「いのちを救う方法」
- 大塚 史明 牧師

- 2025年10月5日
- 読了時間: 5分
聖書 ローマ人への手紙5章6-11節
神の愛(6-10節)
「神の愛」を明らかにするために神が取られたのは「キリストの死」(6、8節)という方法でした。私たちに愛を示すために、もっと他の方法はなかったのでしょうか。なぜ、神のひとり子キリストが、死ぬ必要があったのでしょう。このことの意味を見出し、今朝は受け取ってまいりましょう。
罪人を、無能な者を、敵対する者を愛する。神はどうしてそんなことをされるのでしょう。これは、理にかなっているのでしょうか。私はそんな者ではないし、そんな愛はいらないと言いますか。私たちの思いがどうであったとしても、私たちは心の耳で、自分が「弱い者」であり「罪人」であり「敵」であるという神からの言葉を聞かなければなりません。そうして、私たちは、まさに神から断罪されて当然の存在であることを知らなければなりません。そうでなければ、キリストの十字架は、私たちへの神の愛、私たちにとって尊いものとはなり得ません。単に愚かなものとして私たちは通り過ぎてしまうからです。この愛を受け取る者は「義と認められ」「救われる」(9節)のです。神の愛も、神の義も、それに見合うだけの活躍をする者、そこに到達する者が獲得するのではありません。ただ恵みによって、神が与えてくださるのです。ルターはそのことを発見したとき喜びにあふれ、「天国の門を開いてくださった」と賛美しました。天国の門はキリストによって開かれているのです。しかも「キリストが死んでくださったことにより神はご自身の愛をあきらかにしておられます」と現在形で書かれています。「あきらかにされました」ではなく、「あきらかにしておられます」です。それは、十字架が今、このときにも神の愛を表し続けており、そこから、私たちは途方もない愛を受け取る事ができるからです。このことを信じる者は、今も愛に満たされて、神を愛する者へと変えられ続けていく、幸いな道を歩む事が出来るのです。
誰のために(6-10節)
「実にキリストが死んでくださったことにより、神の愛が明らかにされている」というみことばに注目してください。神は死ぬほどに愛されたのです。愛されているのは他でもない私たちです。どんな私たちを愛してくださったかについて聖書は説明しています。愛されるに値する者だったからでしょうか。そうではありません。実に、まだ私たちが「弱かったとき」「不敬虔であったとき」「罪人であったとき」「敵」であったとき、神は私たちを愛されたと書いてあります。ここに私たちの本性が暴露されているのです。あなたはこういう者だったのだ!と。このように神の愛とは、私たちが想像するのとはまったく違って、罪人である者にいのちをささげる愛です。人間の愛とはかけ離れた神の愛がここにあるのです。キリストが死なれたのは、誰のためであったのかが6~10節に並んでいます。もう一度見てみましょう。それによるとキリストの死は「私たちがまだ弱かったころ」「不敬虔な者たちのために」「私たちがまだ罪人であったとき」「敵であった私たち」とズバリ書き立てています。これらはすべて神との関係において指摘されています。つまり、私たちが弱かったころとは小さいとか身体的に貧弱だということではなく、そのままでは神に受け入れられるほど立派ではないということです。いかに努力をしても神の基準には達しません。不敬虔、罪人、敵とはどういうことでしょうか。神に反抗・反逆する思いを持ち、言葉をもって神や隣人、自分自身をも傷つけています。その行動は神に敵対し、神とは反対側に立っているのです。それはまさに「罪人」と呼ぶのにふさわしい存在だと言うのです。こうした人間を、神はどのように扱われるのでしょう。神は私たちを裁こうとはせず、別の方法をもって義を貫かれました。その方法こそ、十字架でした。弱く、不敬虔で、罪人であり、敵であった私たちのために、キリストが死なれたというものです。壊されて当然、砕かれて当然の器である私たちを残し、救おうと定められました。ここに神の愛が示されているのです。愛される資格のない者に注がれる愛。それは気持ちや言葉だけでなく、実に「いのち」をかけた本物の愛です。キリストはさげすまれ、身体中を痛めつけられ、人々だけでなく弟子たちにまで見捨てられ、十字架上で叫んで世を去られました。それは決してご自身の罪ゆえではありません。キリストがそれほど低くならなければならなかったただ一つの理由・・・それは、私たちを救うためです。
十字架で受けられた苦しみを、受難=Passionと言います。身体がちぎれる痛み、血を流された主イエスの愛は本物です。あなたが、この方がしてくださったことが自分の罪のためであることを認め、その愛を受け入れるなら、あなたは今日救われるのです。
救いの確信(9-11節)
9~11節では「神との和解」がテーマで進みます。これは以前の「不敬虔」「敵」とは正反対の立場です。そして、今和解があるならば、「救われるのはなおいっそう確かなこと」と二度も繰り返されています。あなたの救いは永遠であり、これからの言動や罪によって取り消されることは決してありません。なぜなら、私たちの救いの根拠は、人間側にはいっさいなく、完全に神の愛にかかっているからです。私たちが不出来であっても、不完全であっても、罪人であっても、神はご自身の愛を十字架で示してくださいました。だから私たちは、自分が愛され、赦され、救われることを信じられるのです。もし、救いの根拠が私たち人間のやる気や信じてからの言動、気持ちの強さにあるとしたら、心配や不安の中で生きなければなりません。神への愛が薄くなったら・・・もし失敗したら・・・そんな心配や不安を吹き飛ばすために、この個所を繰り返し読んで味わいましょう。私ではなく、まず神が私を愛し、敵であったときでさえ見限らず、欠けだらけの不完全な者に代わって、キリストがそのさばきを受けてくださいました。死ぬ必要のなかった方が死なれたのは、死ぬべき者であった私たち、あなたが救われるためです。そして、救われた者が地上になお生かされているのは、この神の愛をこの生涯を通じ感謝し、賛美し、喜びを全身で表すためなのです!
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