◆初代クリスチャンたちは、「主の初めの日」に復活の主にお会いしたので、このときから主の初めの日(第一日)=日曜日に礼拝や聖餐式をするようになりました(参照:ヨハネ20:1,19,26、使徒20:7、第一コリント16:2)。私たちの教会では「主日礼拝」との言い方が定着しています。これは「この日は主とお会いする日」「主を礼拝する日」という意味合いが濃いようです。ちなみに、聖書において「主の日」は終わりの日や最終的なさばきがなされる日、再臨等を指しています(参照:イザヤ2:12,ヨエル2:11第一テサロニケ5:2、第一コリント1:8など)。
◆私たちはこの週の初めの日を主のために過ごすように設定して行動し、備え、使い、ささげます。そうすることによって、自分の人生の主人は主なる神であり、人生は主のためにあり、主のために生きることを目的とするのだという新しいスタートラインを定めることができます。毎週、私の前に主を置くことにより、新しくされる恵みをいただきます。よく、映画やドラマ、歌などで感動するとき、自分が生まれ変わったような気分になることがあります。私は幼少期、カンフー映画を観た後は、すぐにその気になって兄に戦いを挑んだものでした。そんな刷新が毎週なされるのは、礼拝の持つ力、ダイナミックさを再認識させてくれます。
◆この日は主が造ってくださる新しい日、新しい週、新しい人生の始まりです。どんな状態でもよい。どんな気分でもよい。開かれている神の家の扉から入るとき、私たちは心身が洗われ、主によって新しくされるからです。こんな素晴らしいみわざを日曜を主のための日として始めるだけで体験することができます。そして、自分だけでなく隣人、さらにこれから救われるたましいのために、それぞれを主の御用のためにささげ、さわやかな喜びをいただきたいと願います。
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