聖書 ルカの福音書 6章37-42節
1. すべての人に必要な救い(37-38節)
近年の神学は福音の再発見がテーマになっています。宣教で用いられている世界中の教会を見ると土地や建物か、どんな人が牧師や宣教師であるか、どんな職業や立場の信徒がいるかには共通点がないそうです。前進している教会に集う人は様々で、場所や施設も違いますが、「福音が豊かに語られ、理解されているか」が共通の特徴だという結論づいたそうです。これまで、教会ではあらゆる方法やテキストが試され、広められてきました。けれどもっとも大切なのは福音です。教会の中心に福音があるか、福音が良い知らせとして届けられているかに焦点を当て続けることは、方法や手段よりも大切です。
「福音を中心とした教会であるか」には、牧師が自分を絶対視して意見できない、献金や信仰を強要される、生活を報告させられる、恐怖心ばかりをあおられる、奉仕しないと救われないと脅される
そして、主イエスは福音をどのように語ったでしょうか。グッドニュースですから、よい知らせ、人に気持ちの良いこと、みながあこがれることを伝えたでしょうか。実は、主イエスは天国よりも地獄について、救いよりも滅びについて多くを語られました。主イエスほど地獄について語った者はいないと評されるほどです。けれども、どうして、福音が良い知らせなのに、なぜ滅びやさばきや地獄についてそんなに多く語られるのでしょうか。
それには二つの理由があります。一つは、神は永遠だからです。神には私たちには見えない将来が見えています。私たち人間は知識、時間、能力、視野において有限です。一時的な物事しか見えないし、一部しか知らないし、わずかなことしかできません。けれど、主は違います。主は実に全知全能なので、何でも知っておられ、何でもおできになる方です。その神は、永遠の視野を持っておられます。私たちの永遠についてもご存知です。
今朝、その方が福音としてさばきについて、赦しについて、不義について私たちに語っておられます。それは近視眼的な私たちがみ得ていない永遠の事柄が見えておられる方からのメッセージです。このままさばかれたら救われないので、必死に語ってくださるのが主イエスです。不義をそのままにしていたら滅んでしまうのでストップをかけてくださるのが主イエスです。赦しがどうしても必要なので十字架にかかってくださるのが主イエスです。
これを私たちがいい加減に聞くなら、大変な損害を自分にもたらすことになります。どうしたらこのにわかには信じがたい救いや滅びのメッセージを心して聞けるようになるのでしょうか。それは、主を恐れることです。私が中学生のころ、急に上下関係が厳しくなり、小学生の時には仲良しだった学年上の数名に呼び出されました(当時はそういうことがよくあった時代でした)。先生の来ないプール更衣室でいろいろいちゃもんを付けられました。
そんな中、私に兄がいることが相手に伝わりました。。すると、急に態度が変わり「もう帰っていいぞ」と言いました。それは彼らの私を見る目が変わったからです。私に、4つ上の兄(彼らよりも年上)がいると知り、それまでの侮っていた態度を改めざるをえませんでした(兄には感謝しています)。その後、私は友人たちに「兄がいると言うと言い」と伝え回りました。
私たちも主イエスを侮っていたら、そのメッセージは左から右です。自分には何の関係もないと涼しい顔をしていられます。しかし、主イエスは私たちの将来が見えています。滅びに向かう者たちに福音を伝え、自らが犠牲になるためにこの地に来られました。いっさいの権威を持っておられる方を知るとき、私たちから侮りの心が取り除かれます。だから、私たちは主イエスの語った福音を侮ってはなりません。地上には冤罪があっても、主の前では完全なさばきがなされます。すべて真実を見通している主の前で、自らがさばかれること。これを侮りなしで考えるとき、私たちに逃げ場はあるのでしょうか。私たちに弁護士は付いてくれるでしょうか。私たちが無罪を勝ち取り、勝訴する可能性はあるのでしょうか。私たちの一挙手一投足(行動と言葉と思い)がドライブレコーダーのように主には記録されています。今、あおり運転やクレーマーが話題になったりします。そのクレーマーを止める方法は、やめてと言うことではありません。
相手を止させる方法は、持っているスマホで、その人を録画することです。動画で残されるとそれが証拠となり、拡散されるとそれが大きな声となって自分が不利になることを知って、恐れるからです。
しかし、相手に記録されない、世間に知られないと考えていたら、人間は自我を貫き通し、暴走します。誰も自分の義を主の前で主張することはできません。私たちすべての人に救いは必要であり、福音は必要なのです。
2. すべての人の主(39-40節)
ここで主イエスは盲人のたとえを話されます。ここのポイントは「だれを師・主とするか」です。自分の道を導いてくれる人の判断を間違うと穴に落ち込み、大けがします。このたとえは「私たちはみな盲人」が初期設定です。私たちに日常生活の知恵はあっても、霊的な事柄についてはことごとく盲目です。真理が見えていません。その中で自分は見えていると思い込み、師になる者もいます。その結末は二人とも穴に陥る無残なものになります。
「あなたは目が見えない盲人なのだから、人生の主(師)をちゃんと決めなければならない」と言われます。「あなた自身に頼ってはダメだ」「あなたは何も見えてない、わかってない」と言われているのですから、受け取り方によっては、とても残酷な宣言でもあります。
しかし、主イエスがこうしてはっきりと言われている点にも福音の輝きがあります。福音はあいまいではありません。どっちにも取れるような、何を言っているかわからないようなメッセージではありません。今、政治家は問題を起こすと「みなさんに誤解を与えたなら謝罪いたします」と弁明をします。それがヘイト発言や裏金のようなあきらかな違法行為であっても、相手がそう受け取るのであれば謝るというスタイルで自分を守ります。それは大変ひきょうでズルいやり方です。
しかし、福音はそうではありません。誤解の余地を与えることなくクリアに告げます。だからだれかに福音を伝えるとき、無視されたり、反論されたり、不快感を示されたり、遠慮されたりします。それは、福音をはっきり告げているからです。面と向かって「あなたの目は見えていない」と告げたら、誰だってムッとします。しかし、私たちは霊的な領域を見ることができない盲人です。だから見えている主イエスがわかりやすくたとえ話を使って真理を伝えようとされました。私たちがたとえを通して自分を知り、福音を理解し、救い主を受け入れるためです。
どういった点で私たちは盲人なんて言われているのでしょうか。霊的なことがわからないなんて言うけど、目に見えないものを信じる方がおかしいのではないか。ちゃんと見えてるからこそ、聖書や宗教にだまされず、惑わされずに生きていけるのだと主張するかもしれません。
主イエスは私たちが盲目であることを教えるために、たびたび「空の鳥を見なさい」「野のゆりを見なさい」「太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」と語られました(先週、ここの「悪人にも」を強調して私に伝えてくれる方もいました♪)。太陽、雨、花、鳥すべて人間が作れないものばかりです。主はこれらすべてを創造され、気前よくタダで与えてくださっている。神はあなたの天の父だと霊的盲目な私たちに教えるのです。私たちは天の父に感謝も悔い改めもせず暮らしてきました。私たちが神を無視するのは当然かもしれませんが(盲目なので!)、すべてを見えている神は私たちに無視されるのに心を痛めておられるのです。なぜなら、神は私たちを愛しておられるからです。自分が深く思いを寄せている人から、そっけなくされたら心にダメージを受けます。
私たちは、主に対してそのことをしているのです。神を認めず、自分の力で生きている、人間の英知でこれまでを築き上げてきたと威張って生きてきました。それは主が胸を痛める態度です。今こそ、私たちはすべての人の主である方につき従うべきです。
3. すべての人の目(41-21節)
二つ目のたとえは有名な「他人のちりと自分の梁」ですが、これも「盲人である」が前提となっています。自分が盲人であるとは思っていないので、自分を顧みず、他人の欠点、アラは驚くほどよく見える。
神がすべての人を大事にしておられるから、私たちは互いを大切にします。それどころか神がいのちをかけてすべての人を愛しておられるので、私たちは互いに愛し合います。まさに私たちが普段あらさがしをし、遠ざけているその人こそ「キリストが代わりに死んでくださった人」(ローマ14:15)です。神を認めると、互いを認めることができ、神の愛を知ると、互いに愛し合う方向へ歩き出します。反対に神なんていないという世界には、互いの尊重は生まれません。何かの能力やあこがれ、偏った感情や義理でしか好きや尊重は生まれません。キリストなんてどうでもいいと結論付けていると、いつまで経っても礼拝も聖書も迫って来ないですし、何の感動も与えません。
では、霊的盲目、人のアラはすぐに見つけることのできるこの曇った目はどうしたら見えるようになるのでしょうか。皆さんが電車に忘れ物をしたと想像してください。どこに問い合わせますか?家族ですか?町内会ですか?学校ですか?いいえ、違います。電車会社に問い合わせますね。なぜなら、そこで忘れ物をしたからです。私たちは目が見えるようになるのを、どこに問い合わせますか?それを聞いてくれるのは誰ですか?その答えを知っているのは誰ですか?見える目を与えてくれるのは誰ですか?その唯一の方こそイエス・キリストです。ご自身でストレートに語られたこのメッセージは、そのまま福音となってジーザスが答えとなり、道となってくださいます。
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