聖書 ルカ5:27-32 |
1. 座っているところに
本日の聖書箇所は主イエスに出会って立ち上がった人です。そして、立ち上がっただけでなく、主イエスに従って歩んで人生、生涯、永遠がかわった人の話です。聖書が今朝の私たち一人ひとりに語られているとしたら、私たちにもそのことが起こるのです。そうした期待に胸を膨らませながら、進めてまいりましょう。
レビは座っていました(マタイの福音書の著者)。「収税所」に座るまでは長いストーリーがあったはずです。新約当時、小さな国イスラエルと帝国ローマの支配関係がありました。ユダヤ人から税金を取るために、帝国はローマ人ではなくユダヤ人を使いました。余計な敵意や反乱を指せないための政策です。そして、取税人になるために入札制度を取っていました。ユダヤ人からしっかりと税金を取り立てて納める人物を選ぶためです。当時も面接があったのですね。
レビは立候補し、面接を経て取税人になりました。わざわざ嫌われる人はいませんが、レビが自分から嫌われ役を買って出たのにはそれなりの理由があったはずです。仲間外れにされた、いじめられた、むしゃくしゃした、もうどうでもいいと考えた・・・何かのきっかけがあり、周囲からの文句や冷たい視線にさらされながら、今日もレビは収税所の椅子に座っています。その椅子は彼の居場所であり、仕事仲間とお金だけが彼の支えでした。
詩篇の始まり1篇は次のように始まっています。「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人」(詩篇1:1)
下線部を逆にすると、幸いでない人とは悪い考えに迷わず歩み、罪人の道に心痛めることなく立ち、ついにはそこに居座る人だということがわかります。レビが座るようになったのは、この道程と重なります。自分の人生こんなものかな、これでいいのかな、どうしたらいいのかな、いつも同じ生活の繰り返し・・・そんなレビ、そして私たちにジーザスとの出会いが訪れるのです。
私たちは主イエスとの出会いがないと真の人生を歩き始めることができません。救い主が中心にいないと、人生はつまずきます。導き手がいなければ、人生は座り続けたまま過ぎていきます。信頼する方がいなければ、毎日流されるままです。それは日々の私の生活や心の動きも同じことが言えます。キリスト中心に生きていないと、いつも問題を誰かのせいにしたり、周囲の環境のせいにします。けれど本当の問題は、自分がキリスト中心に生きていないことです。キリスト中心に考えていないので、自分勝手な考えにこだわります。誘惑にとても弱くなります。キリスト中心に生きていないので、相手に非を認めさせようとします。あわれみがなく、勝か負けるかの世界で生きようとします。平安がなく怒りやすくなり、自分が引くことも相手を喜ぶことも難しくなります。
2. 目を留め、声をかける主イエス
そんなレビが立ち上がるようになったのは、主イエスが彼に目を留め、声をかけられたからです。主イエスは軽べつの目ではなく、熱心なまなざしを浴びせるお方です。ルカ22章の終わりに弟子のペテロが主イエスを裏切ってしまった直後「主は振り向いてペテロを見つめられた」(22:61)場面があります。きっとその場面もあわれみに満ちた目でペテロを見つめられたはずです。聖書は主イエスの身長や骨格、髪型などには沈黙していますが、主が教えられたことや動作、そしてまなざし(視線)については要所で記しています。私たちはそこからしっかり想像することができます。
ある心理学者が人間同士のコミュニケーションで、視覚・聴覚・言語情報がどのような割合で影響しているか検証しました(メラビアンの法則と言われます)。その結果は①資格情報(見た目、しぐさ、表情、視線)が55%、②聴覚情報(声の質や大きさ、速度、口調)が38%、 ③言語情報(言葉そのものの意味、内容)はわずか7%というものでした。つまり「怒っている」という言葉そのものより表情や身振り手振りがより大きな要素となって相手に伝わります。おだやかな表情で「怒ってる」と言えば相手を傷つけず、不満げな表情で「すごいね」と言っても相手はネガティブな印象を受けます。このとき、主イエスはどのようなまなざしを向けたのでしょうか。
それは主イエスがレビにかけられた言葉とレビの行動を見ると想像できます。「わたしについて来なさい・・・するとレビは・・・イエスに従った」とあるので、レビには100%主イエスの言葉の内容が伝わっていることがわかります。それは、主イエスが冷ややかな目でレビを見たのではないと言うことです。主イエスが棒読みで気持ちを込めることなく「ワタシ二シタガイタマエ」と言ったのではないということです。主イエスは本当にレビを引き上げる思い、まなざし、表情、語調で声をかけられたのです。
いったい、主イエスはレビの何を見てそんな声をかけられたのでしょう。どんな理由でレビがそばに来るように呼ばれるのでしょう。レビに可能性があったから?暇そうだったから?声をかけてほしそうだったから?誰かに頼まれたから?いいえ、これらのいずれでもありません。ただ主イエスは滅びの穴から引き上げるためにレビに目を留め呼ばれました。レビにその資格や要素は1%もありません。主に呼ばれて、人は主に従います。この中の全員がそうです。自分で来たのでも、親に連れて来られたのでもありません。実に主があなたを呼ばれたので、ここにいて、神を賛美し、みことばを聞き、礼拝している。
ジーザスはあなたの頑なさを砕こうと目を留め、あなたのこだわりを溶かそうと声をかけ、あなたの人生を新しい使命にさせようと引き寄せておられます。
3. 主イエスに従う
レビは「すべてを捨てて立ち上がり、イエスに」(5:28)いました。ここにイエスに従うことは、イエスを「主とする」ことだと教えられます。イエスが主であれば、レビ、そして私たちはしもべです。主に従うためにふさわしくないものがあれば、喜んで捨て去ります。イエスに従おう、信じてみよう、洗礼を受けてみようとするとき、必ず私たちが捨てるべきものも示されます。それに抵抗したり、残そうとしたりすると、まさに二人の主人に仕えることができないと言われるように、どっちつかずの生き方になってしまいます。そこに「主」はおられません。
レビの職業である取税人は、一度やめると二度と戻れないのが決まりでした。レビが捨てたのはその座です。もう二度と自分がその座に着く生き方はしない。これからはイエスを主としていく。そのスタートがここでその座を捨てて立ち上がった場面です。
人が一つの習慣をやめるのに有効な方法は「〇〇をしてはいけない」と禁止されることではありません。禁止は人間の欲をおびき寄せます。してはならないと言われると、逆にしたくなってしまうのが人間の持つ弱さです。主は「座っていてはならない」と言われませんでした。それよりも、もっと良い知らせを告げました。「わたしについて来なさい」は、〇〇してはならないを超えています。
レビがその座を捨てることができたのは、収税所の椅子よりも素晴らしいことを知ったからです。お金や仕事よりも価値あることを知ったからです。仲間とパーティーをするよりも大きな喜びを知ったからです。この地上で犠牲を払うことは必ずある。しかし、神の国の完成のとき、それは永遠に続きます!そこではとてつもない価値があります。虫もつかず、さびもしません。本物の宝を持つのです。それだからこそ、この世で出来ないことがあったとしても、喜んで捨てるのです。
そうして、すべてを捨てたレビがしたことは、取税人や人々を家に招くことでした。それはただの楽しみではなく「イエスのために盛大なもてなし」でした。それは主イエスを中心とした交わりの場の提供です。これはゴスペルハウスも同じです。自分で多くを語れなくてもよい。たくさん聖書の知識がなくても、自分で説得しようとしなくても大丈夫。ただ、自分が誰に救われ、誰とともにいて、誰のために生きるのかをわかるようにすることです。以前のあなたを知っている人とであればなおさらその変化を見てもらえます。以前悪いことを言ってしまったとしても、関係がまずくなってしまった人とでも、あなたがイエスを主とする生き方に変わったことを証しすることができます。伝道は言葉でもできるし、祈りでもできるし、行いでもできるし、場の提供でもできるし、準備や仕えることでもできます。
ただし、主イエスがレビに親しくしたことを快く思わなかった人もいました。その人たちに向けて「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(5:31-32)と答えています。
ここでペアになっているのは、健康な人=正しい人であり、病人=罪人です。律法学者たちはレビの変化や幸せな姿が許せず、もっと許せないのはそのレビに声をかけ、一緒に食事をする主イエスでした。神は正しい人と一緒にいてくれるのではないか。では、なぜ自分たちではなく、レビなのか。正しい人が招かれず、罪人が招かれている。それは不公平だ、納得できない。その不満が心にも表情にも小言にも出ています。
しかし、この世でもっとも不公平なのは、罪なき神の御子イエス・キリストがすべての人の罪を背負わされて十字架で殺されたことです。もし、公平を追求するならば、罪人は一人残らずさばかれなければなりません。自分がさばかれて当然の罪人だと認められないと、主イエスの素晴らしさはわかりません。主は罪人を招き、悔い改めさせるために来られました。ここでレビが変えられたのと同じ場面、同じ主イエスのことばを聞いていても変わらなかった人たちもいます。このことは、あなたにも鋭く語りかけているのではないでしょうか。
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