聖書 ヨハネの福音書5:1-9 |
はじめに:病気やけがの経験
先週は、ガリラヤのカナで主イエス・キリストが公生涯において最初のしるし(奇跡)を行われた出来事を見ました(ヨハネ2章)。今週は5章になりますが、同じヨハネの福音書の中では3度目のしるしとなります(2度目は4:47-54のいやし)。
私たちは生涯の中で、さまざまな病気、けがを経験します。またひどい事故や事件、アクシデントも経験します。誰もが「死ぬかと思った」経験やそれにまつわるエピソードを持っていると言われるほどです(そういうタイトルの本もシリーズ化されていますね)。
私も多くのけがをしてきました。ドッジボールや野球で指の骨を折ったり、自転車で事故にあったりしてきました。しかし、そのたびに癒されてきました。その一つの理由は死ななかったからですね。当たり前のようですが、生きているからけがや病気もしますが、生きているから癒され、直りもします。
私も、自分のからだにある傷跡を見ると、そのときのことを思い出します。やけどしたことが二回ありますが、そのうちの一回はあまり痛くない話なので、ここで紹介します。
私が小学生低学年のころ、家にストーブがあり、冬はそこでお餅を焼いていました。あるとき、4歳上の兄がそこでみかんの皮をむいて焼いているのを見て、私もマネしたくなりました。みかんをむいて、ストーブの上に置きました。そこまではよかったのですが、焼けるまでの間、私はストーブに座って待っていようと考えました。そうすると、ストーブの網の上にすわってしまったのです。ちょうどお風呂上りだったので(なぜ、そのようなときにした!)、臀部の肌が網の焼け跡が付いてしまいました。幸い、皮膚の厚い部分でしたので、あまりひどくはなりませんでしたが、私の臀部には数年ストーブの網のあとがついていました。
しかし、ある程度回復しても傷跡や後遺症が残ることもあります。あるいは身体的な傷だけでなく、他人からの言葉や視線によっても精神的にまいらされ、癒えない傷を負うことだってあります。
福音は、そんな世界に住む私たちに語りかけます。
今朝の聖書個所ヨハネ5章6節後半をご覧ください。
「良くなりたいか」(ヨハネ5:6)
直訳すると、「あなたは願っているか、望んでいるか。健やかなることを」となります。主は私たちが「良くなりたいと願っているか」と尋ねておられます。痛みをがまんしろではないのですね。ごいっしょに、進んでまいりましょう。
1 冷たい場所
今朝は「ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」(1)と始まります。当時のユダヤの習慣では礼拝や祭りの際には、とにかく身をきよめることが重要でした。先週みたヨハネ2章で「ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった」(2:6)のを思い出しますね。ユダヤ人は普段の食事の席でも、よく手足を洗いました。それはバイキンやゴミが入らないようにということよりも、「きよめ」という神の前での姿を意識するからでした。
きよめの反対は「汚れ(けがれ)」です。旧約聖書のレビ記に記されているように、男女がふれあうことや身なり、強い酒を飲むことや何を食べてはならないかということも「けがれから身をまもる」ためになされていました。近親者以外の死体にふれることや、身に欠陥のある者に近寄ってはならないことも命じられています。一見、これらは人種差別のように思えますが、近親者以外の者がその死体にふれてはならないのは、近親者こそがその人を丁寧に葬ることを求めているためです。身に欠陥がある者への厳しい対処も、礼拝における完全なささげものという観点から記されています。そして、それはイエス・キリストを指していますので、そうした文脈で読むことも教えられます。それゆえ、個人と同時に教会でともに聖書を読むことも大切になります。▶
このようなことと、今朝の個所を重ねていくと、イエス・キリストの異様さとやさしさに気づくことができます。祭りをやっているにもかかわらず、イエス・キリストは神殿ではなく羊の門近くのベテスダの池を活動場所にしておられます。そこでは「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になって」(3)いました。礼拝や祭りではその身をきよめるのだと、特にこれらの人々といっしょにいたり、ふれたりすることは避けられ(それ以上に、忌み嫌われて)いました。良きサマリヤ人のたとえ話で、強盗に襲われた彼を誰も助けなかったのは彼らが面倒だとか嫌だとか感じた以上に、宗教的にけがれてしまうことを避けたからだと言われることもあります。9節を見ても「その日は安息日であった」とありますから、礼拝と祭りが重なる重要な日です。
イエス・キリストは、その日、その場所をあえて通られました。あえてそこを選ばれました。なぜでしょう?それは、大勢の避けられている人、病の人、横になって動くことのできない人がいたからです。そうして、彼らに福音を届けるためです。
礼拝は、私たちが最上のものをささげるものであると同時に、生ける神と出会うとき、場所でもあります。同じように、今朝、この場所を主イエス・キリストは通られるのですね。生けるキリストに出会う礼拝をと願います。▶▶
安息日の礼拝や祭りで騒がしい中、このベテスダの池の周りだけは、いつもと同じ空気が流れていました。いや、よどんだ空気が停滞していました。唯一の希望は、時に池から噴き出す水に、一番にあずかることができればどんな病気でも癒されるという言い伝えだけでした(重要な写本には欠けている4節/欄外脚注を参照ください)。
誰も来てくれない場所、誰も助けてはくれない人、誰からも歓迎されない集まり、唯一の希望は偶然に湧きあがる一瞬の水・・・かげろうのようなかすかな希望だけを胸に毎日そこに横になっている。主イエス・キリストは、そこをあえて通られたのです(大切なことなので二度言います)。今日、お手元に配りました地図をご覧ください。新約時代のエルサレムの町を図にしたものです。真ん中右に赤く囲まれているのがエルサレム神殿です。神殿の正面入り口は下にありますが、今朝の出来事は上にあるsheep gate(羊の門)ですね。よくわかるとおり、それは裏口であり、陰日向です。まさにあえてでなければ通ることがない場所であり、ふれたくない人たちの集まりでした。主イエス・キリストは、そこをあえて通られたのです(3度目ですね)。イエス・キリストは痛み、苦しみを共有してくださるお方です。決して通り過ぎたり、見過ごしたりなさいません。ぜひ、ここに記されているイエス・キリストが、今私たちのいる場所、あなたの目の前で立ち上がってくださることを期待しましょう。■
2 かき回す方
このベテスダの池はヘブル語だと書かれていますが、その意味については沈黙しています(当時の読者はそれで分かっていたということです)。訳すと「あわれみの家」です。そこには回廊(アクセスする通り道)が5つもありました。そうです、主のあわれみが届かない場所はないのだよ、どれほど停滞していても、よどんでいても、ひがんでいても、そこに主はあわれみをもって臨んでくださるということです。
5節でようやく、一人の人にスポットが当たります。聖書はこのように大勢の人から一人の人に出来事を移しますが、それはその人しか救われなかったということではなく、その一人を通して普遍的な人々へ適用ができるように証言するものです。そこにいたのは「38年間も病気にかかっている人」でした。おそらく、当時の平均寿命くらいだと言われていますから、人生の大半が病気であり、このときのように横になって(6)過ごすしかありませんでした。その彼を見たイエス・キリストは、それがもう長い(38年)であることを知ります。それは彼から聞いたのではなく、主イエスが全知全能の神であられるからです。主イエスに分からないことは何一つないのです。あなたの苦しみも、世の罪の暗さも、仕事の大変さも、家庭を治める苦労も、人間関係による苦痛も、身体的苦しさもすべてご存知です。▶
そんなお方が、信じられないことを言われました。
「良くなりたいか」(6)。これがどれほど衝撃的か想像ができるでしょうか。たとえば、みなさんが風邪になったとします。熱もあがり、喉も痛む。身体は震え、何日も食べていません。これはひどいからと病院へ行きます。朝から行っているのに、受付は長蛇の列で、診療は午後になりますと言われ、憤慨しながらも待つしかありません。ようやく自分の番が巡って来て、待望の医師との対面です。その第一声で「良くなりたいの?」と言われたらいかがでしょうか?「見て分かるでしょ」「ここは病院だろ!」「おちょくるな」と怒鳴ってしまうかもしれませんね。
同じことを、主イエスはなさっているように思えます。実は、このことばの並びは「あなたは願っているか、直ることを」となります。主イエスは彼の病が長いのを知っていました。ずっと横たわっているのを知っていました。その彼に「あなたは望んでいるか」と聞かれたのです。
私たちは少々の風邪でも弱気になるものです(特に、私がそうです)。三日体調不良が続くと立ち上がる気力がなくなり、一か月も続けば相当ヤバくなります。年単位になれば、すでに体力は半減し、気力は無に近くなるのではないでしょうか。38年間。それは彼のすべてを奪い去るのに十分すぎる時間です。直す気力も、直る希望もとっくに捨てている状態であったかもしれません。▶▶
池の水がかき回されるのを待ち続けていた彼は、主イエスのこのことばで、心も気持ちもかき回されたに違いありません。その証拠に、彼は「ああ、そうです主よ」、「いいえ、もう願ってなんかいません」とYESかNOで答えることをしませんでした。主イエスが言われたこととは違う角度から答えています。彼は2つの心境を告白しています。
1つは「池の中に入れてくれる人がいません」というものです。「こんな自分を誰も気にはかけてくれない」、「あわれな自分を助けてくれる人などいない」と孤独を感じ、孤立している寂しさがあふれています。
もう1つは「他の人が先に下りて行きます」というものです。「いくら自分で努力したって無理。どうにかなるものではない」、「自分が頑張ってもムダ」という疲れであり、あきらめです。ある意味、そのために頑張ってきたからこそ言えるセリフなのかもしれません。それでも、もうムリなんですという結論でした。
「今日直るかも」「今日救いが来るかも」という期待感はとっくに薄れてしまい、他人へのつぶやきと自分へのあきらめにふさぎこんでいます。まさに、この人に会うために主イエス・キリストはベテスダの池(あわれみの家)を通ってくださいました。同じ主がここにもおられます。■
3 床を取り上げる
このように7節で長くその人からの答えを受けたイエス・キリストは、次どのように彼に向き合っているでしょうか。それはとてもシンプルなものでした。
「起きて床を取り上げ、歩きなさい」(8)
1 起きなさい、2 (床を)取り上げなさい、3 歩きなさい。3つの命令形で構成されています。短いながらも、これ以外にあなたへのことばは用意していないというような力強さや集中が感じ取れます。誰も助けてくれない、自分がやってもムダですと他人や自分という人間を見ていた彼に、神からのメッセージが全身全霊を包むようにしました。
たとえ、それが命令形であっても、彼に対する神からのプレゼントです。38年間も横たわっていた彼にとって、突然「起きなさい」と命じるのは厳しいことでしょうか。そうですね、確かに突き放したような命令に聞こえるかもしれません。しかし、この場合、彼の気持ちを汲み取って「わかった。辛いのですね。大変なのですね。そのままでいいですよ」と言ってあげる方が、冷たい対応にならないでしょうか。「あなたの気持ちや苦労は分かりました。これからもそれは変わりませんね」と言うなら、うなずきはすれども、救いを与えることにはなりません。イエス・キリストは救い主です。必ず彼を救うお方です。▶
これら3つの命令形に関わるものがありました。それは「床」です。彼が横たわっていたのは「床」でした。彼が取り上げるべきものは「床」でした。彼は「床」から歩き出すように命じられています。すべて「床」なのです。マルコ2章で中風の人を運んだのも、この「床(マット)」でした。床は病気の彼を支えるものであると同時に、彼の居場所そのものです。確かに床がなければ彼の背中は痛み、寝ることもできません。けれども、その床にいるかぎり、彼は立ち上がることも、歩くこともできない。その場所にずっといなければいけない。そうです、人が~~~してくれない、自分は何をやってもムダだ、とつぶやいたり、嘆いたりする場所から訣別するのです。
「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできるのです」(マタイ19:26)という神の全能性は宇宙の仕組みとか大きな奇跡とかよりも、一人のたましいの救いに対して発揮されます。この世でさまよい傷ついていたうちの一人が神の国に入るようになるために神は全能の力を働かせてそのようにしてくださいます。一人の失われていたたましいが救われるために、神はこの世界を造り、支えておられる全能の力をもって、そのたましいを救い出してくださいます。この人ができないと思っていたこと、しようとも思わなかったことをさせてくださる。やってみようという力を与えてくださる。▶▶
起きよ、取り上げよ、歩き出せという命令形の3連符は、彼に新しいいのちを吹き込みました。床から起き、床を取り上げ、床から離れて歩き出しました。
「すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」(9)
この「治って」という語が6節で主イエスが聞かれた「良くなりたいか」と同じ語です。一見、意地悪のように思えた言葉が、ここでちゃんと実現しています。主は真実なお方、全能者です。祭りのにぎやかな神殿の裏で、一人のたましいが救われ、新たな道を歩き出しました。
9節は「ところが、その日は安息日であった」と結ばれています。「ところが」とは、当時の律法規則で、安息日には床を取り上げるという行為が労働にあたるとされ禁止されていました。たとえ、それが病人の癒しであろうとも、人々はそれを喜ぶことをせず、誰がそんなことを言ったのかと犯人捜しを始めます(12)。神のみこころをそこなった世界は、人の救いを喜ばず、安息日は規則ばかりで縛られて解放や憩いも味わえず、殺伐としたもの。生きた心地がしません。ぜひ、主イエス・キリストの福音を私たち一人ひとりのたましいにいっぱい吸い込み、この福岡めぐみ教会を福音の喜びで満たしましょう。そして、新しい週、床を取り上げて歩き出します。■
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