「いのちのパンを」
- 大塚 史明 牧師
- 1月12日
- 読了時間: 11分
聖書 マタイの福音書 26章26-28節
はじめに~聖餐の意味と招き~
本日は今年1回目の聖餐礼拝を行います(年4回を計画)。聖餐式は、イエス・キリストが教会に守り行うように命じられたもので、教会はこれを2,000年間守り行っています。聖餐式を執り行うことは、歴史的な教会につながり、地理的には世界中の教会と一つであることも確かめることができます。
この聖餐礼拝の目的は、イエス・キリストの死の事実とその意味をここにおられる全員に告げ知らせることです。洗礼を受けられたクリスチャンの方にはパンと杯によってイエス・キリストから与えられた救いを確認していただくことができます。まだクリスチャンでない方には、イエス・キリストが与える救いがどのようなものかを知っていただく機会になることを願っています。聖餐式はイエス・キリストを信じておられない方への招きの時です。肩身を狭くする必要のありませんように申し上げます。
説教「いのちのパンを」
今朝の聖書箇所はイエスと弟子たちが食事をする、最後の晩餐と言われる場面です。細かく見ますと「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り」(26節)とあるので、普通の食事とは違うものが始まっていることがわかります。教会がそのしるしとして守り行ってきた聖餐式も、普通の食事とは区別されて執り行われます。
この場面で、主イエスが弟子たちに与えたパンと杯に特別な意味を込められました。主イエスは、今朝、私たちにもパンと杯を用意し、分け与えてくださいます。今年の聖餐礼拝のテーマは「いのちの主」です。本日は「パン」に焦点を当て、この聖書個所を読み進めてまいりましょう。
与えるパン
一つ目は、主イエスはこのパンをご自身のからだとして与えられたことです。この場面「取って食べなさい。これはわたしのからだです」(マタイ26:26と言われました。主イエスはパンをご自分のからだになぞらえて、弟子たちに食べるようにと手渡しています。同じ箇所の描写を「主イエスは・・・パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き」(第一コリント11:23-24)とあります。ここで、主イエスはパンを裂いて与えられました。それで、初代教会は聖餐式を「パンを裂き」(使徒2:42,46,20:7)と呼ぶようになりました。ただパンを取って手渡すのではなく、パンを裂いて与える点が、聖餐式において大事な所作、表現となります。
パンを取って、裂いて、与える。主イエスがそのようにされたのには意味がありました。この場面は十字架につけられる前夜です。もう数時間したら、イエスはユダに裏切られ、兵士に捕らえられ、弟子たちには逃げられ、不当な裁判にかけられ、十字架にはりつけにされます。
まさしくこのとき、イエスは心が裂かれそうな思いを抱えて弟子たちと過ごしておられたのです。そして、やがて十字架で裂かれる自分のからだと重ねて、ここでパンを裂かれました。キリストが裂くパンは、キリストの裂かれたからだです。ただのパンではなく、キリストのいのちにあずかるのです。
キリストはそこにあるパンを使って、霊的な真理を教えられました。パンは人が生きるために必要なものの象徴です。しかし、そのパンを通して、ただ肉体的な必要の満足や目で見える栄養だけでなく、目に見えない霊的な必要の満たし、栄養を摂ることの大切さを教えるのです。主イエスは最高の教師ですから、空の鳥を見て天の父に信頼してよいとか、野のゆりを見て神は良いお方であることに確信を持ってよいと教えています。ここでも、食べるパンを通して、霊的ないのちが満たされることを教えます。見えるパンを通して、見えない救いにあずかることを教えます。このパンには、それ以上の意味があるのですね。
そして、最大のポイントは、そのいのちであるパンが、私たちの力量や願いの強さにしたがって獲得するのではなく、キリストが与えることによってのみ、手に入るということです。しかも、パンを裂くことによって、弟子たちひとり一人の手に渡されました。
このときのパンのように、、キリストはご自身を裂いて、私たちひとり一人にいのちを与えてくださることを、この聖餐式では心に刻みたいのです。これから手渡されるパンは、キリストが十字架で裂かれたからだです。あなたにまことのいのちを与えるために、ご自身の肉体を裂いてくださったお方です。
キリストがこのパンを与えるには、そうした覚悟がありました。しかし、苦々しい顔をそうしておられません。主イエスは「パンを取り、神をほめたたえてこれを裂き」ました。神に感謝をして、裂いたのです!裂いて与える時に「お前たちの犠牲にされるために殺されるのだぞ」と脅してパンを裂きませんでした。「本当はあげたくないんだけど、仕方がないからな」と嫌々差し出すならば、愛ではなく、「あなたは迷惑な存在だ」というメッセージを弟子たちに伝えることになります。しかし、神をほめたたえ、惜しみなく裂いて与えるなら、「あなたのためならば喜んでして差し上げます」という愛のメッセージを弟子たちに伝えられます。裂いて与えることが耐えがたい苦しみだとしても、喜んで差し出すなら、その苦しみは愛に変わります。これがキリストのしてくださったことです。パンを裂くように簡単にいのちを差し出すことのできる人は誰もいません。けれども、主イエスは神をほめたたえて、そのいのちを裂いて与えてくださいました。罪人である私たちにそうしてくださる唯一のお方です。
2.受け取るパン
二つ目は、このパンは、私たちが受け取るために与えられたということです。与えられたパンは、受け取らなければなりません。受け取るの反対は「捨てる」です。パンの意味が分かれば、受け取るように導かれます。
先週、私が妻からの贈り物を返金してしまったお話をしました。「同じものを持っているから」というのが理由です。そのことを同期の牧師に話したら、「今使っているものを捨てて、妻からもらった贈り物を使わないと!そんなの当たり前だよ!」と言われました。しかし、私はあろうことか、妻からの贈り物を(言い方は悪いですが)捨てたのですね。
さて、私たちはキリストが与えるパンをどのようにするでしょうか。受け取るのでしょうか、それとも捨てるのでしょうか。受け取るには、「私は同じものを持っていない」と分かることが大事です。「似たようなものもあるから結構だ」という結論にならないように、みことばを見つめる必要があります。私たちが、もしこのパンを受け取ることを拒否したら、どんな損害があるでしょう。このパンを受け取らなかったら、どんなことが身に起こるでしょう。人間の考えた宗教であれば、「これを受け取らないと不幸が起こるよ」、さらには「これを買わないと、あなたの家族にも不幸が及ぶよ」と言うかもしれません。
主イエスはヨハネの福音書でこのように言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」(ヨハネ6:53)。
主イエスが与えるパンを受け取る者は、いのちを受け取ります。それはこの地上の生涯を長生きする命ではなく、まことのいのちです。神につながる、永遠のいのち。このいのちがないので、人間は不安になり、心配になり、死を恐れます。パンを受け取ることを拒み、捨てる者に不幸が襲うことはありません。なぜなら、主イエスはこのパンについて、地上の安定や長寿を与えるものだとは言っておられないからです。この地上では、クリスチャンも、そうでない人も試練にあい、病気にもなります。しかし、このパンを受け取る者には、それ以上の素晴らしい永遠のいのちを持つようになります。究極には、死の不安から解放してくれるものです。なぜなら、こちらが「まことのいのち」だからです。この地上で生きている命はにせものとは言いませんが、一時的です。一時的なものは、永遠ではありません。いつか、やがて、必ず失うものです。アメリカにある大学の精神科医の教授は「死の不安を完全に抑えることはできない」と結論づけたそうです。一時的に、死の不安を忘れることはできるかもしれないけれど、完全に死の不安を抑えることは人間にはできないそうです。
そうであれば、私たちには救い主が必要です!私たちには死に勝利した方が必要です!死の不安を打ち消すことのできる救い主が必要です。「(イエスは)死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれている人々を解放するためでした」(へブル2:15)。
イエスの与えるパン=まことのいのちを受け取るまでは、私たちは皆、死の奴隷です。それも一生涯つながれている状態です。どうにかそれを否定したり、気をまぎらわしたり、自分にはまだ順番が来ないと考えないようにして過ごしても、必ず死はやって来ます。それに抵抗して富や名声を築いても、死によってすべては分断され、忘れ去られます。そうして、私たちは死に支配されながら少しもがきながら過ごす奴隷のような生涯を送るのです。けれども、安心してください。これは人類全員の運命ではありません。キリストの与えるまことのいのちを受け取らない状態です。そこには、無限に自分で頑張る生き方を強いられ、やってもやっても完成しない焦りに追いかけられ、他の人の成功を妬んだり落ち込んだりし続け、何よりも人生を終わるときの平安がなく、死の恐怖につながれた生き方です。本当にそれでよいのですか?主イエスはまことのいのちを与えられます。せっかく神が無償で、愛と恵みによって与えようとしているものを、なぜ受け取らないのでしょうか。ぜひ、このパンを見つめながら、人生で最大、最良の選択をされてください。
3.分かち合うパン
三つ目、このパンは分かち合うものだということです。聖餐式が普通の食事と決定的に違うのは、キリストのいのちを受け取ることで、キリストの愛に満たされて生きるようになるということです。それは、具体的には、私たちの心が、貧しい人、社会の片隅に追いやられて苦しんでいる人、小さい人を思い、彼らの力になりたいという願いを持つようになることです。キリストの愛に満たされるので、助けを求めている人たちのもとに出かけて行かずにはいられなくなるのです。自分のためにいのちを与えてくださったキリストの愛に突き動かされるので、今度は人々のために自分のいのちを差し出す生き方へと変えられるのです。そうして、肉体が滅びても決して滅びない、永遠の愛の世界へと移されていくことを味わうようになります。これが聖餐式の働きです。
「分かち合う」というとき、私たちは、自分の分がなくなってしまうと考えるかもしれません。たとえば時間について考えてみましょう。私たちは、自分のために使うことができたはずの時間を、家族や友だちのために裂いて与えたとします。一日があっという間に終わってしまい、自分のために使う時間はほとんど残りません。ですが、その裂いて与えた時間は、ただのムダ使いに終わったのでしょうか。いいえ、その時間は愛に変わったのです。決して、残念に惜しむことはありません。
家族のためのお弁当作りや掃除、洗濯、子育てなどに費やされた時間は、「お母さん、お父さんから愛されて育った」という確かな実感として、子どもたちの心に残り、生涯を支える愛となります。このように、愛する人や隣人、困っている人のため時間を使えてよかったと喜びが湧き上がってきます。自分にとっては我慢することになったけれど、小さな人のために裂いて与えることができたと感謝するようになるかもしれません。それは、自分の時間を誰かのために裂いて与える愛に生きたからです。
しかし、自分のためだけに使った時間はすぐに消えてしまいます。自己満足のためだけに使った時間は、不思議にもどこかに消えてしまうのです。私たちの時間、私たちのいのちは、愛し合うために、分かち合うために主から与えられたものだからです。自分のために使えると勝手に思い込めば腹が立ちますが、神から与えられたいのちを感謝して分かち合うなら、そこに愛、喜び、平安が生まれます。裂いて分け与えることによって、私たちの人生は豊かにされていくのです。
そして、自分で裂くことができないときこそ、主イエスが裂いて与えてくださったパンを受け取りましょう。受け取った主イエスのその愛で、私たちの人生も満たされていきます。そして、それを分かち合うなら、その豊かさはさらに広がり、用いられていきます。
聖餐式は、主がいのちを差し出し、与えてくださったこと。そのいのちのパンを受け取ること。キリストの救いと愛を分かち合うことを覚える式です。聖餐式に移ります。
聖餐式(Holy Communion)
これから教会執事(役員)がパンと杯をお持ちします。
洗礼を受けたクリスチャンの方は配られるパンと杯をお受け取りください。まだクリスチャンでない方にはパンと杯を受け取ることを遠慮していだきますが、これはみなさんを教会から締め出す意図ではありません。このことは、まだ気持ちが整わず、意味がわからない方に信仰を強要することがないための配慮です。この聖餐式はまだクリスチャンでない方にとっては救いへの招待状です。ぜひそのようにご覧になってください。そして、イエス・キリストの与える救いを受け取る決心をされたとき、ご一緒に聖餐式にあずかりましょう。
賛美:教会福音讃美歌259番
「ともにパンを分け合おう」1-2節(パンと杯を配ります)
「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
(マタイ26:26)
受け取ったパンは、イエス・キリストのからだを表しています。一人ひとりに与えられたパンは、主イエスがあなたの罪を背負い、あなたの身代わりに十字架につけられて死なれたことを覚えるものです。心と口とでキリストを味わいましょう。
「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」
(マタイ26:27‐28)
手にしている杯は、キリストが十字架で流された血潮です。キリストは罪の赦しのために、血を流してくださいました。私たちも、死に至るまで主イエスにお従いしましょう。契約のしるしとして、杯をいただきましょう。
「ともにパンを分け合おう」3節
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