聖書:ルカの福音書5章27-32節 |
今朝は、先週の続編と言える個所です(本来、今週はルカ10:17-22でした)。先週はイエスさまがペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブの両兄弟をお呼びになり、彼らが従った場面でした。少し恵みの分かち合いが足りない部分もありましたので、今週はマタイの記者である取税人レビの召命から学びたいと願いました。個所の変更となりますが、よろしくお付き合いください。2週にわたってイエスさまの招きとそれへの応答、また弟子となった者に現れる変化を見てまいります。
1. 自分の座(27節)
みなさんには「こわいもの」がありますか(ありましたか)?私の幼少期、こわいものが二つありました。一つは鬼のお面で、もう一つは母の口裂け女です。母は私が恐がるのをとても面白がって育ててくれました。そんな母なのですが、もう一方の鬼のお面。これは父の友人がどこかへの出張のお土産に買ってくれて来たものだそうです(後日、聞きました)。そのお面は、普段は和室の天袋にしまわれていたのですが、節分になるとその天袋が開いて、鬼のお面が出てくるのです。私は赤い顔、もじゃもじゃのひげ、大きな口、そして特にあの見開いた目が一番苦手でした。そのお面と付けると、本当に鬼になっているのではないかと思い家中を逃げ回りました。幼いながらに「ないない、ないない(しまって!片付けて!)と必死に叫んでいたのを遠い記憶として残っているような気がします。両親はそのことを繰り返し私に話してくれました。そして、ある日節分でもないのに私が鬼のありかにおびえていたのを見て、これは本当にダメだということで処分してくれたそうです。
今朝の個所でイエスさまと出会うのは取税人レビです。これはマタイの福音書を書いた人物と同一と考えられ(ほかの弟子たちのリストから)、マタイの福音書でも「取税人マタイ」(10:3)と自分のことを記しています。彼とイエスさまとの出会いも「目」でした。「イエスは・・・収税所に座っているレビという取税人に目を留められた」(ルカ5:27)。もし、これが鬼のような目であったら、そこでイエスさまとレビとの出会いは発展しなかったのだと思います。しかし、イエスさまの目はそのようなものではなかったことが、読み進めていくと分かります。次に、イエスさまは「わたしについて来なさい」(5:27)と言われました。それにレビは従ったというのが27-28節の出来事です。
聖書に出てくる登場人物も、また私たちも、すべては神との出会いで人生が描かれていきます。具体的には神と出会う前、神との出会い、神と出会ってからという3つに分けられます。たとえば、信仰の父アブラハムは、神と出会う前は異国の地カルデアのウルという土地で生まれ育ちました。それから父テラに連れられてハランという土地まで行き移り住みます。神との出会いは「わたしが示す道へ行きなさい」(創世記12:1)というみことばでした。神のみことば通りに出かけ、たことが、アブラハムの生涯を新しくしていきました。神と出会った後は、アブラハムはたびたび罪や失敗をおかすのですが、その都度祭壇を築いて神に祈り、ささげ、悔い改め、感謝をし、神の約束を握って歩み続けました。おそらく神と出会う前のカルデヤのウルからの出発では多くの財産と親族、幼い頃からの夢を手放し、なんでか分からないモヤモヤした気持ちがあったことでしょう。神と出会ったとき、みことばに従うことの不安、勇気が必要だったことでしょう。神と出会ってからも決して順調ではなく、約束の子孫がなかなか与えられない焦り、苛立ち、犯した過ちの大きさにさいなまれたことでしょう。イサクをささげるとき、神に従い続けることのむつかしさ、恐ろしさを痛感したことでしょう。約束の地で手に入れたのはマクペラの墓地だけでした。それでも「アブラハムは幸せな晩年を過ごし」(25:8)、今や世界に広がる神の祝福の源、信仰の父として証しし続けています。それは、神がご自身と出会う前のアブラハム、出会い、出会ってからのすべての歩みと営みを導かれたからです。
この個所では、レビ(マタイ)の神と出会う前と出会いとが鮮明に記されています。神と出会う前のレビでわかることは、彼の職業でした。彼は収税所に座っている取税人です。当時の取税人は、いわゆる「きらわれ者」でした。それは人々からお金を取るという仕事の役割であると同時に、このガリラヤ州とローマ帝国とは支配関係にありました。ローマ帝国は、実に賢い方法を取って、支配している国からの税金をその国の人に集めさせ、それをローマ帝国に治めるようなシステムを構築していました。みな、支配されるのは嫌です。そうした不満が反乱としてローマ帝国やローマ市民に及ばないようにするため、属国の徴税はその国の者にやらせたのです。しかし、誰も自分から国民に嫌われるような仕事に就く人はいません。そこで、税を集める人は「好待遇」でリクルートしたのです。嫌われたり、肩身の狭い思いをするかもしれない分、高い給料、稼げる仕事として取税人のポストを用意したのです。そのため、この職業は人気でした!当時、ガリラヤで取税人になるためにはオーディションがあり、自分がどれだけローマ帝国に税金を収めるのか、その額が高い人が採用されました。それは、人々からどれだけたくさん、余分に税金を巻き上げるかということにもなります。取税人は富を築くかわりに、人々をだましたり、嫌われたりする仕事でした。それがここに座っているレビです。
文字通り、彼は取税人というイスに座っていました。それは「そこからは動かないぞ」という彼の生き方であり、ポリシーでもありました。自分は今までここで生きてきた、こうやって生きてきた。ちょっとやそっとのことでは揺るがない。初めはドキドキもしたし、罪悪感もあったけれど、そんなことを考えていたらこの仕事なんで続けられない。やるからには、徹底的に・・・そう言い聞かせながらでしょうか。収税所に行き始めた彼は日ごとに落ち着きを得、すごみを増し、気づいたら今日も定位置にどっしりと座るようになっていたのです。そんなとき、イエスさまがそこを通られ、目を留められました。そして、シンプルだからこそすべてを包むかのように「わたしについて来なさい」とだけ呼びかけられました。
私たちにも「もう変われないかもしれない」というしみついた惰性、「自分はこんなものだろう」というあきらめ、「これはこれで仕方がない」と振り払うこともしなくなった悪習慣があるかもしれません。自分では動こうともしない「座(イス)」に今も座り込んでいます。決して居心地がよいわけではないのに、そこから立ち上がれないでいる。そこにいるあなたに、イエスさまは目を留めておられます。
2. 驚くべき変化(28-30節)
イエスさまの呼びかけを聞いたレビについて、彼の言葉は何も残されていませんが「レビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った」(5:28)とだけあります。これは、私たちがあこがれる場面でもあると同時に、戸惑う場面でもあるかもしれません。こんなにスパッと従えるのはうらやましい、けれどいきなり「すべてを捨てて立ち上がり」なんてことが可能なのか。続く節を見てみましょう。「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした」(5:29)。これが「すべてを捨て」たレビの次の行動です。すべてを捨てたとは、彼が家を捨てたわけではありません。彼は「自分の家で」もてなしをしているからです。すべてを捨てたとは、彼の財産(持ち金)を捨てたわけではありません。彼は「盛大な」もてなしをしているからです。すべてを捨てるとは、いわゆる出家=財産を放棄して修道生活に入るという意味ではないことが明白ですね。
それでは、何をもってルカ(歴史家!)は「すべてを捨てて」と記したのでしょうか。おそらく、このあとレビは取税人をやめて、イエスさまの弟子として生涯を歩みました。レビが捨てたすべてとは、収税所に座り続けていた古い自分であり、人をだましても平然としていられる心であり、お金への執着や安心であり、もう変われないとあきらめていた昨日、いえ今日までの自分です。その「すべて」を捨てました。家や財産は、クリスチャンになってからも所持したり、使ったりしていくものです。しかし、その使い手である自分が変えられたら、それらのものは刷新されていきます。自分のために貯めこんでいたお金は、イエスさまと人々をもてなすために分かち合われるようになりました。それは、レビがお金自体を捨てたのではなくお金への執着を捨てたからです。収税所に座っていたその足は、イエスさまについて行く足に変えられました。足を捨てたのではなく、間違ったものへと向かう足を捨てたからです。ひたすらお金をさわっていたその手は、人々を癒したり、祈ったり、パンを配る奉仕する手へと変えられました。手そのものを捨てたわけではありません。家と税関の往復だった日々は、イエスさまと弟子たちと過ごす宣教の日々に変えられました。それまでお金を貯めることや人をだますテクニックに向けられていた心は、イエスさまについて行くことに魅力を感じるように変えられました。これがイエスさまに従う者に起こる変化であり、注がれる祝福です。
レビがそのようにできた理由は何でしょうか。それはレビが、自分に目を留めてくださったイエスさまをまっすぐに見つめ返し、自分にかけてくださったイエスさまのみ声をまっすぐに聞き、自分を招いてくださったイエスさまに立ち上がって応答したからです。「もっとよくわかってから」とか「今はそうじゃないし」とか「自分の力が満タンになったら」と逃げ道を作りませんでした。みなさんの中にも「聖書を全部読んでから」とか、「聖書を全部理解してから」とか、「自分の罪がなくなってから」と迷ったり、その時を待っている方がいるかもしれません。まずは「イエスさまに従う」という第一歩を踏み出すことを、レビは教えてくれているのではないでしょうか。決して無理強いされてではありません。自己救済や自己変革など不可能だった自分のもとに舞い込んだイエスさまの招待状であり、救いです。それが嬉しくてたまらなかったのです。その喜びを抑えきれずに、レビはイエスさまのために盛大な食事会を企画し、実行しました。
「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた」(5:29)。
なにせ、あのレビが人のために食事会を企画し、用意し、招待したのです。こうしたレビの変化は、それまでレビと同じ職場の人、レビの近くにいた人にとって大きなインパクトを与えました。私たちも、イエスさまに従う決心やその変化が出てくるとき、まず近くの人にインパクトを与えます。それまで見ていたあなたとは違う、この前会った時と顔が違う・・・そうやって気づいてくれるのは、見ず知らずの人ではなく、あなたを見ていた人であり、あなたの身近にいた人です。そして、その変化を歓迎する人もいれば、否定的な見方をする人もいます。
「すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」」(5:30)。
批判の理由は「取税人たちや罪人たちと一緒に」食卓を囲んでいることでした。新約聖書の時代、食事を一緒にすることは親しい友である証拠でした。イエスさまがザアカイの家に行ったり(ルカ19:7)、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着く(マタイ8:11)と言われたりするのも、食事をともにすることの大切さを教えるものになっています。食事をともにしているところには、親しい関係、平安な顔、喜びの会話、互いの祝福があるからです。そんな祝福の図に「取税人たちや罪人たち」がいることが、パリサイ人、律法学者には許せません。理解もできません。なぜなら、取税人や罪人=律法を守れない人たちが神の国に招かれるなんてもっともふさわしくないからです。同胞を苦しめ隣人を愛するなんてことができていない取税人が、なぜ神の祝福にあずかっているのか。いや、なぜイエスはそんな彼らのことを招き入れ、いっしょに食事をしているのか。罪人はおもに遊女を指します。彼らに汚されるではないか、聖であれという神の御心を思いっきり損なっているではないかと憤慨していたのです。ここにレビとの対比、コントラストがあります。レビはそれまでの自分をすべて捨てて、分け与える人、招く人、仕える人になりました。対して、パリサイ人、律法学者たちはそれまでの自分たちと何ら変わることなく、小声で文句を言い、交わりに入ろうともせず、他人の罪を指摘しています。最後に、この対比から学びたいと思います。
3. 恵みが届くか(31-21節)
レビ(マタイ)とパリサイ人とは何が違うのでしょうか。何が彼らを分けているのでしょうか。それは「神の恵みを受け取っているか」、「神の恵みが届いているか」の違いからです。そのことをイエスさまははっきりと告げてくださいました。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(5:31-32)
こうして見ると、パリサイ人や律法学者は、自分たちを「健康な人」、「正しい人」
と見ていました。当然です。生まれた血筋もいいし、聖書にも精通しているし、礼拝や献金や奉仕、お祈りだって欠かしたことがありません。立派な服を着て、人々からは尊敬されています。自分に足りないところや欠けているところがあるなんて許せませんから、そのあたりも徹底しています。まさに非の打ち所がない存在と実績を、自他ともに認め、誇っています。自分こそ、神の義にふさわしく、神の祝福にあずかるのが当然。だって、それに見合うことをやっているから!しかし、そこに神の恵みの届く余地はありませんでした。全部自分で間に合っていると神の恵みを断ってしまっています。
反対に、レビのような取税人、遊女のような罪人はどうでしょうか。自分が「健康な人」であり「正しい人」とはこれっぽっちも思っていません。いえ、そう思うことさえできない自分がいるのです。当時、取税人はユダヤの宗教行事からは除外されていた人々であり、絶対なってはいけない職業として口伝律法に定められているブラック企業でした。取税人は人をだましたり、同胞から税金を搾取するので、神の律法を守り行えないからです。遊女たちのような罪人も同じです。律法をよく知らないし、学んだこともないし、守り行うこともできません。人々からは軽蔑されますが、それで生計を立てるしか生きていかれません。みんなもそう思っています。だから、取税人や遊女は自分たちのことを「病人」であり「罪人」
だと認めるしかありませんでした。イエスさまは彼らのような病人を癒し、罪人を悔い改めさせて神の国に招き入れるために来たと言われるのです。彼らには、神の恵みが届いたのです。イエスさまは、収税所に座るレビのことを知っていて、目を留め、声をかけられました。彼の不正、くすぶっているもの、止められない罪の行為・・・すべてを知っていたからこそ、彼には恵みが必要だからこそご自分に従うように招かれました。
このあと、マタイは12使徒となり最後までイエスさまについて行きました。取税人は仕事上、速記と記録にたけていました。誰が、いつ、いくら払ったのか。誰が滞納しているのか、そうしたことを素早く正確に記録することが、彼の仕事の財産でした。その記録や速記の賜物がマタイの福音書を記すことに用いられました。すべてを捨てて従ったレビは、捨てた以上のものを神の国のために残してくれました。
最後の問いかけです。
あなたが今座っているところから立ち上がるように、イエスさまが問いかけておられるものはないでしょうか。
喜んで盛大にもてなし、人々に分け与え、仕えたレビ。自分のしていることに喜びを失ってはいないでしょうか。本当はできるのに、やれないと決めてしまっていることはないでしょうか。イエスさまから喜びをいただきましょう。
あなたには、恵みが届いているでしょうか。恵みの反対は自己義認、自己救済です。そこには高ぶりやプライド、他者への断罪や軽蔑があります。感謝や喜び、あわれみはありません。自分こそ、神の恵みが必要だとへりくだりましょう。
これらすべてのことを、自分でけりをつけるのではなく、もっとわかってからとタイミングを計るのでもなく、ただイエスさまの力に信頼して立ち上がりましょう。ただ、イエスさまのみことばに対して応答しましょう。
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