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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「イエス・キリストの力で」


聖書 使徒の働き 3:1-8

はじめに

先週、野球のメジャーリーグのMVP発表がありました。大谷翔平選手が満票で2度目の選出となりました。私の宝の一つは、彼の高校時代の試合を見に行ったことです。盛岡にいたときは、野球場まで自転車で30分ほどの距離でした。夏はよく高校野球の予選を見に行きました。大谷選手が高校三年生の夏、日本の高校生で初めて160キロを投げたのです。


その大谷選手が最優秀選手に選ばれ、受賞インタビューがあり、その様子に世界中が大騒ぎしました。それは彼のとなりに「犬」がいたからです。その写真をお見せしますね(おもわず携帯に保存してしまいました)。犬種はコイケルフォンディエと言うそうです。


まず、ファンは彼のプライベートが知れたこと、そして犬を飼っていることで沸きたちました。大谷選手が犬を飼っているんだとか、あの犬になりたいとコメントした人もいます。私は、その犬の無邪気さにひかれました。飼い主に「おいで、おいで」と言われたり「もうちょっとがんばろう」と励まされたり、手をつかまれてハイタッチをされたり、おまけにおでこにキスまでされていました。


それでも、その犬は自分のしたいようにふるまっています。それをしてくれているのはあの大谷選手なのに!

私はその姿がとても微笑ましく、うらやましく思いました。あの犬は飼い主の偉大さに気づいていない!


そして、私たちも同じようなことをイエスさまに対してしていないかな?と考えました。私たちの名前を呼び、そばに置いてくださる方の偉大さをまったく知らないのではないか。あのイエスさまが呼び寄せてくださっている、そばにいてくれている。永遠の王の王であるお方が、この私の手を取ってハイタッチをし、あたまをなでてくださる。このお方が世界一の野球選手以上の存在であることは間違いがありません。そうであれば、私たちの喜びもそれ以上です。天にも昇る気持ちになるのではないでしょうか。私はその犬を見ながら、自分自身がイエスさまに対してもっと感動したいなと思いました。


この礼拝で、私はなんて幸せなんだろう。イエス・キリストのそばにいられるなんて、この素晴らしさをこれまで知らなった!と味わい、新発見できるようなものになることを願っています。


1.まちがった優しさ

今朝の聖書個所、使徒ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間にエルサレム神殿に行ったところから始まります。当時は朝、正午(使徒10:9)、そして午後三時と日に三度祈る習慣がありました(ダニエル6:10)。そして、そこにある人が登場します。この人は生まれつき足が不自由で、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門においてもらっていました(3節)。


この人が求めていたのは「施し」(2,4節)です。当時は社会制度もまだ整っていなかったので、身体が不自由な人ややもめなど働くことのできない人々は「施し」によって支えられて生きていました。病の期間の長さ、直らない現実、そして「毎日」美しの門に「置いてもら」い続けることが、彼を作っていました。足を動かすことのできないのが自分。毎日、誰かの助けをもらわなければどこへも行くことのできないのが自分。施しをもらわないと危機に陥ってしまうのが自分。誰よりも低いところにへたりこんでいるのが自分。いつも誰かを見上げて生きなければならないのが自分。


このように、毎日の積み重ねが彼を作り、人を作っていきます。私たちも誰ひとりとして例外ではありません。毎日見ているもの、さわっているもの、過ごしている場所、考えていることがあなたを作り上げています。▶

「生まれつき不器用だから。得意なことがない」

「怒りっぽいのは生まれつきだから仕方がない」

「こんな性格、あわれな姿になったのも親のせいだ」

「環境も悪かったし。もうこの問題はこのままでいいや」


こういう私たちが見ているのは、自分自身の問題や状況ですね。「生まれつき」だから仕方がないとあきらめていること、そのままにしていること、放置していることが私たちには少なからずあります。


さらに、問題は自分自身だけではありません。毎日、何人もの人が彼と関りを持っています。彼を運び、その門に置いている人、彼に施しをする人、彼を見て通りすぎる人、彼のことを気づきもしない人・・・さまざまです。


「優しさの精神病理」(大平健)という本があります。そこには現代の人の優しさについて考察しています。

 「他人の心に踏み込むのは良くない。自分の心にも踏み込んでほしくない・・・という優しさに変容し・・・相手を傷つけないように、いたわってあげるのが優しさ・・・相手の気持ちを察して、ソッとしておくとう架空の優しさ・・・問題にふれないことによって優しい距離を保つ

他者の問題に対してあえて介入しない、関わらない優しさがはびこっているとの指摘です。友だちだからそんなこと言えないよ、という優しさです。▶▶

私たちも、自分自身の問題を放置したり、あきらめたりすることがあります。また家族や知人の問題に何の助けもしてあげられない無力感、それ以上立ち入ることができない壁、手を引っ込めてしまう遠慮があります。普通に関係が保たれるという面があるかもしれませんが、それ以上何も起こらない。毎日、同じような状態でいること、現状維持が続く。ちょうど今朝の聖書の場面を同じ世界です。


ここに風穴が開けられるとしたら、どんなことでしょうか。それは「イエス・キリストとの出会い」です。そして、そのきっかけをもたらすのは使徒ペテロとヨハネであり、クリスチャンである私たちの行動になりますね。


毎日彼を宮に運んであげることも優しさです。彼にわずかであっても施しをすることの優しさです。しかし、その先の世界を、イエス・キリストはもたらしてくださいました。■


2 支配された生き方

この人はペテロとヨハネが入ってくるのを見て、施しを求めました。それに対し、二人は「私たちを見なさい」(4節)と会話を始めます。それから「金銀は私にはない」(5節)と言い始めました。その意味は二つあるそうです。一つはそのまま施しのためのお金は持っていないということ。そして、もう一つは、これが当時のユダヤの格言で「地上的財産や運命は私を支配しない」という慣用句だったそうです。


まずペテロが自分自身について「この地上にあるものが私を支配しているのではない」ということを告げました。私は地上のもので縛られて生きてはいない。生まれつきなどの運命が私を縛っているのではない。じゃあ、何だというのか。みんな地上とその時間の中で生きているし、あらゆる状況や環境から自由な人なんていないはずだろう・・・こういう常識の中で、ペテロは「地上のものが私を支配などしていない」と言いました。


ペテロがこのように証しできた理由はたった一つです。それはペテロがイエス・キリストに従って生きてきたからです。漁のために海に出るのではなく伝道の旅をするようになり、魚ではなく人を見るようになり、何も取れませんでしたと嘆かずにこの方以外に救いはありませんと確信を伝えるようになりました。▶

もはや、ペテロにとって地上の財産や生活がすべてではなく、天に宝を積むことや永遠のいのちに生きるようになりました。そのことがとっても素晴らしいので、この人を目の前にしても「金銀は私にはない」とまずきっぱりと話し始めたのですね。私たちの伝道も、このように始めるのもインパクトがあるかもしれません。「私は地上のために生きてはいません。地上の運命に翻弄されてはいません。私の国籍は天にあります。永遠のいのちのために働くこと、生きることが喜びです」と出会った人に伝える機会を、聖霊が備えてくださいますように。


それからペテロは「しかし、私にあるものをあげよう」と続けます。ペテロ自身の支えになっているものを、今度はこの人に与えるのです。それは権力でも、財産でも、薬でも、人脈でもない。ただ「ナザレのイエス・キリストの名(本質、力の意味)」(6節)です。イエス・キリストこそペテロの支えであり、この名もなき人が出会うべきお方であり、体験すべき救いです。それはこれまでにもらったどんな施しよりも高価で、これまでもらったどんな助けよりも忘れがたいものです。


本当の優しさは、救い主イエス・キリストを紹介することです。そのままでいいよ、大丈夫、そっとしておこうというのは地上レベルにとどまった施しや助け。聖書が与えるのは、地上の悩みや病を凌駕する救いです。▶▶

それから「彼の右手を取って立たせ」(7節)ました。この「右手」こそ、その人の運命を握るものとされていました。全人格、全人生を握るのが右手とされていました。それまで、彼はその右手を施しのわずかな日銭をもらうために開いていました。それ以外はずっと自分の運命を握りしめ、苦しんでいたことでしょう。


私たちも自分の右手に何を握りしめているでしょうか。自分の人生は自らが切り拓く、そのように努力もしてきた、運命や境遇を変えることなんて誰にもできない・・・自分の右手の中に、福音を受け入れたことがなかったかもしれません。ある問題はずっとそのまま放置し、神さまにもこれは不可能だと右手も心も閉じていたかもしれません。けれども今、その右手を開くときです。ダメだ、仕方がないと決めていたことを明け渡すときです。主のわざを拒んでいたのは、自分なのかもしれない。福音を味わっていないのは、自分だったかもしれない。


ぜひ、この朝すべてを神さまにつかんでもらいましょう。主は、あなたが拒んでいた領域に入ろうとされています。変わらないと決めつけていた性質に、どうしてもぬぐうことのできない過去の記憶に、福音の訪れをもたらしたいと願っておられます。施しを求めるか、神ご自身を求めるのかは大きな違いです。施しや一時的な解決を求めるのではなく、神ご自身を求めましょう。■


3 賛美に向かう

今まで、この人に「立ち上がり、歩きなさい」(6節)と言ってくれた人はいませんでした。人間には無理だからです。使徒ペテロにだって無理でした。しかし、彼は彼自身の力や名前を使ったのではありません。そうです、「イエス・キリストの名によって」立ち上がり、歩くことを命じました。彼を変えるのは福音しかないと、ペテロが確信していたからです。


私はその人が「踊り上がって」立ったのを想像するだけでとても感動を覚えます。立ったり歩いたりするのが普通だと思っているときは、何も思うことも感じることもないかもしれませんが、ぎっくり腰などで辛い思いをしていると、普通に二足歩行で生活できることは何と素晴らしいかと思います。この人は、生まれてからずっと立てませんでした。しかし、このときは「たちまち足のくるぶしが強くなり」(7節)、自らのうちにイエス・キリストの力がみなぎっていくことが実感できたのではないでしょうか。まるで、チューリップの花がどのように咲くのか早送りで見ているような感動や躍動がある場面です。


しかし、彼の癒しのゴールは立ち、歩き、踊り、飛び跳ねることではありません。「神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った」(8節)のです。これが彼の奇跡でもっとも大きなしるしです。▶

それまでの彼は、宮のもっとも近くに毎日いました。そこでは人間の行き交いをじっと見て、誰が施しをくれるだろうか、あの人はどうか、この人は違ったなどと一喜一憂しながら、また解決しない不安を抱えながら過ごしていました。しかし、ひとたびその右手を差し出して、イエス・キリストを迎えてからは、彼は門の前から宮に入り神を賛美するようになりました。直ってラッキーと帰宅したのではないのです。


それは、この人が確かにイエス・キリストに出会ったからです。続く16節に「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです」とペテロが証言しています。


施しを求める口が神を賛美する口に変えられました。人を見ていた目が、イエスキリストを見る目に変えられました。お金と運命を握りしめていた右の手は、神をほめ、次の人の右の手を取る手へと変えられました。この変化は、私にも、そしてみなさん一人ひとりにも表れているものです。神を賛美する口に、神に祈る舌に、神のご計画に信頼できる心に、教会に向かう足に、イエスは主ですという人々と礼拝する者と日曜を過ごすようになっているのは、何よりの大きな変化、しるしです。▶▶

この人の癒しに魔術的な要素やうさんくささはいっさいありません。「あなたがたが今見て・・・この人を皆さんの前で」(16節)とあるとおり、そこにいる全員がどうして彼が癒されたのかを知っています。それは、ペテロが「イエスの名によって歩きなさい」と告げたこと、その人が右手を出して立たせられ、彼がその足で歩きはじめたことです。そこでなされたやり取りは「イエスの名」というみことばの宣言とそれを受け取ったことのみです。イエスの名を信じた者に、神の栄光が現わされました。


私たちも、運命や自分の見ているものに支配されず、イエスの名によって立ち上がりましょう。私たちのもとを訪れてくださっている方は本当に素晴らしいお方です。野球選手とは比較にならない偉大なお方です。そのお方がそばに、ともにいてくださいます。


人々は言うでしょう。その状況でなぜ、歩けるのか。なぜ、忍耐できるのか。なぜ、平安なのか。なぜ、望みを抱くのか。なぜ、喜んでいるのか。なぜ、絶望しないのか。その答えは一つです。「イエス・キリストが私をそうさせてくださっているのです」と賛美するほかありません。■             


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