデを目印にすると再びマタイとは違う視点で系図が記されていることに気づきます。マタイでは「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」(マタイ1:6)とあります。これは有名なソロモン王のことですが、ルカでは「ナタン」という人物がダビデの子として記録されています。ナタンは同じバテ・シュバ生んだ4人のうちの一人です(参照:第1歴代誌3:5)。ルカはダビデの子として、ソロモン王ではなくナタンを選んでいます。これはルカなりの意図があってのことでした。マタイとルカはそれぞれ違った視点から書かれていて、それが両方真実な神のことばです。
ダビデからソロモンの系図を書いたマタイはその後も「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)を軸にキリストについて話しを展開していきます。これに対してルカは、「ヨセフもダビデの家に属し・・・ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:4,11)と「ダビデの町ベツレヘム」を軸に展開します。実は旧約聖書の中で「ダビデの町」とはエルサレム(シオン)でした(第2サムエル5:7第2歴代誌3:1、イザヤ2:3を参照)。ただ一つ違う箇所があり、それはキリストがどこでお生まれになるかという預言の箇所です。そこにはベツレヘムからキリストが出るという預言されています(ミカ5:2、ヨハネ7:42)。
おそらくルカはわざわざ王の家系を避けてダビデからナタンという系図を用いています。ある研究者は「その後イスラエル王国を分裂、破滅へと導いたエルサレムの王たちとは対照的な方としてキリストを提示しているのではなないか」と指摘しています。旧約当時からベツレヘムはとても小さく、何の変哲もない印象の町でした。ダビデもその町の出身ですが、神の選びなしにはスポットライトが当たることのない氏族の住む町であり、ダビデ自身も末っ子(7人もしくは8人兄弟)でした。人の目からは期待されていない町、期待されていない人だということです。
その町でキリストは生まれたというのが、ルカの強調点です。ダビデ以降の節をたどるとよりはっきりしてきます。父エッサイ、オベデ、ボアズ、そしてアブラハム、ノアを経てアダムまでさかのぼります。アダムは最初の人間です。それは、誰ももれることのない「すべての人の救い主」としてキリストが生まれたことを語ります。この系図に乗っているけれど名もなき人たちの歴史に入ってきてくださったキリスト。そこにあなたの名も連ねることができます。
静まりのとき~祈りの導き
あなたは神の愛に生かされていますか?霊的にもっとも平安な場所にあなたのたましいはありますか? 聖霊があなたに語りかけておられますか。今、神と自分とだけの交わりをもってみましょう。他の人のこと、となりの人のことを考えず、ただ主の前に静まりましょう。今感じていること、抱いている衝動があれば、主の前に注ぎ出しましょう。神に告白すべきことを告白しましょう。少しずつ主から遠ざかり気づけば神の愛をほとんど感じることのない世界にいた自分に気づいたなら、ぜひ連れ戻してください、と主に祈りましょう。福音への感動が薄れたり、人へキリストの愛を示すことから遠ざかっていたなら、今ここで新たにさせてください、と祈ってみましょう。キリストはそれを受け止めてくださいます。神の前に出て、神の愛を受けて生きるのが、本来のあなたです。神の前に出て、全ての人が新しく生まれますように。
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