聖書 エペソ人への手紙4章1~6節 |
神に召され(1節)
❶ 究極のGPS
この手紙を書いたパウロは「主にある囚人」と自己紹介しています。文字通り彼は牢獄にいました(監視付きの家での生活)。それでも彼は「最悪です」とは言わず、「(神に)召された」ことを大切にしています。どんな状況であっても、嘆かず、自分でシャッターを閉じず、神の視点から考えていました。最近は多くの方がどこへ行くにも「グーグルマップ」を呼び出します。スマホに文字で検索したり、音声で聞けばすぐに目的地と道順を教えてくれます。運転や移動中は、それに聞き従えば必ず目的地にたどり着きます。現在地は青い丸、目的地は赤い丸、道順は太い線で示されます。それを見るとああ、大丈夫なのだと安心します。グーグルが居場所を特定し、これからも導いてくれるからです。
この感覚、信仰生活でも大切にしたいのです。「神さま、私はいまどこにいますか?」「主よ、ここからどこへ行けばよいのですか?」「イエスさま、脱出の仕方がわからなくなりました」と聞けば、主は教えてくださいます。もしパウロが自分の目だけで見ていたら、目の前は壁だらけ、脱出の道もなく、いつ解放されるのかもわかりません。しかし、主のGPSに聞くならば、今いる場所も主が置かれていることがわかり、主がともにいてくださることと信じることができ、この先も導いてくださると信頼することができます。それで、決して皮肉やあきらめではなく「私は主の囚人です」(1節)と言えているのです。私たちの立ち位置、居場所、行き先は主が知ってくださっています。この生命も、地球も、雨も太陽も酸素も身体も主からいただいたものばかりです。私たちの人生は、自分のものではなく、主からのものです。主からいただいたものばかり。主の恵みです。牢獄からでも「主よ」と呼ぶことのできるホットラインをパウロは持っていました。しかも、しっかり使いこなしています。ここでは電波がつながらないから・・・と落ち込んだり、投げ捨てないで「主」を求めて仰いでいます。
あなたが今いる場所はどこでしょうか。何か落ち着きがなくすぐ不安や心配の嵐に悩まされてしまうでしょうか。グーグルに聞くように、主に聞いてみましょう。主があなたの居場所を定めていてくださり、大丈夫だよと言ってくださいます。その声を聞くために、私たちは週の初めの日、主の宮に集まっています。
❷ ふさわしく歩みなさい
こうした神の声を「神に召される」と言います。この「召す」という語は他では「呼ぶ」「叫ぶ」と訳出されています。そして今朝の1節では「神に召された召しにふさわしく歩みなさい」とあります。ここにいる皆さんは、神さまからのこの声を聞いているのですね。少し柔らかく訳すと「あなたのことを神さまが呼ばれています。だから、その声が聞こえたなら、そこからそれずに歩き続けなさい」となります。たびたび、このエペソ人への手紙は「獄中書簡」と言われると紹介してきました。パウロが囚人であった期間に書かれた手紙です。新約聖書の中にはあと3つ「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「ピレモンへの手紙」があります。そして、この「ふさわしく」という語がピリピ1:27「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい」とかコロサイ1:10にも「また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ・・・」と使われています。そうです、どうやらパウロの中ではこの「ふさわしく」という語がマイブームだったようです。どうしても伝えたいメッセージとしていつも頭の中に出てくるのが「ふさわしく歩め」「ふさわしく生きよ」ということなのでした。「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」。
それは主が召してくださる、主が呼んでおられる道だから間違うはずがありません。主が必ず報いてくださいますから、後悔することがありません。主が喜びを与えてくださいますから、力尽きることがありません。社会はどんどん暗くなります。受験生や受験生を抱える家庭もおられますから、過度な言い方は控えなければと思いますが、それでも、これからの時代を生きて行くのは大変なことです。日本はもはや頑張れば報われる右肩上がりの時代ではありません。これまでにない個人の富裕層が増える中、子ども食堂や高齢者のケア、介護保険料や医療費の負担が増え、そのかわり年金は減っています。消費税は上がるけれども、給与は上がりません。格差がどんどん広がる中で、置いてきぼりにされたと感じ、自己責任を押し付けられて自分の価値を見失い、次にたちあがるきっかけや可能性を見出すことも難しい時代です。そうした中で、私たちは主の声を聞いているのです。神の呼び声は、別世界に鳴り響いているのではありません。この地上で悩み、罪の世界に苦しんで溺れそうになっている、いや、その中で死んでいた私たち(エペソ2章1節)を、主は救ってくださり、その後どのように歩めばよいのかを導き出してくださるのです。この声を聴くために私たちは礼拝に集まり、心の耳を傾けて集中します。牧師である私は、聖書を語ることができるようにたくさんとりなされ、祈られています。さらに牧師の務めは、みなさんが聞いて終わりではなく、教会で聴く神の呼び声にふさわしく歩むように「勧めます」。これは「励ます」とか、時には「慰める」とも訳される語です。ただ声を大にして「従え~~」と言い張るだけでなく、ここで語られ、聴かれる神の声に従う気持ち、心、力、促しが与えられるようにというのも牧師の務めです。だれも「あなたはまだ基準に達していない。ここまで理解し、ここまでやらなければいけないのに、できていない。まだまだだ」と言われたとしたら、その後やる気は起きてきませんね。それで俄然やる気になるとしたら、飛び抜けてストイックな賜物のある人です!
ここでパウロがエペソのクリスチャン、会衆に語りかけているように、多くの者は主の呼び声に従っていこうとの「勧め」「励まし」「慰め」が必要です。私たちに素質や見込みがあるから召されたのではありません。全能の神が私を、あなたを決してあきらめないからこそ召してくださっているのです!神が見捨てず、必ず手を取って導き続けてくださるから、私たちは今日からふたたび立ち上がるのです。今朝、あなたの目の前に来て「わたしに従いなさい。ついてきなさい。最後まで呼び続けるから大丈夫」と言ってくださるお方の声についてまいりましょう。
2. 召しに応えて(2~3節)
❶ 限りを尽くす生き方
では、「ふさわしく歩む」とは具体的にどのようなことなのか。どのような生き方なのか。2節から並んでいるのは「謙遜」「柔和」「寛容」「愛」という御霊の実(ガラテヤ5章)として知られているものが続いています。これらの「限りを尽くして」そうしなさいとも言われています。謙遜の限りを尽くし、柔和の限りを尽くし、寛容の限りを尽くし、愛の限りを尽くす。なんでそこまでしなければならないのか。ここまでのことを求められているのか。それは「主にある囚人」としてパウロも経験したことでした。主イエスが謙遜と柔和と寛容と愛の限りを尽くしてくれたからです。それによってパウロは救われたからです。自分が主の謙遜によって忍耐してもらったことを知ったからです。自分は主の柔和がなければ赦される者ではなかったことを知ったからです。自分は主が寛容を尽くしてくれなければ受け入れてもらえるような者ではなかったことに気付かされたからです。自分は、主が愛してくれなければ、自分の価値を知ることがなかったからです。
主がその限りを尽くして=限界をもうけないで尽くしてくださった。そのことがパウロにとっては生きる動力になりました。主にそうしてもらったのだから、自分もその限りを尽くしてみよう。ここに挙げられている「謙遜」「柔和」「寛容」「愛」の共通点は何でしょうか。修行をすれば習得できるものでしょうか。山ごもりをすれば徐々に身につくものでしょうか。いいえ、そうではありません。そうではないものばかりです。これらの共通点は「人を相手にして発揮する」という点です。相手がいなければ謙遜にはなれません。謙遜の訓練もできません。相手がいなければ柔和に接することはできません。一人で「柔和」ができるとしたら、それはそう思っているだけ、そういうつもりなだけです。相手が出てきた瞬間、その柔和は吹き飛んでしまうことでしょう。寛容は、相手がいて、しかもイラッとしてこそ出番が来るものです。ある程度までは寛容でいられるけど、それを超えるともうダメ、というのは寛容でもありませんし、寛容の限りを尽くしてとは言えません。もうだめだ、キレそう・・・からようやく始まるのが寛容だからです。
それに念を押すようにして「互いに耐え忍びなさい」と2節の終わりで言い切っています。相手に対して謙遜、柔和、寛容、愛を尽くすことを見てきましたが、それは自分だけが取り組んでいることではありません。「互いに」そうすべきだし、それぞれの期待値まで成熟しなかったとしても「耐え忍」んでいることが大事だからです。自分だけが精一杯なのではない。相手もそうなのだと思ってこそ「互いに耐え忍び」が成立します。「私だけが苦労している」「あの人はいつも楽をしている」という見方をしていると、いずれガソリンも気持ちもキレてしまいます。そうではなく「互いに」を忘れずに。それは、私たちが自分の目の中の梁(大きな柱・木)には気づかず、他者の目のチリには相当厳しくある傾向を知っておられる方からの励ましです。主はときに私たちがキレやすく、いつも自分をかわいがいがる方に傾くのを承知の上で、互いに耐え忍ぶことを求めてくださっています。以前はここでキレていたのに、今はそれがなくなった。あの人のことを悪く思っていたけれど、とりなせるようになった。そうした変化が自分の中に訪れたとしたら、それは相当喜ばしいことです。生きるのが楽になり、喜びを感じるようになります。それを可能とするのは、御霊です。3節の結びを見ましょう。
❷ 「御霊による一致を保ち」
謙遜、柔和、寛容、愛のかぎりをもって互いに耐え忍ぶためには、「御霊による一致を熱心に保ちなさい」と記しています。聖霊なる神は、上から下に向けて流れるようにして注がれ、壁を作りません。硬い土地を潤す水のように土地を耕し、ひからびた地下から泉のようにいのちの水を湧き出させ、うめく人にはそばに駆け寄り、忘れっぽい人にはみことばを教え、怒りっぽい人をなだめ、不安な人といっしょにいてくださいます。次の4節で「御霊は一つ」と言われているように、すべての人にこの御霊が働いて、一つひとつのことをなさせてくださいます。互いに耐え忍ぶだけでなく、互いは御霊が注がれ、御霊が期待され、御霊が大事にしておられる存在。御霊の一致とは、私たちがすべて同じ人間になることではありません。私たちが全員同じ性格になり、趣味も、好き嫌いも、話題も同じになることではありません。また、たとえそれらが同じになったとしても争いは終わらないでしょう。子どもが好きな遊び道具が重なるとケンカになるのを見たことがありますもの。
そうではなく、私たちは「御霊による一致を熱心に保つ」ことです。御霊は私たちをそれぞれの姿かたちで召してくださっています。私たちをここで一つに集めてくださっているのは御霊です。私たちはそれぞれ違っても、一致させてくださるお方がいれば大丈夫です。そのお方こそ、御霊です。この御霊の働きを制限させないとき、私たちには真の一致が与えられてきます。すなわち、「主よ、あの人とはソリが合いませんからこの教会から追い出してください。さもなければ私が出ていきます」と言えば、人間による分裂はあっても、御霊による一致はありません。しかし、私たちが本気で「互いに耐え忍ぶ」ことをよしとし、「御霊が一致させてくださる、まとめてくださる」と信頼するならば、私は私として、あの人もあの人として許せるようになります。なぜなら、御霊が私たちを一つに、一つのからだとしてくださるのだからです。みんなが違う中で、御霊による不思議な一致を体験できる、味わう、期待していく。人間による一致(同じ)ではなく、御霊による一致を感じられる。あの人も、この人もいるからいい。私もいられる。そんな福岡めぐみ教会でありたいと願います。
3. たどり着く(4~6節)
❶ 望みに向かう召し
4節は再び「召し」から始まります。それは「あなたがたが召された、その召しの望みが一つ」と丁寧に説明されています。なんだかよく分からない日本語ですが、当然原文も同じようになっています。「召し」という神から始められた呼びかけを大事にしながら、その召しが「望みは一つ」であるという内容を持つものであると展開している箇所です。つまり、神さまはあなたがたを一つの望みへと召しておられる、となります。それはエペソ1章にある「時が満ちて・・・天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」(1:10)です。次のピリピ人への手紙で言えば「天にあるもの、地にあるもの・・・すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」(ピリピ2:10-11)と記されています。世界中のすべての人が、その口をもって「イエスは主です」とほめたたえるようになる。これこそ、神による召しが達成する光景です。キリストが主として告白される。これが主の望みであり、私たちの望みです。私たちの交わりから、そのことが実現しています。そして、その交わりが日に日に小さくならず、豊かになり、増やされていくこと。これが望みに向かう私たち教会の姿です。「からだ=教会は一つ、御霊は一つです」とは分裂や決裂を好まない御霊を悲しませることをしないように、との逆説的な命令にもなっています。
❷ 一つというゴール
5~6節はさらにたたみかけるように「ひとり」「一つ」が続きます。「主」と「父なる神」は「ひとり」であり、「信仰」「バプテスマ」は「一つ」です。私たちの側のことで整理をしていくと、「信仰」と「バプテスマ」が一致のためには重要な要素であることがわかります。みんな違ってよいのだけれど、信仰という心と口の告白と、バプテスマ=洗礼という目に見えるしるしは大事にしてほしい。逆に言うと、いわゆる洗礼を受けたクリスチャンとまだ信仰やバプテスマにおいて同意していない人とは一つではない、同じではないよ、ということです。これは寂しく感じる方もおられるかもしれませんが、大事な点です。もし、私たち教会から「クリスチャンもその他の宗教の人も一緒です。一つです。人類みな兄弟、家族です!」と言い広めたとしたら、問題ですよね。逆にちょっと危ない宗教、強い思想になってきます。もちろん、主がすべての人を造られ、愛しておられますから、その価値に差や変わりはいっさいありません。けれども、私たち人間の側ですべての人とは兄弟姉妹、家族と言い始まるとしたら、イエス・キリストの十字架はどうなるのでしょうか。なぜ、イエスさまはご自身のからだを釘付けにされたのでしょうか。なぜイエスさまは苦しまれながら血を流されたのでしょうか。そもそも、神の御子であったお方が天の御座をおり、人となられたのでしょうか。それはイエスさまが人間の罪を背負い、十字架につけられ、すべての罪過を引き受けてくださったからです。そのままでは誰も救われることがないから、ご自身が犠牲となって、罪人である私たちを救ってくださったのです。それを信じて告白することが「信仰」であり、そのしるしとして受けるのが「バプテスマ」です。だから、私たちが「信仰」や「バプテスマ」を抜きにして、神の家族とか、私たちは一つとか、すべての人は兄弟姉妹と言うことはできないのです。それは、キリストの犠牲を無にすることだからです。
キリストの十字架を痛みとともに感謝し、キリストのよみがえりを希望として受け取り、キリストを主として生きていく。このことを受け入れ、信じ、告白し、バプテスマに授かる者たちを指して、「からだは一つ」「召しの望みが一つ」「信仰は一つ」「バプテスマは一つ」と言われてるのです。これは人間と人間との間に線を引くとか、信仰を持っていない人を差別するとか、除外するというものでは決してありません。キリストを主とし、キリストのみわざに拠り頼み、キリストに栄光を帰するからこそ、このようにするのです。そして、教会という建物に入ったから、家族がクリスチャンだから、礼拝に来てしまったから一緒にされてしまう・・・私ってクリスチャンなの?という不安を整理していただいて安心していただきたいと願います。そして、時が満ちてご自身の心でイエスは主ですと信じ、口で告白し、バプテスマに授かる日が早められることを願ってやみません。
<了>
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