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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「つぶやきにさようなら」


聖書 ピリピ人への手紙 2:14-16

はじめに

「今は〇〇の時代です」と言われたら、何と答えるでしょうか?〇の中に当てはまることばを考えてみてください。

情報の時代、長寿(高齢化)の時代、便利な時代、低金利、孤独、格差(貧富の差)・・・などそれぞれに色々思い浮かぶことでしょう。


これは時代ごとに変わるのでしょうか。私の幼少期(70-80年代)は「バブル景気」でした。子どもたちがたくさんいて、商店街があり、近所付き合いがさかんで地域の運動会なども盛り上がりました。周囲の車が高級化したり、海外旅行に行く人も増えたり、派手な身なりや生活をする人が増えてきました。ただ、子どもが多い分、受験や就職はとてもしれつな競争がありました。競争は激しかったですが、頑張ればその分報われるという風潮にも満ちた社会でした。


その後は、子どもの数が減少し、健康状態や医療が進歩して高齢者が増しました。株価や地価の下落によってバブル景気がおわり、企業が採用する人が少なくなりました。就職氷河期と言われる時代で、大学を卒業しても優良企業に就職することが難しくなり、フリーターなどが増えてきました。その後は、派遣社員が増え、安定した人生設計を立てられる人が少なくなり、出生率は下がり、高齢化社会となり、現在に至っています。

今は「ゆるさ」や「多様性」「持続可能な社会化」もよく言われています。ただ、これら私たちが見たり感じたりしている「〇〇の時代」はそれこそ、月日とともに変わっていくものですね。数年後、十年後はまたまったく別の時代だと言われていることでしょう。


さて、私たちの手元には「聖書」があります。聖書は「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)ものです。決して変わることも、すたれることも、廃棄されることもありません。天地は滅び去っても、聖書だけは滅びずに残り続けます。なぜなら、それは時代に流されることのない神のことばだからです。全知全能の神は、時代や歴史に左右されることがありません。今の時代を見て、慌ててことばを言い直したり、付け足したり、削除することがありません。すでに世の初めから終わり(完成)までをすべて知っておられます。過去も、今も、これからも何が起こるのか、どうなっていくのかを知っておられます。また知っているだけでなく、それをご自身の計画のために用いておられます。

主は言い送ったことを何にも妨げられず、変更もせず、すべてを成し遂げるお方です。この時代にも通用することば、この時代を見定め、私たちの歩みを導き、堅くしてくださるお方の声に耳を傾けましょう。

「主よ あなたのみことばは とこしえから

天において定まっています」(詩篇119:89)


1.今は〇〇の時代

さて、その聖書が言ってくれていますね。

今は「曲がった邪悪な世代(時代)のただ中」(15節)であると。さまざまな情報に支配されないためにも、私たちは警告にも満ちたこの聖書のことばに真剣でなければなりません。


イエス・キリストご自身が同じように言っておられます。

この時代は悪い時代です・・・ニネべの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネべの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。」(ルカ10:29-32)


また、新約聖書だけでなく旧約聖書にもこの時代は~と言っている箇所があります。

「自分の汚れで主との交わりを損なう、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。」(申命記32:5)


「よこしまな時代」「曲がった時代」「悪い時代」「邪悪な時代」となんだかのろいのような言葉が続きます。それは今に至ったことではなく、実に主の前には旧約時代から新約時代そして、現代にまで共通した時代が続いています。あなたがたは曲がった、よこしまな、邪悪な、悪い時代に生きています、と。▶

よこしまは文字のとおり、本来はまっすぐで行くべきところに、よこぎること、曲がり、ゆがむことを指します。それがいかに時代の流れに沿っていたとしても、神の前では曲がっていることです。


昔も、今も「曲がった邪悪な時代」です。そして、悲しいことに、私たちは「ただ中に」(15)いると指摘されています。自分だけは大丈夫、流されもしない、その影響も受けない、別の場所にいるのだと言えません。


こんな実話があります。

トルコにて仲間とお酒を飲んでいた人が、そのまま酔っぱらって近くの森へ迷い込んでしました。家族や友人たちは連絡が取れなかったのを心配して、捜索をお願いします。やがて、おおぜいの捜索隊が彼を探しに森に入りました。そうとは知らないその人は、続々と捜索隊が森に入って来るのを見て、自分も手伝おうとその捜索隊に入ったのです。何時間も捜索に加わりながら、やがて信じられないことばを聞くことになりました。なんと捜索隊が呼んでいたのは彼の名前だったからです!彼は、まさか自分が捜されているとは知りませんでした。それがわかった彼は、「どうか私の父に言わないでください。きっと厳しく罰せられます」と頼んだそうです。その後彼がどうされたかは分かりませんが・・・

笑い話ですが、深刻な警告でもありますね。▶▶

私たちもこの曲がった、邪悪の時代にあって、遭難しないように捜されているひとりです。そして、このみことばを聞いているあなたこそ、捜されていて、捜し出された人です。


聖書は「私の足のともしび 私の道の光」(詩篇119:105)です。それによって、私たちの立ち位置が明らかにされ、行く道が灯されます。これなしでは、私たちは容易に遭難してしまいます。サーチライトのように、今朝みことばがあなたを捜しに出ています。この光に捕らえられ、向きを変えたいと願います。■


2 捨てるもの

この邪悪な時代にさまよっていた私たちは、捜し出された者です。ただし、それだけが目的ではありません。これからその「ただ中にあって」しっかりと生きていく続きのストーリーを託されています。


「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり・・・彼らの間で世の光として輝くため」(15-16節)です。とーーーってもたいそうな目的が課されていることに尻込みや遠慮をしたくなりますね。


けれども、私たちが曲がった邪悪な時代から捜し出されただけでは列車のレールの片方が乗っているだけです。私たちにとって大事なのは「どこから」救われたのかと一つの車輪と「どこへ」向かっているのかというもう一つの車輪の両方です。主に捜し出され救われた車輪と救われてから主に従って行く車輪をしっかりとレールの上に乗せて進みます。その最たる営みが礼拝です。


十人の人がイエス・キリストに助けを求めてきよめられたとき、自分が癒されたのに気づいて戻って主を礼拝したのは一人でした(ルカ17:12-19)。喉もと過ぎれば熱さ忘れる薄情な面を持つ人間の現実に、イエス・キリストは今日も福音の光をもたらそうとなさっています。▶

もう一度見てみましょう。「非難されるところのない純真な者・・・傷のない神の子どもとなり・・・世の光として輝くため」(15-16)に私たちは救われました。この中にだれも例外はいません。だれもが、純真で傷がない神の子どもとして、世の光として輝くのです。これが主のご計画です。あなたの発想ではありません。主がそのようにしてくださいます。あなたの力ではありません。


ただ、主がしてくださるとうなずくということは、自分では何もしないということではありません。私たちが「主のみことばに従う」ことが必要です。みことばによって、私たちは自分では考えもしなかった志(願い)が与えられます。みことばによって、私たちは自分ではできるとは思わなかったことができるようになります(参照2:13)。聖書のことばが、私たちの内側で願いや志になり、聖書のことばが、私たちに力を与え、行動させるように働くのですね。


私は比較的厳しく育てられましたが、その反動で学生時代は自由に過ごしました。その結果、食べ物の好き嫌いがはっきりしてきました。そんな私が神学生になり、奉仕教会の牧師宅で毎週夕飯をいただくようになりました。小さな子どももいたので、私はむげに好き嫌いをするべきではないと思い、そこからまったく好き嫌いがなくなりました。▶▶

食べ物と同じように、自分の好き嫌いや意欲だけでみことばに接していると「これは従いたいみことば」「こんなみことばに従うのはまっぴらだ」「これはできそう」「これはやりたくないな。そもそもできない」と食べ放題バイキングのようにしてしまいます。そこには栄養やバランス、いろどりや成長もありません。ぜひ、この分厚い聖書ですが、礼拝でともに聴くみことば、礼拝で出会ったみことばに対しては、心を開いて臨みましょう。それが今朝の始まりになっています。「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」(14節)


よこしまで邪悪な時代は、アダムとエバが神に背いてからずっと続いています。旧約聖書では、モーセが率いていたイスラエルの民全体がつぶやきの専門家でした。エジプトで奴隷のときには「もうこんな苦役はいやだ。助け出してください」と叫び、エジプトを脱出するとさっそく「水が苦すぎる~」と不平を言い、荒野の旅が続くと「エジプトに戻りたい。エジプトでは肉や魚、きゅうりやすいかを食べていたのに」と文句を言い、神が天からマナという恵みの食物を降らしてくださると、初めは感謝しても次第に「もうマナばかりだ。飽きた」とつぶやき続けました。そのたびに、主は水を甘くし、マナを降らせ、うずらを降らせ導き続けました。決して根絶やしにせず、彼らを訓練しながら導き続けました。私たちが不平をやめることを、主はずっと願い続けておられます。■


3 握って離さない

不平を言わず、疑わずに行うためのコツは「いのちのことばをしっかり握」(16節)ことです。「いのちのことば」はキリスト教書籍出版社の名前で聞きなれていますね。

みことばは「いのち」であるからこそ、握って離しません。


「握る」とはポイントを決めて力を注ぐことです。ここに、私たちを互いにつなげているものがあります。教会は賛美、喜び、平安、愛のあるところです。それらがあふれていることを日々願っています。しかし、それに加えて教会に欠かせないものがあります。それは神に対する真剣さです。神を礼拝することへの切実さ、熱心さ。神に従ってゆくがゆえにピンと張った霊的な雰囲気があります。


学校のクラブ活動を想像してみください。体育会系でも、文科系でも、部員たちは真剣に取り組んでいます。楽しさももちろんあるでしょうが、一人ひとりをつないでいるのは「よりうまくなりたい」「次のコンクールを突破したい」という目標です。そのために鍛錬を重ね、時には自分にも互いにも厳しく接し合います。もし、練習もせずにスイーツを食べに行ってばかりだったら真剣さを皆が持つことはできません。そして、一度真剣さや本気度を失ってしまうと、それを取り戻すのには時間がかかることでしょう。教会も同様です。こと「いのちのこtpばを握る」聖書に従うことに関しては真剣なのです。▶

パウロは、ピリピのクリスチャンがそのようになるために「努力」し「労苦」していると伝えます(16節)。面白いですね、パウロは「何とかして、何人かでも救うため」(1コリント9:22)に最大限の努力をしていましたが、それと同じく大事にしていたのは、救われたクリスチャンが生涯神に従う者として歩むことです。それが、ここにある「努力」「労苦」です。パウロは、人が救われることにも最高の努力をし、救われた人が神に従っていくことにも最大の努力をしました。まさに、「どこから」救われたかという一つの車輪、そして「どこへ」向かうのかのもう一つの車輪をクリスチャンがしっかりととらえ、脱輪しないように、励まし続けました。


パウロにとっての最終目標は、救われたクリスチャンが最後まで神に従うことです。一人、また一人と信仰から離れないクリスチャンが天国へ行くことを、パウロはイエス・キリストと会う日に誇ることを楽しみにしています。


私たち福岡めぐみ教会も、主の教会ですから、ピリピの教会に言われているのと同じこの使命を授かっています。自分が罪から救われたことを感謝し、喜ぶこと。そして、救われた自分が神に従い続けることをやめないこと。いのちのことばを握る集中力は切らさない、神を礼拝する真剣さを絶やさない、こうした霊的なムードを醸造してまいりましょう。▶▶

結びに、私たちの教会の活動を整理してまとめます。

新たに人が救われるための努力、労苦にはどのようなものがあるでしょうか。今年もさまざまなイベントをしました。イースターコンサート、6月からの英語クラス、夏のVBS、釜山ホサナ教会とのコリアンフェスタ。また、毎週入門クラスが2階とオンライン併用で行われていて、教会に定着するように、聖書の全体像や信仰のことが分かるように学び合っています。教会学校やジュニアクラスも教師たちがたましいの救い、確信のために取り組んでいます。今年は新しい奉仕者(紙芝居)も複数名起こされています。これらは人々に教会を体験してもらうための入り口です。これから本格化するゴスペルハウスは素晴らしい福音にふれ、救われるたましいが起こされるために用いられていくことでしょう。


救われた者が神に従い、互いに励まし合うものには、水曜祈祷会、エステル会、壮年会があります。良い習慣を身に付け、霊的な基礎体力をつけ、神の子どもとして成長していきます。さらに、それぞれの分野で奉仕するようになると、いっそう聖書を読むようになり、祈るようになり、その人自身が恵まれていきます。ぜひ、生きた教会として、のびのびと積極的に働きに加わっていきましょう。霊的に活気ある教会を築き上げるのはあなたです。ともにまいりましょう!■


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