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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「ともにおられる神」

更新日:2023年4月1日


聖書 マタイ1章22~25節

  1. 成就する主のことば(22節)

  1.預言と確率

聖書は旧約聖書、新約聖書全66巻からなっています。新旧はキリストの前後で分けられてのことです。そして、約は契約・約束の約です。そして、聖書は神の言葉ですので、まとめると神が人と結ばれた契約の書と言えます。その中心は「イエス・キリスト=救い主、メシヤが来られ民を救われる」というものです。旧約聖書には、メシヤ預言と分類されるものが記されています。今朝の箇所はそのうちの1つで「処女が身ごもっている~」はイザヤ書7:14にあるもので、これはメシヤを指している預言と理解されています。このように旧約聖書の中には実に324個のメシヤ預言があると言われています(誕生、生涯、十字架、復活など)。そしてこのうち27個が十字架につけられた一日のうちに起こったことも研究で発表されています。これはどのような確率かと言うと、このうち8個の預言が一人の人間に起こる確率は「100兆分の1」(1億の100万倍=たとえば、一日1億円使っても27,040年ほどかかる!)だそうです。これまでの有史以来、人類の累計が1,080億人(米国のNPO法人Population Refferrence Breau)だそうですから、100兆に一人の確率がすでにイエス・キリストにおいて起こっていることがわかります。さらに、48個のメシヤ預言が全部一人の人に起こる確率は10の157乗(グーグルは10の100乗の桁)だそうですから、ほぼ実現が不可能になります。さらにわかる範囲で324個あるすべてのメシヤ預言がイエス・キリストにおいて実現しているのです。


このように見ていくと、数字からだけでもイエス・キリストが特別なお方であると知れます。注目すべきは、キリストがしたことを記録しているのが聖書なのではなく、預言されていた通りのことがイエス・キリストに起こった、イエス・キリストがなされたという点です。事前に預言されていた出来事がイエス・キリストにおいて次々と実現、成就していったのですから、聖書が確かであれば、イエス・キリストはその聖書が預言しているメシヤ=救い主に間違いがないことがわかります。聖書=神のことばの確かさ(記録において正確なだけでなく、預言において全幅の信頼を寄せられること)、そして神のことばの実現力の精度は100%です。ここに書かれていること、語られていることは何一つ偽りがなく、何一つ嘘やでまかせがなく、すべてがその通りになるからです。聖書は決して「信仰の書=信じるもの」という側面だけでなく、

預言を通して実際に起こっていることを確かめることのできる書物でもあります。それは、私たちが理性や知性を働かせて聖書を読んでもよいという励ましでもあります。ただ闇雲に信じろということだけを神さまは求めているのではありません。


「わたしのことばも・・・空しく帰って来ることはない。わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:11)

「これらのことばは真実であり、信頼できます」(黙示録22:6)


必ず実現する神のことば・契約である聖書。その聖書の預言はイエス・キリストを指しています。それは私たちがこのお方によって救われるためです。イエス・キリストを信じられるように、神さまは聖書という確かなみことばを私たちに手渡してくださいました。ここにの主の計らいがあります。疑り深くてもよい、揺れ動きやすくてもよい、自分だけで調べたり知ろうとしなくてもよい。ともにこの聖書から聞くことによって、神の確かさ、人に対する約束、イエス・キリストという特別な存在、信じてみようという導き、信じてよいのだという確信が与えられることを願いつつ。


  2.預言の成就

聖書は預言の書でもあること、その確かさ、またそれはイエス・キリストがメシヤであることを指し示すものであることを見ました。この箇所では、マリアもヨセフもそのことをまったく知りません(私たち読者はそのことを知っています)が、ここではヨセフにそのことが告げられる場面です。20-21節を見返しますと①婚約者であるマリアが身ごもったのは聖霊によること、②マリアは男の子を産むこと、③その名をイエスとつけなさいということでした。神さまの預言はヨセフだけでなく、マリアという婚約者にも適用されています。またその子が男であること、そして名前の決定まで及んでいます。その確率は100%です。ヨセフは、これらのことを主のことばによって説き明かされましたが、私たちは聖書の預言とヨセフに語られたことの両方を照らし合わせて確認することができます。まさに、ヨセフよりも好条件で神さまのことをより確かに知ることができるのですから、私たちは幸いですね。そして、それならばヨセフ以上のとはいかなくても、ヨセフ並の信仰に立って、神さまに生涯を使っていただきたいとも願います。なぜなら、この神さまに身を預ける人生は確実だからです。ヨセフは自分の考えや願いではなく、主のことばに聞き従うことで、イエス・キリストの誕生という大役を果たすことになりました。生涯賃金といっしょのような価値のある香油をイエスさまに注いだ女性は聖書に記され、今も世界中でその信仰が宣べ伝えられています。私たちが神のことばに聞き、その身を委ねるなら、神は必ずその者を益となることに用いてくださいます。その決意を揺るがないものとしていただきましょう。


Ⅱ.実行される主のことば(24-25節)

  1.主のことばを聞いたヨセフ

これらのことばを聞いたヨセフ。24節を見ると、彼は寝起きざまに「主の使いが命じられたとおりにし」ます。マリアから聞かされたときには「思い巡らして」(20節)いたヨセフですが、ここではすぐに行動しています。この変化(変わり身)は驚くべき点になります。その理由は「主の使い=主が命じた」ことだったからです。2006年に韓国に研修に行ったときに、講師の牧師が「答えられた祈りはもうそれ以上祈るのをやめるべきです。祈るのではなく、祈った答えを行動に移すべきです多くのクリスチャンは神が祈りに答えておられるのに、聞き従わない。なぜなら、神の答えがその人の願いとは違うからだ。」と言われていたのを覚えています。


まさに、このときのヨセフにとって「マリアを妻として迎える」ことは「ひそかに離縁しようと」いう当初の彼の考えとは真逆のことでした。けれども、ヨセフは「離縁しなさいと言ってください。そう言うまで私は祈ります」とか「マリアを妻に?空耳でしょう。ただの夢ですからスルーします」と抵抗したりはしませんでした。彼に対して、主がはっきりと語られたので、もうそれ以上思い巡らしたり、自分の考えを呼び戻したりはしませんでした。そうではなく、すぐに行動に移っています。これが「正しい人」(19節)と初めに紹介されたヨセフに与えられている信仰のように思います。ヨセフは、突然マリアから突拍子もない出来事を聞いても焦って結論を出しませんでした。ヨセフは、自分の立場ではなくマリアを守る方法をまず考えました。ヨセフは、自分で思いついたことをちゃんと思い巡らし、主の答えを待ちました。ヨセフは、主からのことばをいただいたなら、すぐに行動に移しました。神さまは、このようなヨセフをご存知で、御子イエスをお任せになるという特別なミッションをお与えになっています。それは、ヨセフの思い通りではなく、この世においてうらやましく思われる人生ではないかもしれませんが、神の働きをするという一番価値ある務めでした。神さまは、大切な働き、いえ、働きや役割以上の大切なひとり子をヨセフとマリアにお任せになりました。


これと同じ神さまから私たちはそれぞれに御声を聞いています。これと同じ神さまが、あなたに呼びかけられ、その働きを担ってほしいと望んでくださっています。ただ聖書のお話、ヨセフとマリアの物語で終わらせてはなりません。今朝、神さまがあなたにこれらのみことばを聞かせておられる意味を受け取りましょう。


  2.ヨセフの行動

ヨセフは命じられたとおりに行動しましたが、よく見るとそれは「マリアを妻として迎え入れた」ことと「その子の名をイエスとつけた」ことです。それ以外に1つ、ヨセフがしていることがあります。お気づきでしょうか。それは「子を産むまでは彼女を知ることはなかった」(25節)とある部分です。マリアが身ごもったのは聖霊によるであり、他の男性やヨセフとによって身ごもったのではありません。ヨセフは、子を産むまでマリアといっしょに寝ることをしませんでした。この「知る」というのは肉体的にいっしょになるという意味で使われています(例として「人は、その妻エバを知った」(創世記4:1)が挙げられる)。夫婦の間だけに許された身体的にも一つとなるという神さまからの贈り物。ヨセフはマリアを妻として正式に迎えましたが、いっしょに寝ることをしませんでした。そのことは主のことばが命じてはいないことです。けれども、ここにもヨセフの「正しい人=神に徹底的に従う」性質が表れているように思えます。


ヨセフがマリアと寝ることがなかった第一の理由は、産まれてくる子がヨセフの子だと思われたり、言われたりしないためでした。二人は確かに一緒に寝ることはなかったけれども、マリアは男の子を産んだ。それは二人が証言しているように、産まれて来る子が聖霊なる神のみわざなのだと、人々が認めるためです。そのために、聖書では「母マリア」(マタイ1:18、ヨハネ19:25)とか「マリアの子」(マルコ6:3)と記してはいますが、「父ヨセフ」とか「ヨセフの子イエス」という表現はなされていませんね。これはイエス・キリストがただ神の子であり、人間によるのではないことを証明しています。そしてヨセフの子ではなく、処女マリアから産まれたことを聖書は証言しています。


もう一つの理由は、主イエスが神の御子であり、人間から産まれたのではないことを証明するためです。マリアの出産にヨセフが関わってはいないことを。、ここまで聖書が丁寧に記しているのは、このことが主イエスの「無罪性」を証明する上で大切だからです。イエスには罪がない。これは人間同士から産まれた子であれば不可能になります。なぜなら、アダムとエバの堕落以来、すべての人間は罪を持って産まれてくるからです。ダビデは「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました」(詩篇51:5)と告白しています。パウロも「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り・・・一人の違反により、一人によって死が支配するようになった」(ローマ5:12,17)と教えています。このように人間同士から生まれる子はみな罪を持っています。すると、この世界の罪人を救うことは不可能になってしまいます。誰も自分の罪がありながら、他の人の罪を身代わりに背負うことはできないからです。罪のない者だけが、罪人を救い出すことができます。借金のある人が借金の肩代わりをすることができず、お金のある人だけが他の人の借金を支払うことができるのと似ていますね。


こうした理由から、イエス・キリストの誕生が聖霊によるのであり、ヨセフの子と呼ばれたり、疑われたりしてはなりませんでした。ヨセフは、これらの疑いが入り込まないように、徹底して自分の行動を神に従わせました。繰り返しますが、これは主のことばによって命令されていないことです(マリアにさわるなとかマリアと一緒になってはならないとは指示されていない)。ヨセフが神の前にどのようにこの期間を過ごしたら良いのか、自ら判断して行動したことです。この点、私たちも見つけてやってみたいことですね。たとえば、すべて神のことばに聞き従うといっても、聖書には朝何時に起きなさいとか、今日はこれをしなさいとか、勉強は何時間しなさいとか、田中さんにスープを作って持っていきなさいとは書いていません。この礼拝で聞くみことば、毎日のディボーション、年間の聖書通読を通して、主が語ってくださることから私たちは日々の小さな生活も導かれるのだからです。それゆえ、ここで聞くみことばから、主がこの私に語ってくださることから、字面(じずら)だけでなく、聖霊によって御心の深いところまで教えてもらいたいと願います。そして、今日神のことばを聞いたからこのようにするのだと、生活の細部に至るまで主とともに過ごしたいと願います。私たちがそのようにみことばを聞くならば、決してマニュアルや限られたことだけでなく、人生の全般、生活の全領域にわたって、主のことばは有効であり、働いてくださるのだ、私はいつでも主とともに過ごすのだということをわからせてもらえます。困ったときだけ聖書を開くような聞き方から、いつも身近にそして信頼をよせて聖書を開くことができるようになれば、私たちはより神さまと親密に交わりを持つことができるようになります。そして、その生活はいつも主の導きに従うものなので、とても良いものになります。


Ⅲ.インマヌエルの神(23節)

  1.イエス・キリストの呼び名

こうして、神は御子イエスの誕生をヨセフとマリアにお任せになりました。「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」(21節)という人類の救いに関わる大役。それを告げられたヨセフに不安はなかったでしょうか。自分ではない他の人が担ってくれればいいのにと及び腰にはならなかったでしょうか。自分から立候補したわけではありませんから、とてつもない重荷であったでしょうし、できることなら断りたい、避けたいというのが本音ではなっかったでしょうか。それでも、ヨセフは主のことばどおりにしました。ヨセフはこのマタイの箇所を読んでいないので、まだ自分の関わるすべてのこと、それがどのような意味になるのか、これからどうなるのかを知りません。

マタイはこのことをイザヤ書の預言をはさんで説き明かしています。

「男の子・・・はインマヌエルと呼ばれる」(23節、イザヤ7:14の引用)。

神の御子が人となって最初に呼ばれるのは「インマヌエル」という言葉です。これはヘブル語をそのまま音訳したものです(アーメンとかシャロームも同じです。世界中で、ヘブル語にもとづいた聖書の言葉を話しています)。イエスの名を解説せずに、インマヌエルを解説しているところが面白いですね。おそらく、マタイが書き送ったメインの読者であるユダヤ人にとって、イエスの名は普段から慣れ親しんだもので説明をする必要がなかったと思われます。それよりも重要なのは、この方がイザヤ書の預言に従って産まれた子であることを聖書を照らし合わせて提示することでした。


インマヌエルは訳すと「神が私たちとともにおられる」。これがどのような意味を持つのでしょうか。イエス・キリストについては様々な呼び名があります。同じイザヤ書からだと「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)があり、新約では「ダビデの子」(マタイ21:9)、「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」(黙示録5:5)とも言われています。このようにイエス・キリストについては、様々な呼び名、呼び方がありますが、ここでは主の使いは「インマヌエル」と伝えました。それこそ、このときのヨセフにそして私たちがキリストの生涯を学ぶのに鍵となる言葉だからです。


  2.神がともに

主語は「神」です。主導権はこのお方になります。このお方から「私たち」へと向かってきてくださる。これがクリスマスの始まりです。そして、私でもなくあなたでもなくあなたがたでもなく「私たち」。この方は「私たち」とおられるお方です。全世界、全歴史における「私たち」。それは神が永遠であり、すべての造られた者の父であり、この方以外に「神」はひとりもいないことを意味するものです。


さらにこの方が「ともにおられる」。私たち人間にとっては、神がおられることだけでも偉大なニュースです。人生の大前提となるものです。神がおられることで、この世界は偶然や自然ではなく、神が創造し、支配し、導き、つかさどっておられることがわかるからです。私たちのいのちや日々の生活に必要なものは、この神からいっさいが与えられていることを知り、人生観が変わります。神がいるのといないのとでは、世界観、人生観が違ってきます。さらに、この神が存在しておられるだけでなく「私たちとともにおられる」のですから、大変なことです。この方は創造主、支配者だけでなく、だれよりもどんな存在よりも近くにおられ、親密なお方でいてくださるからです。この神が私たちをそばで守っていてくださる。これにまさる幸いは他にありません。

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