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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「あなたを強くする方」


聖書 エペソ人への手紙6章10~13節

質問 「あなたは悪魔を信じますか?」


Ⅰ. 悪魔のささやき(10-12節)

  1. 悪魔の存在

少しショッキングな聞き方かもしれませんが、今朝は悪魔に関する教えから始まっています。パウロがエペソの教会の人たちに「終わりに言います」と言ってから「悪魔の策略・・・もろもろの悪霊に」対抗しなさいと告げています。エペソの手紙を大きく分けると1~3章までが神の救いのみわざについて、4~6章は具体的な教会生活、クリスチャン生活について記されています。その終わりに「悪魔」に気をつけることをもって締めくくるのです。神の救いを経験し、これからクリスチャンとして生きていくうえで、悪魔の正しい理解が重要だと言うことがわかります。


クリスチャン生活って悪魔に気をつけるんだ・・・とうなだれてしまうかもしれませんが、この逆のこと、たとえば私たちには御使いがいて守ってくださることも記されています。へブル人への手紙1:14「み使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか」を読むと、なにかホッとするような気持になります。しかし、それだけでなく霊の働きは活発であり、それはイエスさまもご存知で、警戒するように祈ってくれています。


「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)


この個所は重要です。なぜなら、イエスさまご自身が、キリストの弟子たち、クリスチャンはサタンから攻撃をされて、その信仰が危ぶまれるのだと言っておられるからです。それゆえ、イエスさまが今もとりなして、信仰がなくなってしまわないように祈ってくださっているのです。私は祈られ、あなたも祈られている。もうダメだというところまで追いつめられたとしても、この聖句を握っていたら、信仰を奪われることはありません。どれほど大きな揺さぶりを受け、ふるいにかけられ落ちぶれたとしても、イエスさまが信仰の根っこ、小さな種のような信仰がなくなってしまわないように祈っていてくださる。そうして、谷底に落ちるようなことがあってもそこから引き上げられ、立ち直ったら兄弟姉妹を励ますこともできるようになります。自分の力ではなく、イエスさまが力をくださること。自分で守るのではなく、イエスさまが守ってくださることを知ると、信仰はさらに強められるからです。ガラテヤの手紙でも「今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして」(ガラテヤ4:9)しまうのですか、と神の側で私たちを知り、守っていてくださることを思い出すよう教えています。信仰とは、自分で頑張るものではない、自分を守るようにするのではない、自分の力で神を引き出すのでもない。むしろその逆で、神があなたを守ってくださること、支えてくださること、引き上げてくださること、知っていてくださること、決して忘れずに覚えていてくださることに信頼することです。ただ、それを打ち消すような悪魔の存在があることをイエスさまも、またパウロも教会に向けてたびたび警告しています。今朝は悪魔の存在を認め、またそれを凌駕する神の守りを教える個所です。


  2. 悪魔の働きとその目的

最初の質問に戻ります。「あなたは悪魔を信じますか?」

これは「悪魔が強い」とか「悪霊に結局負けてしまう」「悪魔に身を明け渡すこと」を信じましょう、という質問ではありません。悪霊の存在や戦いなどはない、と思ってはならないという意味です。今朝の個所によると悪魔は  「策略」をもって近づいてきます。「策略」とはよく考えられた作戦、念入りの計画です。どんな作戦かというと「あなたをキリストから引き離しちゃうぞ キャンペーン!」をしているのです。こんなことを言うと、馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれませんが、実はサタンはとっても巧妙なのでその「神から引き離すキャンペーン」ののぼりを隠して近づいてきます。


今は、悪徳な訪問販売も実に巧妙です。一昔前のように強面の男性がすごんだり、脅ししたりして売りつけるような訪問販売はしません。むしろ人当たりの良い青年などを使って「近所でシロアリ駆除をしています。この辺りは湿気も多いので大変ですよね。よかったら無料で診断いたしますのでいかがでしょうか」とか「外から屋根を見ていたら瓦がはがれていたので、心配でお尋ねしました。格安で修理しましょうか」などと言って入り込み、他に壊れている部分があるとか、最初の契約書に法外な項目を小さな字で書いておいて高額を支払わせたりします。〇〇詐欺なんかも息子、銀行員、市の職員、ケアマネージャーなどを装い、まずは親身で味方のふりをして近づきます。それが、大切なものを奪い取るための手段だからです。悪魔は虫歯のイラストのように分かりやすい姿、見分けられる方法で近づいてはきません。それは無駄骨だからです。悪魔は巧妙なテクニックやタイミングを用いて巧妙な「策略(計画、プログラム)」によってあなたをだまそうとするのです。


悪質訪問販売の目的は金銭ですが、悪魔は「私たちの信仰」を弱らせ、奪おうとします。「神なんていないじゃないか」「信じていても仕方がないよ」「聖書なんて人間が書いた言葉だ。ノアが950歳まで生きたなんて神話じゃないか。そんなものに頼ってどうする」「もっと自分を信頼して切り拓かなきゃ世の中やってけないよ?」と疑いを挟み込み、いい感じに誘惑をしてきます。「教会生活って結局面倒だよね」「奉仕って都合よく使われているだけじゃない?」「献金が本当にちゃんと使われているかどうか調べた方がいいよ」「祈っても空しいだけさ」とあの手この手を使って悪魔はひっそりと忍び寄ってきます。あなたの味方、あなたの理解者、あなたをわかっている者を装って近づきます。


サタンの目的はただ一つ、私たちが主についていくことの邪魔をしたいのです。悪魔は自らがイエスさまに勝てないことを知っています。「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」(ヤコブ4:19)。悪霊(悪霊と訳される場合そのほとんとが複数形。悪魔は単数形。それらは主従関係にあると思われる。が、聖書は悪魔や悪霊の起源、秩序に関して必要以上に詳しくは教えていない)は自分たちが神に太刀打ちできないことを知って、ぶるぶると身を震わせているのです。最後には「火と硫黄の池に投げ込まれ・・・世々限りなく苦しみを受ける」(黙示録20:10)ことを知っているからです。それなので、一人でも多くの人間を道連れにするために日夜必死に、悪賢く働いています。パウロは、終わりまで私たちが信仰のレースを走り切るように、この悪魔の存在と策略を知り、警戒するように教えています。


Ⅱ. 神の武具(11,13節)

  1. 強められる

悪魔の存在と策略を教えるだけでは、人間は敗北してしまいます。それはすでにはじめの楽園、エデンの園で証明済みです。私が神学生だったころ、創世記を教えるクラスで「もし、あなたがエデンの園にいたら、善悪の知識の木から食べなかったと思う人?」と聞かれ、私は手を上げました。クラスで一人だけでした。教授に「どうしてそう思うのですか」と聞かれたので、「私だったら食べなかった自信があります」と答えました。今になったらとても恥ずかしいですし、神さまにも自分だけは救い主はいらない、自分だけでうまくずっとやっていけますと言っているようで、とても傲慢だと思います。


創造主なる神は、私たち人間を神のことばを聞き、覚え、従いつつみこころを行うことを素晴らしいことだとしてお造りになりました。絶対に失敗しないロボット、完璧にプログラムされたサイボーグとして人間を造ることはなさいませんでした。なぜなら、神は私たちと愛の関係でいることを願われておられるからです。神のことばを聞くと言う応答の関係。誘惑や試みのある中で神の側を選択するという信頼の関係。これを求めておられるからです。また、それができるように人間は造られました。自ら神のことばを聞くこと、神のことばを思い出すこと、信仰の目でこの世界を見て生きること。アダムとエバの時代にも園の中央の木の前「これは食べてはならない木です。食べたらあかん!」という看板があったわけではありませんでした。あくまで、聞いた神のことばに基づいて、目の前のことを選択していく。そうして神との愛や信頼関係、喜びを味わうように造られていたからです。しかし、それは蛇の誘惑によって打ち砕かれました。神から聞いたことをねじ曲げ、自分の目で見たもので判断し、自分がしたいと思うことをするようになりました。すべてを神なしで考え、行動するようになったのです。人間の堕落は早いものでしたが、神さまは同じ創世記3章で救いの約束をもしてくださり(創世記3:15:原福音と呼ばれる)、回復の道を示してくださいました。いとも簡単に誘惑した悪魔の勝利のように見えても、神はそれを打ち砕き、勝利されると宣言なさったのです。主は悪魔より強いお方であることを示されました。


今朝もそれと同じことを告げます。

「主にあって、その大能の力によって強められなさい(命令形)」(10節)。

主は悪魔より強いお方であること。悪魔の策略がどれほど巧妙であっても主はそれよりも賢いお方であること。何より、主はその力を信じ近づく者を力づけ強めてくださるお方であること。この10節により、私たちは力の源を主に置き、弱い部分をさらけ出して主に働いてもらうようになります。悪魔は「あなたが頑張っても状況は変わらないよ」「無理って言えば楽になるよ」「いくら家族伝道してもムダだよ」「なるようにしかならないんだからほっとくことさ」とささやきます。しかし、それを打ち消すように「強められなさい」「主にあれば、あなたは力に事欠くことなど決してない」と宣言してくれます。この神のことばの下に身を置けるかどうか。礼拝はそのために最高の場です。


  2. 着ける

神によって強められることを「神の武具を身に着けなさい」(11節)、「神の武具を取りなさい」(13節)と2度同じ言葉で表現されています。私たちが強くなることや、果敢に悪魔に立ち向かう技術を備えるのではなく、「神の武具を着ける」ように教えています(具体的な神の武具はこのあと6章14~17節で説き明かされていますので、次回学びます)。「武具」は戦いのための道具です。私たちは悪魔と戦わなければならない、戦っていかなくてはならない。戦うことなしには、勝利もない。はじめっから負けていては、悪魔の思うつぼです。しかし、生身の自分で戦いに出てはなりません。自分なら勝てるだろうと自分の知恵や力に頼ってはなりません。それではすでに敗北したエデンの園の繰り返しです。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主である・・・わたしはこれらのことを喜ぶ」(エレミヤ9:23-24)と言われるとおりです。


私たちは主によって、この戦いに臨みます。その戦いとは12節を見ると「私たちの格闘は、血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち・・・もろもろの悪霊に対するもの」です。これら「支配、力、支配者たち」はすべて複数形で書き記され、相当と手ごわい、強敵がうじゃうじゃとうごめいている図式をイメージさせます。その支配者らは霊なので目に見ることはできません。簡単で分かりやすい悪魔の姿、虫歯バイキンのようではないのです。「しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します」(第二コリント11:14)とあるからです。けれども、私たちは悪魔の支配力や影響力ははっきりと目にすることができます。人が悪に傾くのを見ます。この世で犯罪がなくならないことにうんざりします。信頼していた人に裏切られたり、友人に陰口をされたり、正義よりも妥協を迫られたりします。時には石ころや風船によって礼拝や説教の雰囲気が壊れることもあります。祈ろうとしても口に出すのも面倒に思うこともあります。空を見て、孤独に押しつぶされそうになることもあり、海を見てすべてを投げ出そうと思うこともあるかもしれません。神から引き離そうとする力は働いていることを認めざるをえません。それらはとても残念ですし、胸の痛むこと。また世が暗闇であり、腐っていると嘆きたくなることです。


しかし、そう思うのは、あなたが神の側に立つようになったからとも言えます。神の側に移されたので、敵の存在、影響力が判別できるようになった。クリスチャンになるまでは、教会の礼拝に集うようになる前までは、意識してこなかったことがたくさんあると思います。善悪よりも人の目が気になっていたことに気づいた、日曜をはじめとする過ごし方を考えるようになった、どうしても聖書のことばがひっかかる、教会の人に相談しようと思う、クリスチャンならこの場をどうするだろうかと考える、神さまが味方でいてくれるから安心できるようになった等々。そんな変化があるとしたら、それは暗闇の力、悪魔の支配から抜け出しているしるし、変化のきざしなのかもしれません。血肉ではなく霊の戦いなので、あなたの身体が無理やり動かされたり、力づくで何か嫌なことをされるのではありません。同じように、神の武具によって強められることも、腕っぷしが太くなったり、身なりが武士のようになるのではなく、霊において神のそばに近づけられていくことです。たとえば、自分が嫌なのにテレビの前に移動させられて、目を大きく開けさせられることはありませんが、ずっとスマホを見たり、youtube動画を見たり、ズルズルと陰謀論ひ引き込まれたりしてハッとすることはあります。霊は巧妙にそっと働いて変化をもたらすからです。同じように、神の武具も身近に聖書を置いて目に入るようにしたり、スマホで聖書を聞いたり、短くても祈ったり、クリスチャンとふれる機会をもってみることで強くされます。そうして過ごし方、考え方、言動や醸し出す雰囲気さえも変えられていきます。外見を変えるよりもよっぽど自然で、インパクトを与えるものになりますね。 く立つ(11,13節)

  3. 堅く立つ(11,13節)

最後に神の武具を着ける意味について学んで終わりましょう。それは「堅く立つ」ためだと11、13節そして来週の14節で繰り返されています。私たちは壮絶な戦いの最中にありますが、最後に迎え入れられるのは神の国です。私たちのための場所を用意して、イエスさまが迎えに来てくださいます。それまではこの戦いが止むことはありません。そこで大事なのは、神に愛されている子としての土台にしっかりと立ち、主が強くしてくださることを堅く信じることです。私たちの信じるお方は勝利者、それも「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37)だからです。それでもなお、戦いがあります。


マラソンを例にあげてみます。マラソンは42.195キロを走る競技です。そのゴールシーンを思い浮かべてください。満員の競技場に入り、歓声に迎えられますがすぐにゴールテープはありません。一周どころか二周してやっとゴールテープを切ります。もう42キロくらい走って来たので足元はヘロヘロです。もっとも苦しい表情をするのも競技場でのランかもしれません。そこで熾烈な競争もあります。倒れてしまい、抱え上げられて失格になる人もいます。私はこの光景がクリスチャン生活と似ている部分があるなと思います。すでに栄冠のゴールは決まっています。キリストが死に勝利し、よみがえられ、天において神の右の座に着いておられるからです。けれども、そこにたどり着くまでがつらい。疲労がたまり、最後の底力を出さなければ倒れてしまう。もう少しのところがいつも勝負所。けれど決してあきらめない。進み続ける。私たちには戦いがあります。しかし、それは勝利が決定している戦いです。必要なことは、勝利者イエスに信頼すること。勝利者イエスを見続けること。霊において礼拝し、霊において主イエスに満たされ、霊において主イエスに近づき、霊において主に信頼することです。


「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)


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