聖書:第一コリント人への手紙 9:19-23 |
はじめに:自由を味わっていますか?
今年の教会テーマは「福音に生きる~Life in the Gospel~」です。「福音」のもつ豊かさを味わうために、主の日の礼拝メッセージもさまざまな個所からみことばを聞いています。9月には「主の弟子になってついて行く」こと、先週は「仕えるためにいのちを与える」ことを学びました。イエス・キリストを主として従っていくとき、私たちは人生が祝福され、確かな道を歩むことができます。また、イエス・キリストにはその価値がある唯一のお方です。網や舟を捨てて従ったペテロやアンデレたち、収税所にすわっていたところから立ち上がったレビ、ご自身のいのちを捨ててまで私たちを愛してくださるのがイエス・キリストです。このように、本当に福音は素晴らしいものです。
そして、今日は「すべてを福音のためにする」ことを学びます。福音は素晴らしいものなので、私たちはすべてのことを福音のためになるように生活します。ただのスローガンではなく、日々の具体的な言動の現れ、思考の材料として。知識としてだけではなく、生き方として。
「すべては福音のために」と聞くと、強制的、義務的に感じるでしょうか。それ以外のものは受け付けない、許されていないというような印象を持つでしょうか?
「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)というみことばがあります。とても嬉しいことに、これは国会図書館にも刻まれています(羽仁もと子の娘婿である羽仁議員がドイツで見てから導入したそうです)。
私たちが自由になるためには「真理」が不可欠です。実際、先のみことばは「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」というつながりになっています。まず、自由になるためには、私たちが真理を知る必要があるのです。真理に生きてこそ、自由を味わうからです。
なぜ、自由なのに「真理」という枠が必要なのでしょう。何もないのが自由なはずなのに・・・と思われるかもしれません。けれども考えてみてください(運転免許を見せる)
私はこの免許を持っているので「自由に」運転することができます。それはこの運転免許が本物だからですね。もし、無免許や偽物、期限切れだったら自由には運転できません。いつ見つかるか、捕まるかとビクビクしながら運転しなければなりません。免許という真理(=本物)を持っていないからです。真理のうちにあってこそ、自由を味わうことができる例ですね。今朝は、みことばの真理を知り、福音のためにすべてにおいて自由に生きることを学びましょう。
1 自由にする福音
今朝の聖書個所は次のように始まります。
「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました」(9:19)
これは、真理を知って喜んでいる人の告白ですね。もし喜んでいるのでなければ「私はだれに対しても自由になれず・・・仕方なく奴隷となりました」とか「私は〇〇のせいで、まるで奴隷のような毎日です」と聖書に記すどころか日記で見られても恥ずかしい告白になってしまいます。しかし、使徒パウロは「だれに対しても自由です」と、強制されたり、だまされたりしてはいないことを宣言しています。それは、パウロが福音によって「自由にされた」からです。
福音によって自由にされる前のパウロは、生まれたときから「ユダヤ人」でした。生まれてから八日後に割礼を受け(創世記17:12の規定通り)、その出身はイスラエル民族の中でもサウル王や王妃エステルを輩出したベニヤミン部族であり、育ちとしては「律法についてはパリサイ人」(ピリピ3:5)、しかも「ガマリエル(民全体に尊敬されていた教師)のもとで・・・厳しく教育を受け」(使徒22:3)た、非の打ち所がありませんでした。
そんなスーパーエリートのパウロは、律法がすべてだと教え込まれ、旧約聖書の律法を守り行うことで神に義と認められる生き方を突進していました。さらに、パウロは律法に熱心なあまりキリストの福音に対して猛烈な反発をし、クリスチャンたちの家に押し入り、教会から追い出し、ひどく脅し、牢屋に閉じ込めました(使徒8:1-3,9:1-2)。ステパノの殉教の際には、殺害に賛成してステパノからはぎとった着物の番をしていました。クリスチャンを抹殺することがパウロにとっての正義でした。
しかし、福音はそんな律法ガチガチのパウロを見事なまでに解放しました。パウロを解放した福音とは、律法を行うことを通してはだれも神に義と認められることはなく、ただイエス・キリストによる罪の赦しを信じることによってのみ神に義とされるというものでした。まさに「目からうろこ」(使徒9:18)が落ちるように、それまでこだわってきた律法に生きる道を捨てて、イエス・キリストを救い主と信じる福音の道へと変えられたのです。
パウロは、私たちが想像する以上の頑固者だったことでしょう。生まれたときから家と学校と民族全体から律法を叩き込まれてきました。パウロの成分は律法でできていました。疑わずにその道を歩んできましたが、パウロの中には義の確信はなく、かえって「罪の意識」(ローマ3:20)ばかりが大きくなるばかりでした。それでも律法を守り行う以外の道を知りませんから、罪の意識をふっしょくしようと、躍起になる。律法を守れなかったり、知らない者たちをさばく。そんなことを繰り返していたパウロには救いも喜びもありませんでした。
そんな反キリストだったパウロを、福音はキリストを愛するものへと変えました。律法を教え込んでいたパウロを福音は熱くキリストの十字架と復活を語る宣教師にしました。「〇〇をしなければならない」「〇〇はしてはいけない」とばかり言っていたパウロを、福音は「だれに対しても自由です」(9:19)と自分にもみんなにも言えるような者に変えました。
みなさんの中に、これまでの自分とは変われないとあきらめている人はおられますか?あるいは、変わりたいと思っている人はおられますか?このように育てられてきたからと苦しんでいる人はおられますか?こうでなければいけないという強迫観念に悩まされている人はおられますか?福音は、あなたをすべてのことから自由にしてくれます。どんな恐怖、壁、不安からも解放し、あなたを自由にしてくれます。福音の真実に偽りはありません。
2 隣人にする福音
ただ、福音を信じよう、福音はあなたを自由にしてくれますと聞いても、すぐには受け入れたり、瞬時にすべての悩み苦しみから解放されるということはまれです。なぜなら、神さまは私たちがちゃんと悩み、一歩進んだと思ったら二歩下がるような性格をご存知だからです。
今日の9:19-23で繰り返されている言葉に注目しましょう(私はよくそのような読み方を推奨します)。もっとも多いのは「獲得するため」(9:19;20;21;22)で実に5回も繰り返されています。あなたを縛っているものから解放し、あなたを「獲得する」まで福音はしつこくしつこく、何度も何度も心をノックしてくれるということです。それもたくさんの方法で。
「ユダヤ人にはユダヤ人のように」、「律法の下にある人たちには律法の下にある者のように」、「律法を持たない人たちには律法を持たない者のように」、「弱い人たちには、弱い者に」なって、福音以外のものに縛られ、とりこにされている者たちを救い出すというのです。大事ことは、福音は変わらないけれど(イエスは救い主)、福音を伝える方法、場所、時、文化、人種、習慣、考えはその都度変化させている、という点です。
この礼拝室の両壁にみことばがあります。右のバナーには「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と掲げてあります。この「あらゆる国の人々を」というのは、日本人が日本人だけに福音を伝えるということではありません。日本人の中にもさまざまな考え、立場、年代の人がいます。その一人ひとりすべての造られた者に福音を伝える使命が教会とクリスチャンには与えられています。また日本から見て諸外国の人々にも福音を伝えなければなりません。
「あらゆる国の人々」に福音を伝えるためには、私たちが「あらゆる国」ということを意識し、「あらゆる人々」のもとへ出て行かなければなりません。それも、対決姿勢ではなく、福音を伝える機会が与えられるように出向いて行くのです。そうすると、おのずと彼らに仕えることが一番良い方法だとわかります。今朝の聖書個所で言えば「すべての人の奴隷になる」(9:19)のです。それがユダヤ人にはユダヤ人に、律法の下にある人には律法の下にある者に、律法を持たない人には律法を持たない者に、弱い人には弱い者になったパウロの福音宣教の秘訣です。それを、彼はいやいやながらでも、しぶしぶでもなく、「だれに対しても自由」だから「すべての人の奴隷になり」ました。
それまですべて自分で何とかしてきたパウロにとって、福音はその頑張りやこだわりから解放し、自由にしてくれました。それまで自分を誇っていたパウロは、すべての自慢や誇りから自由になることができました。それまで他人の不義をさばいていたパウロが、すべての人の奴隷になることができました。なぜなら、イエス・キリストが天の御座からかけおりて、肉を持つ弱い人間になってくださったからです。この福音を知って、それまで自分が徳、善、義だと思っていたことがゴミやちりのように思えるほどに変えられました(ピリピ3:8)。イエス・キリストが素晴らしいからです。この方によって解放され、救われたからです。
私の人生は試練ばかりだ、いやなことばかりだと嘆く私たちに福音を伝えるために、イエス・キリストはすべての試みにあってくださいました(へブル4:15)。孤独でさびしいと涙する私たちに福音を伝えるために、イエス・キリストは弟子たちに見捨てられました。いじめや掲示板や陰口で死にたくなるほど追い詰められる私たちに福音を伝えるために、イエス・キリストは口汚くののしられ、家族や故郷の人からも疑問を持たれました。私も、あなたも、福音を伝えるために誰にだってなることができます。福音は、あなたをあらゆる人々の隣人にしてくれます。ぜひ、与えられた自由を福音のためにいかしましょう。
3 恵みを注ぐ福音
イエス・キリストの弟子となったパウロは、あらゆる人々を「獲得するため」に、自由に、すべての人の奴隷となりました。その思いは徹底的で「すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです」(9:22)と、もはや人でもなく「ものになった」とまでへりくだっています。それほど、一人のたましいを獲得すること、救うことは素晴らしい価値がある働きであるということです。
しかし、使徒パウロは「私は〇〇人救いました」ということをいっさい誇っていません。それよりも、この手紙第一コリントの最初から「私はパウロにつく」とか言って「仲間割れせず」にいてほしいと書き送っています(1:10-17)。また、人が「私はパウロ先生からどうのこうの・・・」と言わないように「私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした」(1:14)とも言っています。
パウロは、自分が何人にバプテスマを授けたか、誰が自分から福音を聞いて救われたかにはいっさい関心がありませんでした。なぜなら、パウロの願いはただ福音を聞いて受け入れた人がイエス・キリストだけを誇ることだからです。そして、いつも教会に宛てた手紙の最後には、福音のために奉仕している者、教会の人たち一人ひとりの名前を書きだして、励ましを送っています。
自分について来なくていい、イエス・キリストについて行ってほしい。自分といっしょにいなくていい、イエス・キリストといっしょにいてほしい。自分を誇らなくても、感謝しなくてもいい。イエス・キリストを誇り、ほめたたえていてほしい。それが福音のためにあらゆることをし、あらゆる人の奴隷となったパウロの心からの願いです。
自分に感謝されなくてむなしくなかったのでしょうか?せっかく救われて教会を建て上げていく人たちと離れることになって寂しくなかったのでしょうか?自分だけがみんなを励ましているように感じ、疲れてしまわなかったのでしょうか?宣教がうまくいかなかくて、投げ出したくならなかったのでしょうか?今朝の最後の節の結びを見てみましょう。「私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」(9:23)
パウロは、目の前の人に仕えるとき、疲れたとは言わずに、福音の恵みを受けて励まされていました。自分のこだわりを捨てて相手が何を考えているのか聞いているとき、「そんなんだからダメなんだよ」と捨て台詞を言わずに、福音の恵みを受け忍耐し続けることができました。かたくなだった人が福音をようやく受け入れたとき、「やっとかよ!あなたにはさんざん苦労させられたよ」と嫌味など言わずに、福音の恵みを受けてにんまりしていっしょに賛美していました。
このように、福音には不思議な力と喜びがあるのです。福音のために自分を無にして相手に仕えれば仕えるほど恵みがたくさん与えられるのです。そして、私たちはこの福音を「あらゆる国(地域、文化など)の人々」に伝えます。それはスムーズなことではありません。しっちゃかめっちゃかです。自分とは違う人たちと接することだからです。自分の領域を出て行くことだからです。自分の時間を後回しにすることだからです。しかし、そうしたからこそわかる恵みがあります。やらないと分かりません。
「自分の言ってもらいたいこととはちがうんだよなあ」とメッセージで感じるとしたら、それは福音があなたを目ざめさせようとしている証拠です。「近頃、教会は居心地が悪いなあ」と感じ始めているとしたら、それは福音があなたを変えようとしている証拠です。もし、あなたと違う人、しっくりこない人がたくさんいるとしたら、それは教会が福音に生きている証拠です。「教会の今年のテーマ、最初は無理無理って思っていたけれど、(釜山のホサナ教会やVBS,英会話クラスでも体験してみたし)結構いいじゃん」と思えるようになったら、それは福音によってあなたが変えられた証拠です。それを「恵み」と言っています。ぜひ、福音に生きる、福音を届ける、福音のためにあらゆることを、あらゆる人のためにチャレンジする福岡めぐみ教会、主の教会でありましょう。
(散歩:ひっつき草、雑草の中に入って行く)
Comentários