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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「あなたを新しくする神」

更新日:2023年8月9日


聖書:創世記17:1-8

1. 主の期待

本日は創世記、アブラムが新しい名前=アブラハムと呼ばれるようになる箇所です。聖書において名前そのものにも意味が込められており(私たちの名前も同様)、文字や響きだけでなく、その人の本質や内実、生き方などを表すものです。ここでアブラムが新しい名前で呼ばれるのは、彼自身が新しくされたこと、それまでとはまったく違う世界に生きることを意味します。同じように、私たちも礼拝ごとに新しくされる恵みにあずかりましょう。それは単なる新しい週、日付ではなく、新たな思い、新たな確信、新たな目当て、新たな力をいただく経験です。


本日は創世記17章からですが、その書き出しは「さて、アブラムが99歳のとき」です。前の16章を見てみると、アブラムが86歳のときの記事で終わっています。その間は・・・13年になりますね。ときどき、アブラハムのように神さまが直接話してくださったり、頻繁に交わりがあったらいいなあと考えることはないでしょうか。あるいは、聖書の書かれている時代に生きていたら、神さまがもっと身近に感じられ、強く信じることができるのにと考えることはないでしょうか。


けれども、この17章の滑り出しは重大な事実を告げています。それは、アブラムも普通の生活を13年続けていたということです。来る日も来る日も直接神さまからお告げがあったり、御使いが頻繁に現れていろいろと教えてくれたりするわけではありませんでした。その点において、まったく私たちと同じ状況、環境で過ごしていました。アブラムが試練にあったり、戦いに勝利したり、エジプトの王と交渉したり、飢饉に悩んだりしています。けれども、それは毎日そのようなことが起こっていたのではありません。神さまの特別な介入も毎日あったわけではありません。聖書に記されているような出来事を経験する日もあれば、まったく何もない日、何も記録するようなことが起こらない月日もそれ以上にありました。そして、それがここでは何と13年間続いている、神による特別な介入が13年間のブランクがあるということです。


なんだか、私たちと似ていますね。特別な出来事がそんなに起こらない。神さまの介入や奇跡をあまり経験したことがない。ビビビッと雷に打たれるような目覚めの一撃を向けられることもない。しかし、それもここでの13年間と同じです。その間も主は生きておられ、アブラムを見続けてくださっているように、あなたのこともご覧になり続けてくださっています。私たちは普段通りの生活を恐れないようにしましょう。何もないような日々が続くとしても、神さまとの交わりは断絶している、その関係が冷えてしまっていると思わないようにしましょう。それが16章と17章の境目にあるメッセージです。


アブラムも何もない13年間をただボーっと過ごしていたわけではありません。それまでと同じように天幕に住み、家族と過ごし、働いて養ったり蓄えたりし、祭壇で礼拝をささげ、祈りの生活をしていました。それだからこそ、実に13年ぶりに主が現れ、語りかけられたとき、即座に反応することができています。決して主を忘れたり、主の現れを疑ったり、主の声を聞き逃したりはしませんでした。信仰者アブラムとして、日々の積み重ねを怠ることはありませんでした。私たちの礼拝生活の意味もここにあると思うのです。鍛冶屋が毎日刃物を研ぐように、靴屋が毎日靴を磨くように、料理人が毎日包丁を握るように、私たちクリスチャンは毎日主との交わりを持ち、神の声を聞き、神に祈り、神の前で悔い改め、神の赦しや恵みを自分のものとして味わっていく。それを続けていることに大きな大きな意味があります。福音中心の生活は、日々神との豊かな交わりに生きることです。すぐには出来上がりません。すぐに信仰が強くなったり、福音宣教の情熱が爆上がりすることも多くはありません。毎日積み上げてこそ、成長や高みへと進歩していくことができます。主との交わり、また互いにそのことを励まし合いつつ、毎日進めていきましょう。


さて、その内容を見てまいりましょう。主はアブラムに対し「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(17:1)と仰せられました。これも聖書の面白い点で、99歳の人間に言うことではない内容になっています。創世記を読むとアブラハムの生涯が175年(創世記25:7)、ここでは半分を少し過ぎたくらいだとわかりますが、「そんなに若くはない」ことはアブラム自身も自覚していたようです。同じ17章で、アブラムとサライ夫婦に子どもが生まれることを主から言われたとき「心の中で100歳の者に子どもが生まれるだろうか。(10歳下の)90歳の妻に子どもが産めるだろうか」と笑っていたとあります(17:17)。彼ら自身、もう子を生むことのない年齢であると自覚していたし、それが当時の常識的な認識であったようです。その99歳に対して「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と主は言われたのです。


ここから、主は心底私たちに期待をしてくださるお方だということが分かります。相手が何歳であっても「わたしの前を歩め」「全き者であれ」と全力で言ってくださるからです。ここの「全き者」は他では「傷のない(雄を献げなさい)」(レビ1:3)と言われているのと同じ語です(英語ではblameless:責められるところのない)。つまり、神さまは99歳のアブラムに対して傷のない、完全な者であるように期待しておられるということです。これは、人間同士ではありえないことです。たとえば、あなたに99歳の家族がいたとしたら、何と声をかけるでしょうか。「おじいちゃん、ゆっくり歩いてね。無理しないでね」「おばあちゃん、何かあったら私に頼んでね。おばあちゃんは何もしなくていいからね」とできるだけ気遣い、年配者が無理をしないように心配するはずです。誰も99歳の人に向かって「完全であれ!」とは言わないのが人間同士です。


しかし、神さまは違いました。アブラムに対して、まるでこれから人生の本番が始まるような熱意で語ってくださいます。それまでのアブラムの99年間が完璧であったわけでは決してありません。アブラムは75歳までははっきり主を知らず、偶像や様々な文化、価値観に囲まれて生きてきました。生まれてからこの方一度も道を外れたことのない完璧な人物などではありません。主を知ってからもサライのことを妹だと偽って自分の身を守ろうとしたり、女奴隷ハガルにあわれみをかけることをしなかったり、ゲラルの王アビメレクに対して、こう言っておけば自分の命が助かるだろうと考えて、またしてもサラを妹だと偽ったりもしてきました。まったく完全な、義の生活、正しい人ではなかったのがアブラムです。もうその人生も折り返し地点を過ぎて、大半の性格や知識、行動履歴、口癖は変わる見込みがありません。それでも、主は「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と仰せられます。私にも、あなたにもそのことばを全力で言ってくださいます。「あなたはわたしの前を歩んでいるか」「あなたは完全であれ」「傷のない者であれ」「しみもしわもない者であれ」と言われます。これは重たく、そんなの無理と言ってしまいたくなるかもしれません。


しかし、この反対だったらどうでしょうか。「アブラム、これまでの君の行動を見てきたよ。全部知っているさ。あんな罪も犯し、こんな失敗もしたよね。だから、これからは適当でいいよ。せいぜい頑張ってくれればそれでいいからね~。だって、そのくらいが君にとったらちょうどいいでしょ。君が完全な人として生きるなんて100%無理だし、90%もいかないだろう。そうだな、せめて半分を超えたくらい51%を目指してくれたまえ。それで十分だし」と言われる神さまだったらどんな印象を受けますか?優しいでしょうか? いいえ、それはあなたを見限る神さまです。出来なかったら切り捨てる神さまです。期待値に届かなかったら部署を移してお払い箱にする神さまです。それは福音ではありません。


神さまは、今からでも100%の期待をかけてくださるからこそ、アブラムを新しい名前で呼ばれました。年齢に関係なく、実績に関係なく、限界を定めないで限りない期待をかけてくださるお方です。そして、私たちにも同じ接し方をされ、同じメッセージをくださり、一新してくださるお方です。この方のことば、この方の思い、この方のまなざし、この方の期待を知るからこそ、私たちはここで新しくされるのです。


2. 礼拝と応答

このように神さまは、アブラムを、私たちを値引きなく、疑いなく期待をかけてくださるお方です。だから、私たちは疑わずにそれを受け取りたいのです。神さまが「わたしの前を歩み、全き者であれ」と言ってくださっているのに、私たちで「いいえ、それは無理です」「ほかの人に言ってあげてください」と疑ったり、辞退したり、遠慮したり、スルーするならば大変なことです。これから、自分のことは自分でしなければなりません。自分で期待して、自分で慰めて、自分で評価して、自分で褒めて、自分にあきらめをつけなければならないとしたら、それは大変しんどい生き方です。私たちは、自分で自分を評価したり、コントロールするのではなく、自分を愛に基づいて期待してくださるお方、正当に評価してくださるお方、あわれみをもって接してくださるお方が必要です。


アブラムは、自分の恥ずかしい行動もすべてご存知の神さまが「今でもお前に期待している。今から傷のない人生を歩め」と言ってくださったとき、そのことを受け取りました。それがここでの彼の姿勢に現れています。「アブラムはひれ伏した」(17:3)。この17章でアブラムのセリフは17節にしか書かれていません。しかも、それは心の中の事で、実際に発したことばではありません。あとは全て神さまがアブラムに語られたことと、アブラムがそれを聞いてどのようにしたのかという応答が記されているだけです。それが創世記17章の特徴です。


そうです、主への礼拝は主のくださるものに対する私たちの応答です。主が素晴らしいものをくださるので、私たちも素晴らしいもの、最高のもの、最善のものをささげたいのです。礼拝の時間を取り分けること、体調を合わせること、賛美を高らかに歌うこと、新しい洋装を身に着けること、古いものを脱ぎ捨てること、表情豊かにすること、献金を聖別しておくこと、奉仕者の名前をあげて祈ること、隣に座っている人の祝福を願うこと、新しく来られた方が不安にならないようにケアすること、疲れた人や重荷を負っている人を支えること、励ますこと、微笑みをおくること・・・これら一つひとつは義務でもやせ我慢でもなく、主への応答としてささげるものです。なぜなら、主のくださるものは私たちからのものとは比較にならないほど素晴らしいものだからです。


福音は、神さまがあなたにくださる良いものです。アブラムはそれを受け取るのがもったいない、自分には資格がないと地にひれ伏して礼拝しました。福音は、それを受け取る資格のない者に与えられる神の恵みです。福音は、それに値しない者に注がれる神のあわれみです。福音は、過去に罪を犯し続けてきた者を生まれ変わらせる神の期待です。福音は、これからを不安に感じる者を支える神の熱い心です。福音は、あなたではなく神から出ています。


それで「わたしは全能の神」と言われました(1節)。その名は「エル・シャダイ(The Almighty)」です。ここで初めて、神さまはご自分を「われわれ(三位一体)」、「わたし」「主」「神」以外のお名前で明かしておられます。アブラムにとって主は「全能の神」。それは何でもおできになるという意味です。だから、アブラムは続く「全き者であれ」という主からのことばをそのまま受け取ったのです。主がそのように言われているのだから、私は口を挟まずに、そのようにしてくださるお方に任せ、ゆだね、従うのみだ。ご自身で不可能なことはないと言われるお方にこの自分を預けるべきだ。そう受け取ったからこそ、ひれ伏したのです。前の15章で神さまに盾突き、口答えをし、まくしたてたアブラムとは対照的です(その15章は、私が2021年12月に福岡めぐみ教会の礼拝での説教箇所でした)。

神さまは、何でもおできになるお方です。ただし、罪は犯されません。罪を犯すことはできません。それ以外のすべてのことはおできになります。誰にも邪魔されず、誰からの力も借りずに、ご自身だけですべてのことをする力を持っておられます。それだからこそ「神」であり、「全能の神」です。


もし、私たちが「こんな自分は神さまでもどうにもならないのではないか」と考えるなら、それは神の全能を疑っていることになります。神の栄光を引きはがしている、泥を塗っていることになります。神さまに不足していることなど一つもありません。神さまが知らないことも一つもないし、神さまができないことも一つもありません。神にはすべてのことがすることができ、その名前に不可能はありません。その全能の力を、アブラムを導くことにおいて発揮してくださいます。その全能の力を、あなたを励ますために使ってくださいます。だから、福音なのです。私のことは、神さまが何よりも心配をし、期待をし、評価をし、決して見捨てることも、軽蔑することもない。神さまは愛のお方なので、がっかりして私たちを見捨てることはなさいません。むしろ、その全能の力をもって、私たちを保持し、爆発しないで忍耐し、あきらめないで期待し、キレることなくあわれんでくださるお方です。そういう点において、神さまは何でもおできになるのです。

 

それゆえ、私たちはこの方を礼拝します。その素晴らしい福音に感謝します。その深いあわれみ、永遠の愛にこの身をゆだねます。そのためには自我を捨て、自己評価に頼らず、他者の目を恐れず、主がご自身の威信にかけてこの私を最後まで期待してくださることに、人生を意味づけるのです。


先週の導入で、統計ではこの日本にいる人々の11%が生まれなかった方がよかったと感じており、86%の人が何のために生きるのか分からないと答えていると紹介しました。ここにその答えがあるのではないでしょうか。人々が知らずにいたもの、漠然と抱えていた不安の答えがここにあるのではないでしょうか。神は、祝福するためにあなたを生まれさせました。神は、ご自身と出会い、その愛に気づき、あわれみに救われるようにあなたを導いておられます。また、神は自己実現や人間の評価で一喜一憂するのではなく、決して尽きることもあきらめることもない神の期待、神の変わらない評価、自分に絶望することのない全能の神が大いにあがめられるために生きる。この福音を聞き、この福音を受け取り、この福音に生き、この福音を届けましょう。


3. 主の契約

 最後に、アブラハムと結ばれた契約を見てまいりましょう。これはアブラハム契約と呼ばれますが、主なる神さまはこのとき「わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる」(17:7)と言っておられますので、アブラハムだけでなく、また彼の子孫であるイサク、ヤコブの直系の子孫だけでなく、それから後の子孫…代々にわたる永遠の契約としてこれを立てられました。そのため、このアブラハム契約は今の私たちにも有効な、神と私たち、神とあなたとの間に立てられている契約です。生命保険など契約は内容が大事です。保障内容、期間、負担を何度も確認して、それが良いか悪いか、見直しが必要かを検討していきます。聖書にある契約もその内容をしっかり見ておきましょう。


アブラハム契約には、以下3つのことが記されています。

  1. 子孫の祝福(多くの国民となる)17:4,5,6,7  →国民の契約

  2. 王たちが出る(統治)17:6 →王国の契約

  3. 土地の付与(永遠の所有)17:8 →土地の契約

※これら3つを合わせる(統合する)と、アブラハム契約とは「神の国」の完成と言うことができる。


  1. 子孫の祝福について

アブラハムに子孫を富ませ、その子孫が絶えることがなく、世界中に広がること。

アブラハムは主の約束を信じることによって義とされた信仰の父です(創世記15:6、ガラテヤ3:29)。それは、主を信じることによって人はみなアブラハムの子とされるという神による救いの方法です。人は行いによってではなく、血筋によってでもなく、ただ主を信じることによって救われます。主がここでアブラハムにあなたを祝福し、あなたの子孫を祝福すると言われたその約束(契約)によってのみ、人は救われるのです。「ですから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である、と知りなさい」(ガラテヤ3:7)と新約聖書でも救いの道は変わっていないことが証しされています。アブラハムの直接の子孫だけでなく、アブラハムと約束を結ばれた主を信じることで、異邦人であっても信仰によってアブラハムの子とされ、同じ祝福にあずかります。また、「イエスは・・・アブラハムの子孫を助け出してくださる」(へブル2:16)とも書かれてある通りです。私たちはすべて、神の約束を信じることによってアブラハムの子とされ、救いを受け、祝福を受け継ぐ神の民です。そして、神さまはさらにこの神の民が増やされていくことを約束し、私たちがその祝福をもたらしていくように願っておられます。


  2. 王たちが出ることについて


創世記17:6で「王たちが、あなたから出てくるだろう」と約束されています。実際、新約聖書は「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)で始まっています。つまり、アブラハムからダビデ王が誕生し、そこから王の王であるイエス・キリストが誕生したことの重要性をもって、新約聖書は始まっているのです。その流れは、マタイ2章でヘロデ王がイエスの誕生の知らせを聞いて恐れることからもわかります。この天地において「まことの王」が誕生する約束がこのアブラハム契約の最初から明かされています。


このまことの王であるイエス・キリストは「隔ての壁である敵意を打ち壊し・・・二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ」(エペソ2:14-16)たお方です。アブラハムの約束を通して、異邦人も神の民とされました。国や地域、生き方の違いは問題になりませんし、問題にしてはいけません。神の民の集まりである教会はイエス・キリストが王ですから、この方が治められます。ですから、どんな人も神の民に招かれ、神の民に加えられるように契約は定められています。それゆえ、私たち福岡めぐみ教会にどんな人も来ることができ、加えられ、歓迎され、認められ、受け入れられるのが、真のすがたです。ぜひ王はキリストであること、すべての敵意、壁、隔てを打ち壊された主の教会/神の国をここに現わしてまいりましょう。


  3. 土地の付与について


土地は王が治め、民が安らかに過ごすことのできる領土であり、領域です。ただ王の支配は戦いによって獲得されていくものです。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、悪魔の策略、暗やみの支配者、もろもろの悪霊に対抗すべくみことばと祈り、主への信頼をもってする戦いです。勝利は戦いを通してのみもたらされます。私たちは主の民、私たちの王はイエス・キリストです。この方に信頼し、従順であり、「全き者であれ」との期待に応え続けたいと願います。


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