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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「いつも主をたたえる」


聖書 詩篇34:1-3

はじめに

2024年、私たちの目当ては礼拝の生活をすることです。それは会堂だけでなく、家々で。それは日曜だけでなく、日常で。礼拝の生活を続ける鍵となるのは、①みことば、②祈り、③交わり、④証し、⑤賛美です(多い!)。


  1. みことばは大きなところでは、礼拝でともに聴きます。礼拝では、同じみことばをいっしょに味わいます。旧約聖書の時代から主なる神は、個人はもとより、夫婦や家族、種族や民に向けて語っておられます。新約聖書ではイエス・キリストは弟子たちや群衆にメッセージをし、各手紙の第一の宛先人は教会(群れ)でした。聖書は教会で朗読され、説き明かされました。それと同じことを、私たちは毎週の礼拝でしています。みことばをともに聴くということは、聴いたままにならず、互いにそれを実践していくことにもそのポイントがあります。そうです、イエス・キリストの最後の命令は「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:20)でした。みことばを聴いて覚えることではなく、みことばを守り行うことを主は命じておられます。


さらに、私たちは個人的に聖書通読などでみことばに親しみ、信仰を鍛え養っていくことができます。


②祈り、③交わり、④証しについては、これから本格スタートしていくゴスペルハウスで実践されていく事柄ですので、また別の機会に分かち合っていきます。


今年の初め、私たちは⑤賛美の意味、方法、力について学びたいと願っています。


先週は年間聖句から「主に歌え」と主が熱心に命じておられること、偽りの神々と決別をし主にのみ栄光を帰すこと、新しい歌で主をたたえること、あらゆる国と民の間で主の素晴らしさを語り告げることをみてきました。


今週も詩篇から学びます。賛美の生活を豊かにし、礼拝の生活を自然体で送りましょう。


1. あらゆるときに、いつも

今日の詩篇の書き出しは「私は・・・主をほめたたえる」、「私の口には・・・賛美がある」とあり、超個人的な告白で始まっています。礼拝の生活には教会の民全体という面とあなた個人という面とがあります。民全体が大事であって、あなただけがノリノリで賛美していれば良いというものでもなく、何となく民全体で賛美しているから、あなた一人ぐらいどっちだって構わないというものでもありません。


特に、この主の日の礼拝は、民としての礼拝の営みです。日頃の個人的成果をここでぶつける、発揮するような意気込みがあっても良いと思います。


ソロモン王が主の宮を奉献する際に、賛美をささげる場面があります。そこには「ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた」(第二歴代誌5:13)とあります。


レビ人は主の宮と礼拝の奉仕のために取り分けられた部族です。彼らの中からまず四千人が主を賛美する者として訓練され(第一歴代誌23:5)、さらにその中から選別されて288人(25:7)となり、それが12人×24グループに配置されていました。賛美は主によって選ばれ、訓練された者によってささげられました。

そうした者たちによる賛美は大人数にもかかわらず「まるで一人のように一致して歌声を響かせ」るものでした。数千人単位の人の集まりが「一人のように」響くのが賛美の醍醐味です。それをもたらしているのはあなた自身です。あなたのとなりにいる人が頑張って賛美しているからそう響くのではありません。あなたが賛美しているので、あなたが主に歌っているので、あなたが主に向かっているので、全員がそうしているとき「一人のように」賛美が響き合います。


先ほどの第二歴代誌の場面では雲(=主の臨在)が主の宮に満ちたので、祭司たちは立つことができなくなりました。主の栄光が礼拝者を圧倒したのです。賛美には、そのような力があるのですね。


そのような圧倒的な賛美を体験したいと願うのなら、私たちはこの主の宮でささげる礼拝において「私」、「私の口」、「私の手」で主をほめたたえることから始めなければなりません。あなたの代わりに賛美をしてくれる人がいるわけではありません。あなたの代わりに信じてくれる人がいるわけでもありません。たとえ、教会という群れの中に身を置いているとしても、私という一人称単数を意識することはとても重要なことです。


そして、その一人称単数のあなたがどこにいるのか、正確にはどなたの前にいるのかを意識するのが、礼拝であり、賛美です。そして今朝の詩篇の礼拝者が意識しているのは、「主をほめたたえる」自分であり、「主への賛美がある」自分です。


私は主をほめたたえる者として今、ここに存在している。私は主への賛美を口から離さない者として今、ここで生きている。これは単に自らの存在を認め、肯定するよりもはるかに意味あることです。なぜなら、私たちは単数でありながら、どなたかとつながっているのでなければ生きていかれない存在だからです。そして、そのつながりは希薄であればあるほど、自分の存在意義は薄れていきます。反対に、つながりが濃厚であればそれとともに自らの存在意義も高まり、強まり、深まっていきます。

あなたが好意を寄せている人から「好きだよ」って言ってもらえたら、その日はいつもの景色がバラ色に見えますね。反対に、お財布を盗まれたら世の中全員が悪者に見えてこないでしょうか。


「私はあらゆるときに 主をほめたたえる」、「私の口には いつも主への賛美がある」と告白するとき主とつながっているという感覚を持っていたいのです。私の口は主を賛美することと猛烈につながっている。私の手は主をほめたたえることで激烈に熱くなっている。私の心は燃やされているのです!


2. 主を誇り、喜ぶ

続く2節では賛美の新たな面が照らし出されています。それは、賛美とは「主を誇る」ことであり、賛美は「主を喜ぶ」ことであるという面です。「誇る」「喜ぶ」に共通しているのは何でしょうか。自信を持つこと?自分でしなければならない作業? いいえ、これらに共通しているのは「対象がある」という点です。対象がなければ誇ることはできません。自分のことを誇れるようになるには、失望しない領域まで引き上げて、常にそこにとどまっていなければなりません。


また、対象がなければ喜ぶことはできません。よく飲食店で注文をすると、店員が「はい、喜んで~」と言います。あれは誰に対して喜んでいるのか分からないので、少し変に聞こえます。また、一人で喜んでいる姿は、周囲を理解不能に陥らせることがあります。ある時、私がスーパーの詰め込みスペースで思い出し笑いをしていたのを、レジにいる妻が見て、「あなた、一人でニタニタしてとっても変な感じだった」と言っていました。それくらい、喜ぶ対象がなくて喜ぶのはこっけいです。


あなたには心底誇れる方がいるでしょうか。

あなたを喜ばせてくれる、真の喜びで満たしてくれる方がいるでしょうか。

2節にあるのは、その答えです。

1節から続けて見るならば、主はあらゆるときにあなたの誇りの対象であり、主はいつもあなたの喜びの対象であるということです。


さらにこの詩篇には表題が付いています。「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」


ほめたたえる、賛美がある、誇る、喜ぶという行為からはかけ離れている状況です。この表題の詳しい出来事は同じ旧約聖書の第一サムエル記21章に描かれています。ダビデは、サウル王の側近でしたが、サウルより多くの勝利を獲得したので、民はダビデをたたえるようになりました。それで嫉妬から、サウル王はダビデのいのちを狙って追い回すようになります。ダビデはサウルに抵抗することを避け、逃げ、洞穴に隠れたりしていました。

そして、イスラエルの国には逃げる場所がなくなったとき、ダビデは敵であるペリシテ人の地に逃げ込みました。それまでさんざんペリシテ人を討ち、勝利をあげて来たダビデです。その土地に行ったらすぐにダビデだと気づかれてしまいました。それでは殺されてしまいます。それで、ダビデはアビメレク王の前で気が変になったふりをし、別人になり切る演技をして逃れました。それは勇者ダビデにとって屈辱であり、誇りや喜びをすべて捨てなければならない、プライドがなし崩しになる経験でした。

そんな状況で、この詩篇は生まれました。

自分を偽らないといけない。息をひそめ、自分を隠して過ごしている。憎まれている相手から何をされるかわからない。こんなみじめな姿をさらけ出さなければならない自分に嫌気がさす。そんな中、自分の口にはどんな言葉が出て来るでしょうか。


ダビデはこの危機的状況の中で「私はあらゆるときに 主をほめたたえる」と切り出しました。ダビデは屈辱と脱力感に押し倒されそうなとき「私の口には いつも主への賛美がある」と続けました。


自分が裸にされて、主だけを誇ることを学びました。自分が無にされ、主を喜ぶ希望を見出しました。自分が地の底に落ちても、そこから主を誇る力が立ち起こってきました。自分の持てる力がゼロにされても、そこから主を喜ぶ力が湧きあがってきました。


主を誇る賛美はプライドを奪われてから始まったのです。主を喜ぶ賛美は喜べる要素がすべてなくなってからはっきりと現れてきたのです。今、もし賛美するような気分ではない、そんなことしている状況じゃないという気持ちを抱えている方がいましたら、ぜひこの表題から賛美する者へと立ち上がっていくダビデの足どりを励みにしてみてください。


3. 一つになって

どうして、主はそんなときでも賛美され、誇りとされるべきお方なのでしょうか。それは、主が決して賛美されることを恥とせず、誇りとされることから逃げないからです。

もし、人間であれば24時間365日賛美される生活をすることは無理です。人に見せられない言動をすることもあれば、人目につかないところに隠れたくなることもあります。また、年がら年中人を喜ばせるサービス精神も余裕も持ち合わせていません。


ただし、主は違います。あらゆるときに誇ることをよしとされます。それは、どんな状況でも主はご自身の栄光を現すことがおできになるからです。

「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ」(第一サムエル2:30)


実に神はイエス・キリストの十字架でさえも、世界最大の悲劇から、世界最大の救いの出来事にされました。十字架の出来事を阻止したり、なかったことにする方法ではなく、人の裏切りやあざけり、罪のなすりつけ、無知のきわみを、赦しのみわざに変えてくださいました。イエス・キリストを殺すという取り返しのつかない行為、それを二千年間語り告がせる救いのメッセージにしてくださいました。


結びに3節をみましょう。「私とともに主をほめよ。一つになって 御名をあがめよう」

「ほめよ」は先月のアドベントで見た「主を大きくする=Magnify(拡大する)」です。どんな事態よりも主を大きく見る、どんな存在よりも主に信頼を置くということです。


対になっている「あがめる」は「高く上げる」(詩篇37:34)ことです。主を誰よりも大きくし、主を何よりも高く上げる。そのようにすると、自分だけでなく他の人も主を見ることができるようになります(あ~ら不思議)。


こうした賛美は「私とともに」しようとの呼びかけです。あの人がしたら、別の人がとことんやってから、全体の雰囲気が盛り上がってきたら私もやる、というのではありません。それぞれが「私とともに主をほめよ」と言って始めるならば、素晴らしく熱い交わりになります。


そうして「一つになって 御名をあがめよう」に続きます。こうして見ていくと、聖書は本当によくできていますね。まず私で始める。まずあなたが始める。そうして「一つになって(英語:together)」いく。本日の初めに見たように、私が、あなたがどんな状況で、どんな気持ちであったとしても、主を大きくし、主を高く上げ始めることで亀裂や破れやすき間のない祝福に満ちた礼拝になっていきます。

このように賛美が主軸になっている詩篇は多くあります。それは主ご自身が私たちの賛美を求めておられ、私たちの賛美を好まれるからですね。賛美によって主は大きくされ、賛美によって主は高く上げられます。


そうして、主は私たちの賛美の中に住んでくださいます(詩篇22:3)。賛美すれば、主がいてくださることが分かります。賛美すれば、主を中心とした交わりが実現します。そうです、私たちの教会が生きたものとなるには、あなたが主をほめたたえ、賛美し、誇り、喜ぶことです。その対象は主ただおひとりです。このお方のみに栄光を帰しましょう!


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