聖書 マタイ26:69-75 |
はじめのことば~聖餐の意味と招き~
本日は聖餐礼拝を行います。具体的に聖餐式とはパンと杯(ぶどうの実で作ったもの)をイエス・キリストのからだと血に見立てて執り行うものです。そうしてイエスの死が自分の救いのためであったことを確かめ、感謝して受け取ります。本来救いは見えないものですが、救いを見えるものとしてこの儀式を守り行うように、イエスご自身が命じられました。それでキリスト教会は2,000年間、この聖餐式という儀式を守ってきました。今朝の聖餐礼拝は、私たちの教会もイエス・キリストのことばに従って行い、伝統的な教会の歴史につながるものです。
今朝の礼拝では、イエス・キリストの死の事実とその意味、また聖餐式に込められた福音のメッセージをここにいるみなさんで知り、味わいたいと願います。まだクリスチャンでない方には奇妙に感じるかもしれません。それも当然のことです。本日は聖餐の意味を示しながら礼拝します。聖餐式の目的は「イエス・キリストの死を告げ知らせる」ことです。あなたがクリスチャンであっても、そうでなくても、ここにいる全員にイエスの死が誰のため、何のためであったのかを告知することです。肩身を狭くしてこの場にいる必要はまったくありません。十字架とイエス・キリストの死の意味を知っていただけましたら幸いです。
聖書を朗読します。前をご覧ください。
※聖書朗読:イザヤ書53章4-6節(スクリーン参照)
今お読みした箇所に出ている「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(53:4a)とあるのはイエス・キリストのことです。彼は殺されてしまうのですが、私たち人間はその彼の生涯を「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」(53:4b)と思ったのです。しかし、それは間違いでした。実にイエス・キリストが痛めつけられ、殺されたのは「私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」(53:5)のだからです。
キリスト教会のシンボルでもある十字架はイエス・キリストが処刑された道具です。そしてイエス・キリストが死なれると預言しているのが、この聖書箇所です。イザヤ書はイエスが誕生する約700年前に書かれました。「預言されていたなんてすごい」と思われるかもしれませんが、大事なのは、神の計画により人の救いが成し遂げられていく点です。キリスト教の救いの根幹(基本)は、「あなたが〇〇しなければ救われない」ではなく、「神があなたのために何をしてくださったのか」にあるのです。
本日の聖餐礼拝では、神があなたの罪の赦しのため、救いのため、すでに何をしてくださったのかをたどっていきます。そうすることにより、クリスチャンの方はますます自分の救いを確かにし、初めてお聞きになる方はイエスの死と神の救いの道について知っていただけたらと願います。
※賛美:教会福音讃美歌122番(スクリーン参照)
祈り
天地万物を創造された神さま。あなたを礼拝できる特権を感謝します。小さな私たちにあなたを見上げる週の始まりを感謝します。ため息、つぶやきの多い私たちにあなたを賛美する朝を与えてくださり感謝します。一人でいい、関わりが面倒だと投げ槍になる私たちを教会の交わりに入れてくださるこの時を感謝します。どうか私たちの心があなたに向くように導いてください。
今朝、私たちはイエス・キリストが定められた聖餐式を行います。どうかこの場、時間、また用意されたパンと 杯を聖め、特別なものとしてください。教会が守り行ってきた救いの儀式とその意味が私たちに分かるようにしてください。ここにいる一人ひとりに主の死を告げ知らせ、私たちがあなたの招きを優しく聞けるようにお助けください。
救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン
※聖書朗読:マタイ26章69-75節(スクリーン参照)
説教(聖書のメッセージ)
「あなたのすべてを」
これはイエスを主と告白し、「どこまでも付いて行きます。ほかの者が離れても私だけは死んでもあなたのそばを離れません」と言い切ったペテロの裏切りの場面です。
この個所を読み、ここから先に十字架の死があることを知ると、主の深い愛に気づきます。今朝は以下3つのポイントでお話をします。
いっしょにいてほしい
十字架がキリスト教会のシンボルだと申し上げましたが、教会にはもう1つのシンボルがあります。多くのヨーロッパの古い教会の建物や屋根には雄鶏(オスのにわとり)のモチーフがあります(スライド参照)。これは今朝の聖書個所から取られたものです。クリスチャンは屋根の上にあるにわとりを見るたびに、主イエスの声、警告を思い出すのです。今朝の聖書個所マタイ26章のキーワードは「一緒に」で、実に10度もこの言葉が使われています(26:20,23,35-38,40,51,69,71)。ペテロは「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても」(26:35)と自ら言っておきながら、今は主イエスを殺そうとする下役たちといっしょに座り、中庭で火にあたっていました。何もかも捨てて主イエスに従ったあのペテロの姿はもうありません。今は、主イエスから離れて、事の成り行きを見守る、ただの傍観者です。
そんなペテロに召使いの女が近づき「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」(26:69)と尋ねます。ペテロにとって、今一番聞きたくないのがこの「一緒に」という言葉でした。それでペテロは慌てて「否定し」ます。これは教理を打ち消すというとても強い意味の言葉です。絶対に違う、知らない、分からないという拒絶です。ペテロは「皆の前で」否定しました。イエスと一緒にいたことがバレたら自分が危ない。それでペテロはサササーっと逃げるようにして「入り口まで出て行く」のですが、そこでも別の女性が「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」(26:71)と証言してきます。それでもペテロは「そんな人は知らない」と誓って否定します。またしばらくすると、立っていた人たちに「あの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」と指摘されてしまいます。直訳は「あなたの話し方が、何者であるかをはっきりさせている」となります。主イエスが天の御座を捨て人となってくださり、自分たちの地方のことばで話してくれるほどペテロに近づき、一緒にいて、同じ言葉を話して生活しくださったのに、今ペテロはそのイエスを思いっきり否定しています。
聖書がこのペテロの否定から教えていることとは何でしょう。それは、救いは人間の裏切りから始まるということです。ここを見て分かるように、あなたが良い子であり、善を積み上げて救いに至りましたという方法ではありません。それとは正反対に、人間の裏切り、克服できない弱さ、隠せない汚さ、罪から救いは始まります。
2. 自分を知る
さて、ペテロは3度イエスを知らないと否定していますが、いったいどのくらいの時間がかかったと思いますか?1、2,3度目の文頭には「すると」「そして入口まで出て行くと」「しばらくすると」と書いてあります。
ほんの2~3分の間に「知ってる?」「知らないよ!」とテンポよく3回連続で聞かれて答えたようにも読めます。実は、同じ出来事を記しているルカの福音書には、2回目と3回目の間に「それから一時間ほどたつと」(ルカ22:59)とあります。この意味はこうです。ペテロは勢いまかせて否定してしまったのではなく、自分の弱さに勝つことができなかったということです。1度目に否定したとき、ペテロは次に聞かれたら絶対に否定しないようにしようと思ったことでしょう。しかし2回目もできませんでした。そしてもし次に聞かれたら「私はイエスと一緒にいました。この方のためなら死んでもいい覚悟です。煮るなり焼くなりしてもらって構いません」と言おうと練習していたかもしれません。けれども、できませんでした。いくら自分で頑張ろう、強く意志を貫こうと思ってもできなかったのです。
そうして3度目に否定したときすぐに鶏が鳴き、ペテロは「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」というイエスのことばを思い出し、外で泣きます。ただ涙を流しただけでなく、激しく泣きました。ペテロが泣いたのは、イエスの声、イエスのみことばを思い出したからです。ペテロが泣いたのは愛や平安、希望というみことばではなく、「あなたはわたしを知らないと言います」という痛いみことばを思い出し、自分の罪が示され、自分の弱さを痛感したからです。
聖餐礼拝で覚えていただきたいこと。それは、主はペテロのことと同様に、私たち一人ひとりの、言うならばあなたの罪、弱さを知っておられるということです。救いについて考えるときにまずすることは、自分が主を裏切るような者であることを知り、それを認めることです。次に、そのような者をイエスは招き、そばに呼び寄せ、裏切られ、その上で十字架に向かわれ死なれたということです。主はあなたが裏切るものであること、冷たい心を持つこと、いざとなればさっさと逃げてしまうことをご存知です。そんなことはわかっている、織り込み済みだと言わんばかりです。まず、神の前で自分は裏切る可能性を持つ罪深い者であることを認めましょう。人前でどれだけ虚勢を張り、自分を信じて踏み出したとしても逃げ出してしまう弱い存在であることを認めましょう。主はそれを責め立てることはいっさいなさいません。
3. 主を知る
このあと、ペテロは主イエスとどこで再会するでしょうか。これから主イエスは十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、復活して弟子たちの前に現れます。そのとき主イエスはペテロと再会しました。ヨハネ21章にその出来事が記されています。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」(ヨハネ21:15,16,17)
3度否定したペテロに、3度同じことを聞いています。ペテロはきっと3度の否定を思い出し、「心を痛めて」(21:17)「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」と答えました。ここでペテロは「はい、私は愛しています」とか「他の誰よりもあなたを愛しているのは、この私です」「私が一番愛しています」とは言っていないことに着目しましょう。愛していることは、主よあなたがご存じですとだけ言っています。ペテロは自分で主イエスを愛しているとは言いませんでした。ペテロはもう自分の能力に基づいて答えていません。ペテロは、私のことは主がご存じであると答えています。
ペテロは自分軸からイエス・キリスト軸で生きるように変わりました。ペテロを生まれ変わったのは、弱点を的確に指摘したからではありません。あるいは「何をやってるんだ!しっかりしろ!がっかりだ!これからわたしがお前のために死んでやるから、目を見開いて確かめろ!それで悪いと思ったら、今度こそわたしを裏切るな!」と怒鳴られたからではありません。ペテロを変えたのは、裏切る私のことを初めからご存じだったのだという主の深い愛です。さらに復活されて後、自分に現れてくださり新たなチャンスをくださるのです。自信に満ち溢れていたペテロはもういませんが、今はイエスの前にしっかりと立っています。裏切り、逃亡するペテロはいません。
私たちは自分が立派だから、自分には非がないから主イエスの前に出られるわけではありません。まったくその反対で自分の弱さや罪深さを知るからこそ、いえ、イエスに知られているからこそ、主の前に出ることができるのです。あなたのすべてを知っておられる方の前で生きることは、苦しく窮屈なことではないのです。主イエスは私たちをさらしたり、疑ったり、恥をかかせたり、自信を失わせたり、さばいたりすることは絶対にありません。それは自由を与える救いからかけ離れた誤解です。
イエス・キリストはその全知全能の力を、罪人を救うためにお使いになられました。主ご自身の愛と救いを私たちが受け取ることを願っておられます。イエスは常に聖であり、義であり、真実であり、いのちです。イエスに偽りはなく、イエスに罪はなく、イエスはすべての人間の罪を背負うことのできるお方です。イエス・キリストはあなたの弱さも、罪もご存知です。その責めを私たち自身に負わせないで、主イエスが背負ってくださいました。ここに救いの知らせがあります。この福音によって、私たちは悔い改めへと導かれ、新生させられます。今朝の私たちのつながりは、ともに主の招きを受けているゆえのつながりです。これは地上の家族、成績、住んでいる場所、人種、その他どんなものよりも強い、本質的な結びつきです。それゆえに、ここで一緒に礼拝をし、聖餐式にあずかります。ペテロを招かれた主イエスが、今、あなたを招いておられます。
※聖書朗読:イザヤ書53章7-9節(スクリーン参照)
これから教会執事(役員)がパンと杯をお持ちします。洗礼を受けておられるクリスチャンの方はパンと杯をお受け取りください。まだクリスチャンでない方にはパンと杯を受け取ることを遠慮していだきますが、これはみなさんを教会から締め出す意図ではありません。むしろその反対で、まだ気持ちが整わず、意味がわからない方に信仰を強要することのないようにとの配慮です。これから配られるパンと杯はまだクリスチャンでない方にとっては救いへの招待状です。イエス・キリストの与える救いを受け取る決心をされたとき、ご一緒に聖餐式にあずかりましょう。肩身の狭い思いをすることなく、招きのしるしに目を留めていてください。
「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
(マタイ26:26)
ただいま受け取ったパンは、イエス・キリストのからだを表しています。一人ひとりに与えられたパンは、誰のことも除外されないイエス・キリストの広い愛のしるしです。
主イエスがあなたの罪を背負い、あなたの身代わりに十字架につけられ、死んでくださったことを覚え、心の中と口とでキリストを味わいましょう。
ともにパンを食しましょう。
「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」
(マタイ26:27‐28)
今手にしておられる杯は、イエス・キリストが十字架で流された血潮を表します。キリストは罪人のために、血を流すまでご自身をささげてくださいました。私たちも、罪深く弱い自分を認め、主イエスの深い愛を味わいましょう。信仰生活とは、ともに励まし合って、このイエスに目を留め続けることです。
ご一緒に杯をいただきましょう。
※賛美:教会福音讃美歌459番
「主よ終わりまで」
※使徒信条
古代から教会が守っている共通の信仰箇条の告白
※献金
主へのささげもの。強制、義務、割り当てではなく自由献金
※主の祈り 新聖歌54番
主イエスが私たちに教えてくださった祈り
※頌栄:教会福音讃美歌221番
礼拝の結びに、神をたたえる歌
※祝祷
祝福をいただく祈り
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