聖書 ルカ5:12-16 |
はじめに
能登支援活動に行くことができました。また無事に帰ってくることができました。派遣とお祈り、サポートを感謝します。私が岩手から九州に来た際に、長距離の車の旅だったこともあり、しばらくは九州大陸から出たくないなあと思っていました。今回は3年目にして初めて、陸路で九州から出る機会でした。
同伴の学生が出発当日に体調不良となり、急遽一人旅となりました。昨日、その学生に経過を聞いたらその後けだるさで三日間寝込んだそうです。直前にキャンセルを伝えるのは勇気がいったことと思いますが、主が賢明な判断を彼に与えてくださいました。
福岡から石川県まではおおよそ片道900キロです。直通で11時間、休憩をはさむと行きは13時間、帰りは18時間でした。特に、帰り道は立ち寄ったガソリンスタンドで前タイヤの溝が減っていると指摘され、確認するとかなり摩耗していました。そういえば、帰りの高速では二台ほどタイヤのバースト(破裂)を見ていたので、一度高速を降りて、タイヤとオイルの交換をしてもらいました。
能登半島でも、毎日500キロ以上を運転し、特に被災地へ向かう道路は隆起や陥没がたくさんある悪路です。その間もすべて守られていたのだと気づきました。
タイヤのことを知らされるまでは平気で運転していたのですが、危険性を知ってからは逐一心配になり、どうにかタイヤ店舗まで破裂しないように祈りながらの運転でした。被災地でご迷惑をかけたり、高速やトンネルなどでアクシデントが起こることなく守られました。
今日の聖書は、自分に危険が迫っていることを知った者が主イエスに救いを求める箇所です。ご一緒に見てまいりましょう。
キリストの心
本日の聖書箇所はイエスがある町におられたときに、全身ツァラアトに冒された人が近づいてくる場面で始まります。「ツァラアト」とは、重い皮膚病のことです。以前の訳では「らい病」となっていましたが、その言葉を使わなくなった理由の一つに差別の認識が高まったことがあります。かつての日本には「らい予防法」という患者の強制隔離が定めた法律がありました。らい病人は、痛みを感じなくなり顔や手足が歪んでいく身体的苦痛だけでなく世間の目、社会的な差別にも苦しんでいました。福岡県でも、自分の父親がこの病にかかっていて「父がらい病だとは誰にも言うな。そう言って幸せになった者はいない。俺を捨てろ」と証言している資料もあります。
しかし、そんな身体的、社会的な苦しみ以上に深刻な問題がこのツァラアトにはありました。この病にある人は「けがれている」と宣言されてしますことです。それ礼拝から引き離されるという苦痛です。ツァラアトについては旧約聖書のレビ記13~14章に詳しく記されています。ある人の皮膚や頭皮にツァラアトらしきものが見つかると、人々はそれを祭司に見せに行きました(医者ではない!)。祭司がその患部を調べてツァラアトと判断されると、その者を「汚れている」(レビ13:3等)と宣言します。その人は七日間隔離され、その後また祭司に見てもらいます。そして、直るまでそれを繰り返します。
隔離して七日ごとに調べるのは、安息日の礼拝を基準にしたサイクルだからです。ツァラアトの一番の問題は「汚れている」ことです。汚れているとその人は、神礼拝に加わることができず、神と隔離させられます。皮膚よりも、礼拝の場に加わる状態にあるのかが焦点です。
しかも、ツァラアトだと宣言されると、その人は町中で「汚れている、汚れている」と叫び、宿営の外に住まなければなりませんでした(レビ13:45-46)。これは大変な屈辱です。もし、私たちがお互いに「さあ、自分の欠点を言い合いましょう。一つでもあれば、それを大声で叫びましょう」という決まりを作ったとしたなら、だれがそれを実行するでしょうか。だれもそんなことしたくないですし、されてもどう反応してよいかも分かりません。隠しておきたいのが欠点です。しかし、それを叫んで人に知らせ、明らかにしなければなりません。
このような規定が聖書にあるのは、なぜでしょうか。それは、神がどのような礼拝者を求めておられるかを定めているからです。「え?誰でもいいんじゃないの?」「人を差別、区別するなんてひどいものだ」「好きで病気なったわけではないのに排除するの?」「聖書の神は厳しすぎる」と疑問や不満を持つかもしれません。それは自然なことです。しかし、誰でも神に近づけるわけではありません。もっと言うならば、いい加減な姿勢や不遜な態度で神に近づくことがあってはならないからです。
私たちが神をいい加減に考えるとき、けがれについて考えることも、罪について真剣になることも、礼拝の時間や場を大切にすることもしなくなります。それらはどうでもいいことだからです。しかし、一度自分の身の汚れについて考えるなら、真剣に神という存在を意識したり、礼拝について真剣になったりします。また、一番重要なことは聖なる神がおられるなら、けがれた自分はヤバいことに気づきます。けがれの規定は、神によってはっきりと区別されることを学ぶためです。ツァラアトによって「けがれている」と宣言されたなら、それは自分が神から隔離され、神から引き離されている状態であることを知るためです。
そのような状態からこの人は、主イエスのところにやって来ました。人からどのような視線を送られ、言葉を浴びせられようと、主イエスの前に出てきたのです。苦しみ、痛み、辛さの中から主を呼び求めました。ここに救いの原点があります。あなたの価値は人の言葉によるのではない。あなたの幸せは社会的な立場にあるのではない。あなたの人生は世間の評価によるのではない。それを突き抜けて、主の前に来て、主の心を求めました。「主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります」(5:12)とは、彼のお願いではなく信仰の告白です。すでに彼は主イエスがこのけがれをきよめることができると信じており、ただ主の心を求めました。癒やしという目先の事ではなく、みこころを求め主に近づいています。
2. キリストの手
主イエスは近づいてきた彼に対してどうされたでしょうか。当時の人々と同じように彼を遠ざけ、離れようとしたでしょうか。実は、当時、ツァラアトの人の半径1.8m(4キュビト)以内に近づくことは許されず、45m(100キュビト)先から吹く風さえ汚れているとされたです。
なんと、主イエスは「手を伸ばして彼にさわり」(5:13)ました。これは考えられない行為です。主イエスは、見るにもむごい状態の患部に直接さわられました。恐る恐るではありません。なぜなら、その人が「心」を求めたとき、主イエスはその手を伸ばしてさわってくださったからです。その手は、心の底から湧き上がる主イエスの優しくあわれみと慰めに満ちた心の表れです。
主イエスは「手を置く」という行為をよくされました(例:会堂司の娘の癒やし、子どもたちを真ん中に来させて)。しかし、旧約聖書では「手を置く」行為は特別な時に限られます。それをするのは「相手を祝福する」時です。イサクがヤコブに、ヤコブがその子たちに手を置いて祝福しました(創世記48:14等)。主イエスがここで手を置かれたのは「あなたを祝福する」というしるしでもあります。闇の中に隠れて生きていたツァラアトに冒されていたこの人は、この時から神の祝福を浴びて生きるように人生が丸ごと変えられました。
手を置きながら、主イエスは「わたしの心だ。きよくなれ」(5:13)と宣言されました。彼を祝福し、けがれた者からきよい者へと変えてくださいました。「今、あなたは病気の中にいる。長い間それに苦しんできた。人からさげすまれ、自分自身を呪ったりしたかもしれない。毎日が絶望だと感じていたかもしれない。しかし、今からは神の祝福があなたにある。それをわたしは望んでいる」と話してくださいました。そしてツァラアトが消え、過去との完全な決別となりました。
私たちはクリスチャンであっても、時々こう思うかもしれません。「自分はきよくない」「ふさわしくない」「もっと熱心に、あれをしてこれをして」と。いつのまにか自分で自分をきよくしよう、自分で神さまに受け入れてもらおうと思い込み、頑張らないといけない感覚に襲われることがあります。また、その視線を他者に向けることもあります。「なんであの人は何もしないのか」「なんで家の人は変わってくれないのか」とつぶやきが漏れることもあります。しかし、聖書はその必要はないと教えています。
なぜなら、あなたをきよくするのは主イエスだけだからです。あなたを救うのは主イエスだけだからです。あなたに喜びと平安を与えることができるのは神の祝福だけだからです。主イエスだけが「あなたはきよい」「あなたは神の祝福を受けている」と宣言し、実現されます。
だから、今日も私たちはただ主イエスによってけがれからきよめられ、闇から光へと移され、沈んでいた光景から祝福の光景を見せてくださいます。この人は、自ら進み出て癒やしを経験し、祝福を自分のものとしました。人に見捨てられた世界から神のものとされ、人にさげすまれた視線から神のまなざしを受け取りました。
あなたはイエス・キリストの前に出ているでしょうか。それとも人に追い詰められて隠れるように過ごしているでしょうか。あなたはキリストの心を受け取っているでしょうか。それとも自分のことを呪うような、あきらめるような言葉を考えてばかりいるでしょうか。ぜひ、この礼拝の場でジーザスの前に出て、お心を受け取りましょう。
3. キリストをあがめる
しかし、この出来事はここで終わりません。主イエスは次のように命じられました。「だれにも話してはいけない」(5:14)。いったい、何のための癒やしだったのでしょう。不思議ですね。せっかく素晴らしい体験をしたのだから、出来るだけ多くの人に伝えた方がいいのに、と思わないでしょうか。しかも別のところで、主イエスは「すべての造られた者に福音を伝えなさい」(マルコ16:15)とも言われているのに、ここではなぜこう言われたのでしょう。
その理由は、主によって癒された人がこのことをところかまわずに話してしまうと、もっと多くの人が主イエスに癒やしや不思議なわざを求めて殺到し、混乱してしまう可能性があったからと思われます。主はそれを避けるためにあえて「だれにも話してはいけない」と言われたのでしょう。その証拠に、このあと「イエスのうわさはますます広まり、大勢の群衆が・・・病気を癒やしてもらうために集まって来た」(5:15)とルカは状況を記しています。もちろん、主の教えを求めてやって来る人も大勢いましたが、癒やしのわざ(だけ)を求めてやって来る人も同じほどいたのです。「うわさ」とあるのが、その拡散の速さと範囲の広さを表しています。それに忙殺されないように、主イエスは「寂しいところに退いて祈っておられ」たのです(5:16)。
もともと、この話は「けがれている」ところから始まりました。身体的に病んでいることではなく、神との断絶、礼拝からの隔離が問題にされていました。神と離れて生きているところには、何の希望も支えもないからです。それを変えたのが、この癒やしの出来事の中心です。
そのため「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。人々への証しのため・・・あなたのきよめのささげ物をしなさい」(5:14)と礼拝とささげ物をするように命じておられます。礼拝の生活が回復され、神に向けてささげるものがあると生きることは、その人にとっての何よりの癒やしでした。
この人が癒やされたのは、健康な体になって飛び跳ねることではありません。もちろん、そのことも出来ますし、喜びの表現としてありですが。この人が癒やされたのは、社会復帰をして豊かな人間生活を送ることがメインなのではありません。この人が癒やされたのは、主を礼拝する者とされるためです。この人が癒やされたのは、主を賛美するようになるためです。この人が癒やされたのは、主にささげ物をする喜びを味わうためです。この人が癒やされたのは、ともに礼拝する交わりに生きるためです。そして、この人が癒やされたのは、ただ主イエスのみわざとみことばと心によります。それ以外にこの人を救うものはありません。
そのため、たとえこの後、彼が誰に何も言わなかったとしても、主イエスの素晴らしさは伝っていったはずです。彼の喜び、彼の礼拝、彼の交わりに生きる姿を通して人々に伝わっていったことでしょう。
私たちたちも主の素晴らしい経験をするときがあります。もちろん、人に話していいときもあるでしょう。でも、自分が興奮して話せば話すほど、人々がひいてしまう(!)こともあります。だから、私たちが主イエスの素晴らしさを体験したなら、それを自分の内に蓄え、その恵みを味わいかみしめながら生活するということも素晴らしいことです。なぜなら、福音は内側から広がっていくものだからです。主イエスを信じる者の内に住まわれる聖霊が、私たちとともに働いてくださるからです。そうしていると、キリストの恵みと祝福が、私たちを通して自然な形で伝わっていきます。これが伝道であり、福音にふさわしく生きる姿です。
今日、私たちは主イエスによってけがれからきよめへ、隔絶から交わりへ、絶望から礼拝へ変えられた人の出来事をみました。主イエスは手を置いて祝福し、私たちを立ち上がらせてくださる力と心をくださいます。そして、この喜びを味わいながら来るべきときには、証しをもって遣わしてくださいます。今日、礼拝をともにしたお一人おひとりにこの出来事の訪れがありますように!
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