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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「この上ない喜び」


聖書 マタイ2章9~12節

  1. 2つのメッセージ(9-10節)

  1.王と聖書

クリスマスの出来事は新約聖書のマタイ、ルカの福音書に2つの視点から記録されています。このマタイの福音書では、1章で夫ヨセフへの告知があり、その後は東の方から博士たちがイエスを見つける旅をするという場面です。もう一つのルカの福音書では母マリアと出産、羊飼いらがそれを見に行くという場面が記されています。こうして、聖書はいくつかの人によってクリスマスの出来事を残すことによって、誰かひとりがイエスの誕生を主張しているのではないこと、一人の証言に対し、まったく利害関係のない人から別の証言があることで、イエスの誕生が確かであることを私たちが知るように教えています。今朝ご一緒にお聞きするマタイの福音書では、博士たち、そして時のユダヤの王であるヘロデ、そしてマリアとイエスさまが登場します。


今日は「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った」(9節)ところから始まります。この博士たちは讃美歌でも歌われていますが、遠い国で救い主が生まれる星を見て、はるばる旅をしてきた人たちです。そして、「王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と当時のユダヤの王であるヘロデ王に聞きに来ました。(2章2節)。その知らせを聞いたヘロデ王は動揺し、そんな王が生まれるとしたらどこなのだ?と当時の学者たちに聖書を調べさせ、それが「ユダヤのベツレヘム」(2:6、ミカ5:2)であることが判明します。それで、王は博士たちに「幼子のところへ行って詳しく調べてくれ。私もあとで行って拝むから」(2:8)と博士たちを送り出します。


こうして博士たちは、エルサレムからベツレヘムへと再度出かけるのが今朝の場面です。(先週のメッセージでもお伝えいたしましたが)、博士たちは今2つのメッセージを背負って出かけています。一つはヘロデ王からのメッセージです。「あなたたちは、王である私の命令通りに動きなさい。ここからベツレヘムに行き幼子のことがわかったら、その様子を知らせに帰って来なさい。いいですか?私の命令は絶対ですよ。」というものです。もう一つは聖書のメッセージです。それは「本当の王はヘロデではありません。すべての民を治める者がベツレヘムから出ます。その方はすべての民を罪から救う救い主です。この方こそ、本物の王です」というものです。博士たちは、どちらのメッセージに従うのでしょうか。見事に異なる2つの対称的なメッセージを背負って旅に出ます。この世の王か神か。権力者の圧力か聖書からの魅力か。目の前の迫力ある声か、聖書から聞こえるかすかな声か。


私たちはいかがでしょうか。今、聖書にふれながらそのメッセージを受けています。聖書のメッセージに従ってこの世を生きていく道があるのだということをぜひ考えてみていただきたいと願います。


  2.星をもって導かれる神

そうして出かけた博士たちですが、まだ2つのメッセージを背負ったままです。王の言うことを毅然とはねのけて、自分たちを導く神に従ったとは書いてはいません。けれども、神さまは博士たちをちゃんと導いてくださるお方です。彼らの思うままにとか、したいようにさせたとも書いていないからです。そうではなく、次に「すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった」(9節)。

これを読むと「ああ、いいな。やっぱり聖書だけの世界だな。星が光って先に進んだり、止まったりするんだもの」といった感想を抱くでしょうか。確かに、分かりやすく星が光ったり、鳥などが出てきて導いてくれたりすれば、神さまのことを知りやすくなるかもしれません。けれども、そんな風にいつも神さまが奇跡のように導くと、世界はかえって不安定になります。あるはずのない星が急に出てきたら世界は大騒ぎします。星が点滅し始めたら世界中がパニックになります。なんの予兆か、何が起こるのかいろいろな推測を言う人が現れて、混乱するでしょう。あるいは、何を食べようか選択に迷ったとき、メニュー表が話し出したりしたら怖くして仕方がありません。包丁で切ってもけがをしないとか、赤信号で突入しても絶対に事故にあわないように全車が急停止したり進路変更したなら、その時は助かってもそれからは何が起こるか分からず予測がつかないので、恐る恐る行動しなければならなくなります。


では、神の導きはどのように与えられるのでしょうか。この博士たちが星に導かれたということを、なぜ聖書は書き残して、私たちが見聞きできるようにしているのでしょうか。それは、私たちがこの聖書を読むことによって神さまは導いてくださるお方だと知るためです。もっと具体的には、博士たちは当時の星空によって正しい道へと導かれました。私たちは、そのまま星空ではなく、この聖書を読むこと、聞くこと、味わうことによって、同じ神さまが私を導いていてくださることを知れるのです。星ならば、見た人と見れなかった人が出てきます。聖書であればいつでも読み、なぞり、確認することができます。しかも聖書は今日と明日、来週と来年で変わったりはしません。神さまがこの星の出来事を今日の私たちが読んで、このお方があなたに生きて働き、導いてくださる確信をもってほしいと願っておられてのことです。


Ⅱ.何を中心にするか(11節)

  1.神を中心にする

博士たちは、見てきた星が再び出現し教えてくれたので「この上もなく喜」(10節)びました。歓声やガッツポーズが見えるような書き方をしています。初めて教会に来られる方にとって、礼拝は良くも悪くも(?)印象的なようです。その感想としては「わかる言葉で話していたのが印象的でした。宗教はもっと堅い、難しいイメージでした」とか「歌をたくさん歌うのだと思いました」「大の大人が一生懸命歌っているのが新鮮でびっくりしました」と言われることがあります。きっと、この時の博士たちも黙々としていたわけではなく、嬉々として声を上げながら向かったのではないでしょうか。そんな湧きあがる喜びが、イエスさまの周りにはあるものだと教えてくれます。


さて、博士たちは神の導きを決して便利なものとして使いませんでした。これからは何でも神さまが導いてくれるから楽チンだ、困ったら神さまに聞こうと軽く受け止めてはいません。星がとどまったその家に入り、幼子イエスを見ると、「ひれ伏して礼拝した」(11節)のです。これは頭をこすりつけて礼拝する様子を言葉でも表しています。それはいっさいの権威がその方にあることを認めて、自分は口を地につける行為です。つまり、博士たちはイエスこそまことの王であり、神であり、礼拝すべきお方、礼拝するに値する素晴らしいお方であると行為でもって告白をしています。


さらに、彼らは「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」 (11節)ました。文字通り「宝」をささげたのです。高価で自分にとって大事なもの。それをささげても構わない、いや、そうさせてもらいたい。そんな喜びが彼らにはありました。その宝が黄金、乳香、没薬であったのと詳しくあります。よく言われますのは、これがイエス・キリストに対する贈り物で、黄金は王としてのキリストへ、乳香は祭司(神と人とをとりなす)としてのキリストへ、没薬は罪人の身代わりとなって死んで葬られることへの備えであったとなされます。それに加えて、この3つは博士たちにとっての商売道具であったともされます。単に宝として取ってあった黄金や乳香、没薬をささげたのではなく、普段から星の研究、天文学もしくは占星術(星占い)、魔術師をしていた彼らの仕事道具、商売道具として使われていたそうです。


となると、これは彼らにとって今後同じような仕事ができなくなる可能性もあったことになります。彼らの仕事を成り立たせるものであり、彼らの立場を支えるものであり、彼らの名声や評判に欠かせないものでした。しかし、それらいっさいをイエスさまにささげてしまっています。それは彼らがこれからどなたのために生きていくのか、自分たちが何者として生きていくのかを鮮やかに示している箇所でもあります。

これからの彼らは「神中心に生きる」のです。彼らにとってそれまでの彼らの仕事、名誉、安定と引き換えにしても、イエスと出会い、礼拝をすることは名誉なことでした。それが義務ではなく、この上ない喜びから出ている。彼らにとって、長い間捜し求め、旅をしてきてたどりついた「価値ある生き方」です。これからは星ではなく、神を仰いで生きる。神中心の人生へと変えられました。礼拝する対象、ひれふす価値のある方を見つけられることは幸いなことです。   2.問題を中心にする

こうした神中心の生き方の反対は何でしょうか。自分中心、世の中中心でしょうか。いいえ、それは「問題を中心とした生き方」です。だれも好き好んで問題や試練を人生の中心にはしたくありません。あなたの人生の中心には問題があります!なんて言われたらたまったものではありませんね。けれども、そうしたくなくても気づけば問題を中心にグルグルと慌てふためく自分の姿があるのです。


最近、どんなことで感情が掻き立てられたでしょうか。思わず叫んでしまったことは何でしょうか。どんなときに神を求めたでしょうか。祈りたくなったのはどんなときでしょうか。意外と問題が起こったときではないでしょうか。「危ない!神様助けて」「なんでこんなことが私の人生に起こるの」「いいかげんにして」「もうイヤだ」「こんなはずじゃなかったのになあ」「楽になりたいなあ」・・・・・・いろいろとつぶやいているのが私たちの日常です。まるで問題を中心にして、その周りをグルグル回っている、回らされているような生き方。だから疲れてしまいます。やる気がうせてしまいます。獲得したいのに得られない。安心したいのに心配ばかりがつのる。いっそのことすべてなくなったらいいのに・・・それだと寂しい。そうした思いがやって来ては消えていく。


これは問題を中心にしている、回らされているから生じる生き方です。もう一度、博士たちの姿を見ましょう。彼らは世の声と聖書の声を抱えながら旅をしましたが、神が導きました。神の導きに従ったさきに、イエスさまと出会いました。そのとき、宝を隠さずにささげました。それまでの生き方を変えられないとは考えないで、実にいさぎよく、それも喜びをもって礼拝しました。中心が問題や願望から神に変わったからです。問題や環境ではなくともにおられる神を見つめられるようにと願います。


Ⅲ.別の道から帰る(12節)

  1.別人のように生きる

最後の場面にうつりましょう。博士たちは帰り道になります。もともとヘロデ王に幼子イエスについて詳しく調べ、報告しに来るように言われた旅でした。けれども彼らは「夢で、ヘロデのところに戻らないようにと警告をされ」(12節)ます。それは、彼らが再び世の権力、声に舞い戻らないようにとの警告でもあります。せっかくまことの王に出会い、礼拝したのに、再び世の権力と価値観にどっぷり浸かってしまってはならない。そうならないように「警告」をしました。博士たちの思惑とは別に、勝手に身体が動いたのではありません。あくまで神さまはみことばを通して警告をなさったのです。そして、彼らはその警告にしたがって、別の道から自分の国へ帰って行きました。


映画やアニメを見た後、そのヒーローになった気分になったことはないでしょうか(私も幼少期、ジャッキー・ チェンのカンフー映画を見て、すぐ兄に戦いを挑んだものでした)。あるいは、素敵な出会いの後は、普段見ていた景色がまったく違って見えることがあります。私たちは、ひとつの出会いによってこの世界がまるで違って見える、別世界に生きられる存在です。誰か一人とでもそんな出会いがあれば、全世界が素敵に見えてきます。まさに、この博士たちの帰り道はそのようなものでした。来た道とは別の道で帰るとはただ別ルートを選んだというだけではなく、別の価値観をもって生きるようにされたことの表現でもあると思うのです。


  2.永遠のいのち

博士たちをそこまで変えたのは何だったのか。それはイエスキリストとの出会い、礼拝できたこと・・・だけではありません。そのお方が「自分の救い主として生まれてくださった」からです。博士たちは彼らのもっとも大切なものをささげましたが、あくまで一時的な地上の宝にしかすぎません。しかし、イエス・キリストは神の座を捨ててきてくださいました。天の座を降り、地上で人となられました。しかも、王宮ではなく家畜小屋でお生まれになりました。 盛大に祝われることもなく、セキュリティーもない場所でひっそりと生まれました。博士たちは、自らささげたものに比べれば、この方のなさったことがどれほど偉大で、途方もないことなのか、恐れおののいたことです。


しかも、この方は天の座を駆け下りるだけでなく、やがてそのいのちを自分のために捨ててくださるお方です。いのちの価値は、博士らのささげた黄金、乳香、没薬の比較になりません。博士たちをはじめ、私たち人間の誰も、イエスさまに死んでもらう価値や権利を持っていません。むしろ、神からは遠ざけられ、退けられて当然の汚れた存在です。自分の考えや気持ちにこだわり、その座を譲る、捨てるなんてことは一ミリも考えません。けれども、目の前にはそんな自分のためにすべてを捨ててきてくださったお方がおられます。だから、ひれ伏すしかないのです。今度は、自分が変わってこの方についていくしかないのです。これまでと同じような考え、同じような価値観、同じような言葉を発しません。イエス・キリストのしてくださること、してくださったことはあまりにも素晴らしい。だから、すべてをこの方のためにしたい!と願うのです。


あなたへの最大の贈り物である「罪の赦し」「永遠のいのち」をもらい損なわないようにしてください。自分の宝や自分の座、宝と引き換えにするのはもったいないとしぶらないでください。それは地上のどんな宝物とも比べようがありません。イエス・キリストがくださるのは「永遠」に輝く、朽ちることも、汚れることも、虫がつくことも、腐ることも、色あせることもない真の宝です。


すでに、イエス・キリストはさきに天の座を降り、神の威光を捨てて、人となってくださいました。あたなより先に、ご自分を捨て、いのちまでも与えてくださいました。この差し出された愛を受け取ってください。あなたは神に愛されています。クリスマスの喧噪に流されることなく、しっかりと神からのメッセージを聞き取り、救いの贈り物をいただきたく願います。そして、このとき博士たちがイエス・キリストを囲んで大喜びし、宝をささげ、別人のようにされて帰ったのと同じ経験を、今朝の福岡めぐみ教会でもいたしましょう。  イエス・キリストは王です、救い主です。ハレルヤ、主をほめたたえます!



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