◆先週は齋藤五十三先生をお迎えしての礼拝、月曜は講演会でした。先生を通して多くのことを教えられたことと思います。私自身も力強く、大胆にみことばを語られる先生から強く心に残ったことがあります。恵みの分かち合いとしてここに記します。
◆主日礼拝説教は使徒16章6-10節から「道を閉ざし、道を開く神」と題してのメッセージでした。中でも「道を閉ざす神」に思いがとどまりました。パウロが福音宣教のために旅をしている中で「聖霊によって禁じられた」「イエスの御霊がそれを許されなかった」とはっきりと道を閉ざしている箇所です。福音宣教は素晴らしい働きであり、みこころにかなったことであるのにその行く手を閉ざすこともある神。道を閉ざすことで、主は何を教えようとされているのでしょうか。それは、人間とは弱く、もろいものだと知るためだと先生は語っておられました。 道が閉ざされた時、人は落胆し、動揺し、不信仰な思いに至ることもあります。けれども、目の前が暗くなり、思い通りにいかないそのとき、もどかしさをちゃんと味わうことが大切なのではないか。そのことを教えるためにもこの聖書個所があるのではと思わされました。あのパウロでさえ、そのような状況に陥っていたのですね。
◆もう一つは「常に前に進む」ことです。道が閉ざされた渦中であっても、道が開かれるところを求めて「前へ進もうとした」パウロの姿を語ってくださいました。あらゆる局面あっても、なお主を信頼していく。人が最善と思える計画、人間の知恵を捨て、ただ聖霊なる神に祈り、より頼むことを教えられました。そうして開かれた道を行くとき、「私たち」(we passage)と表現の変化があると示してくださったように、主は同労者、同伴者、理解者を与えてくださることも励ましになりました。福音に生きることは、一人で格闘すること、模索することではありません。祈ってもらいながら、支えてもらいながら、いっしょに歩んでもらいながら前に進むのですね!
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