聖書 エペソ人への手紙5章15~21節 |
本日のタイトルは「タイパ」。まったく親しみのない語かもしれません。これに似た構造の語に「コスパ」があります。これだとピンとくる方もおられるでしょうか。コスパは「コスト パフォーマンス(費用対効果)」の略ですね。その商品の値段に対して、どれだけすぐれた効果をもたらしてくれるのかという意味です。生活の中では「この定食屋さん、ワンコインでおなかいっぱいになるよ」とか「このパック、50枚入りでこの値段だよ」「このダウンジャケット、安いのにあたたかいよ。一流メーカーと変わらないよ」などと教え合います。そして、その教え合いは嬉しいものです。
本日の説教題は「タイム パフォーマンス」の略になります。時間対効果で、何かのために投入した時間に対して得られる満足度、充実度を表す言葉です。このタイパの影響がよく表れているものとして「動画」があります。しかも「切り取り動画」です。youtubeをご覧になる方も多いかと思いますが、若い世代はyoutubeよりもTikTokやInstagram(これらも古いかもしれませんね!)を好みます。その理由は「時間」です。youtubeが敬遠されるのは「長さ」です(それで見てもらうために倍速1.25,1.5,1.75,2倍と設定があります)。そんなに長く見ていたくない、教えるなら結論やコツだけ早く教えてほしいという要望から、それよりも短い動画を扱うサービスが盛んになってきました。15秒や30秒で魅力を伝える、結果を伝える。売りたい商品があれば、それをパッと見てすぐにどんなものなのかが分かるように伝えないとモノは売れない時代だそうです。映画やドラマを早送りしたり、曲の間奏を飛ばして聞いたりというのも同じ要因です。それは「タイパ」を重要視しているからです。「あの~」「この~」「であるからして~」「結局~」が何度も出てくる話し方では伝わりません(説教も気をつけないといけません♪)。
その意味において、今朝は究極の「タイパ」を分かち合ってくれる個所です。私たちはみな「時間」の中で人生を送っています。時間的な地上の生涯の長さは個々人で差がありますが、「タイム パフォーマンス」という意味では誰もが意義ある人生を送りたいと願うものです。本当に価値ある生き方、意味のあることに時間を使いたい、自分の人生は一体何なのだろうか、毎日ご飯を食べ、嫌でも学校や仕事に行ったり、家事をしたり、それでも辛さや将来の不安はなくならない・・・これのどこに意味があるのか。知っていたら教えてほしいという想いを抱えておられる方も少なくないかもしれません。聖書にこそ究極のタイパ=タイムパフォーマンスの答えがあります。ぜひご一緒に見てまいりましょう。本日は3つではなく2つにまとめます。
Ⅰ. 人生はリスクだらけ!
1. 時間を買い戻す(15-16節)
15-16節は「ですから」で始まり「自分の歩みに細かく注意を払いなさい」「機会を十分に活かしなさい」の二つの命令形で構成されています。適当に、時の流れに身を任せて、気分に従って歩んではなりませんと釘を刺します。それは私たちが楽しんだり、喜んだりしてはいけないということではなく、そのままでは「タイパ」が悪いからです。せっかくもっとよい時間の使い方、過ごし方があるのにそうしていないから「ですから~しなさい」と口火を切っています。そのためには「知恵」が必要です。聖書が「知恵」というときは、学校のテストができるとか教養がある、世渡りが上手、おばあちゃんみたいに何でも知っているということを問いません。聖書の告げる知恵はただ一点「主を恐れること」(箴言1:7)に絞られます。その反対は17節にも出てくる「愚か」です。これも勉強ができないとか経験を学習しないということではなく「(愚か者は)心の中で神はいないと言う」(詩篇14:1、53:1)人のことです。知恵は神を恐れ、神がいっさいの支配者であられることをわきまえること。いっさいが主からの恵みであると知ること(=知恵)。愚かは、神はいないと言ったり、心の中で思って我が物顔で生きること。あるいはたとえ我が物顔なんて自信はなく生きていたとしても、私を助けてくださる神などいないとあきらめているなら、それも愚かと呼ばれ知恵に欠けている生き方です。 神さまの素晴らしさを知らず、知ろうともせずうなだれているなら、ぜひハッとさせられ、この知恵にたどり着きたく願います。
そのためには「自分がどのように歩んでいるのか」をこと細かに注意を向けなければなりません。これはあのヘロデ王がイエス・キリストの誕生の様子を知って殺そうとし博士たちに「行って幼子について詳しく調べ」(マタイ2:8)てくれと迫ったのと同じ語です。私たちは人に対してはことさら鋭い視線、すぐにツッコめる要素をいくつも把握していますが、自分に対しては大目に見ていて、甘いものです。その厳しさ、細やかさを自分に向けよとすすめます。その方が「タイパ」がいいからです、時間を有効に使うことになるからです。もし、私たちが互いに注意を払うことを第一にしていたら、どうなるでしょうか。会堂はやかましくなり、人からの目が気になり、殺伐とします。けれども、もし私たち各自が自分で自分のことに注意を払っていたら、他者へ注意している暇はなくなります。自己点検がよくできていたら、お互いに注意し合う必要も、他の人のことをとやかく言う必要がなくなります。これは良い雰囲気を作るための時間短縮にもなりますね。ただし、自分に対して大目に見るのではなく、「細かく注意を払う」ことをすれば、の話です。それは「知恵のある者=主を恐れて」として過ごすかどうかにかかっています。私たちが、本当に自分のことを知っておられるお方=主を知るならば、このお方を恐れなければなりません。心に思ったことも、すべてを明るみに出すことのできるお方です。この方の前に私たちは生きています。それゆえ、人をどう見て接するかという横の関係よりも、まず自分と神との縦の関係にしっかり軸を通すことが大切です。
そのことの実践は「機会を十分に活かしなさい」という対の命令から教えられます。この「機会」は時間という言葉ですが、〇時〇分という語(クロノス)ではなく、何かをするとき(カイロス)という語が使われています(例「実にキリストは・・・定められた時に・・・」ローマ5:6」。)私たちが聖書から知ることのできるのは「あなたは、明日7時に起きなさい」とか「13時になったら窓を開けなさい」という時間のお知らせではありません。そうではなく「何をいつなすべきかよく考えて過ごしなさい」というメッセージです。なぜなら「悪い時代」なので、時間を無駄に、益とならないことに使うことが当たり前の世の中だからです。あなたが何をすべきか、いつどんなことをしたらよいのか。続く「十分に活かしなさい」とは「たくさん買い戻す」という意味です。先ほどみた悪い時代から「時間を買い戻して良いことのために使いなさい」となります。これが知恵のある者のタイムパフォーマンスです。しかも、タダで買い戻すことができるので、コスパにもすぐれています。私たちには、これから先無料で買い戻すことのできるたっくさんの時間があります。まずこのことに新鮮な思いにされ、取り掛かりましょう。
2. 主のみこころを行う(17節) 時間は買い戻すことができます。しかもタダです(何度でも言います)。 しかし、私たちは「最善をなすためには何をしたらよいのか」「最高の計画はどの道を選べばよいのか」という知恵を持っていません。私たちの知恵は「主なる神は永遠のお方であり、時間に縛られないお方。すべてのことを知っておられ(全知:エレミヤ23:23)、最善の計画を立てて、それを成し遂げられるお方(全能:エレミヤ29:11)」という知恵です。このことを知っていれば十分なのです。それで「主のみこころは何であるかを悟りなさい」と続けています。だから、自分ではなく主に聞くことです。
さて、注意してください。「主のみこころだとどうなるのか」ではありません。私たちが知るべきことは「主のみこころは何であるのか」ということです。この点で私たちは疑い、躊躇し、心配になります。私たちは「これをしたらどうなるのか」が知りたいからです。そして、それが分かったら主に従いますとか、もっと楽なのに~とか、信仰って素晴らしいですね~と言いがちです。しかし、それは間違っています。私たちは全知全能でもないし、主なる神は私たちがすべて知ることを望んではおられません。むしろ、人が創造されたときからずっと「全知全能の神に信頼して歩む」ことを願っておられました。しかし、人は「自分が神のようになる=すべてのことを知りたい、自分で判断したい」欲に誘惑されて堕落してしまいました。その傲慢さが私たちにずっと引き継がれ、今も残っているので、神を信仰する際にも「今後のことがうまくいくならば信じてもいい」「成功するために(これがすでにみこころではない)、何をすればよいのか教えてくれたら信じるわ」と誤った要求を突き付けるのです。実は、この姿こそ「みこころ」ではありません。どうなるのか知りたい、成功がわかって行動したいというのは人間の領域を超えたことです。神の領域を侵すことであり、人の領域にとどまることを拒否する罪、傲慢です。
ここで、主は「みこころが何であるのかを悟りなさい」と命じています。これをするとどうなるのかを教えることがみこころなのではありません。つまり、何かをすることの結果は主にゆだねたままで、従うことが主のみこころであると教えています。その意味で、私たちに「リスクを冒す」ことを主は望んでおられます。これをして「どうなるか」はわからない。たとえば、祈ってバスに乗っても事故にあうかもしれません。祈って体操をしても病気になることもあるでしょう。祈って仕事や試験に臨んでも失敗するかもしれません。私たちに結果はわからないのです。それが人間の限界です。しかし、わかっていることは「主はすべてをご存知」であり、「主は最善の計画を持っておられる」ことです。主はすべてを知っておられるうえで、みこころ=何をしたらよいのかを私たちに教えてくださるのです。だから、結果がどうなろうと「主のご計画」「主のみこころ」を知れることとそれに従っていることが私たちにとっての最善です。
主のみこころを行えば、みんな成功するのでしょうか。たとえば、病気にかからなかったり、危険を回避できたり、経済的に成功したり、ケガをしなかったりするのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。場合によっては命を奪われることもあります!え?と思われる方もおられるかもしれません。命が奪われてもみこころなの?最善なの?と。そうです、確かに命が奪われてしまってはたまりませんが、それでも命を「失う」ことと、命を「無駄(ムダ)にする」こととは別です。イエスさまも「あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちからも裏切られます。中には殺される人もいます」(ルカ21:16)と言われました。確かにバプテスマのヨハネも首をはねられて殺されたのです。それはヨハネが領主ヘロデに対して、ヘロデが彼の兄弟の妻を妻とすることは罪だと指摘したことが原因でした。ここでヨハネに起こった結果(王に殺されたこと)は残念なことだけれども、それは「みこころではなかった」「ヨハネはみこころを行わなかった」のではありません。むしろ、バプテスマのヨハネはみこころを行ったからこそ、首をはねられ殺されました。ヨハネはここでいのちを失いましたが、決してムダにはしてはいません。彼のいのちが守られなかったことは残念なことだけれども、その結果から私たちは主が信仰者を守ってくれないとか、ひどいことをすると結論付けてしまってはならないのですね。もちろん、主のみこころに従う者がすべて殉教していのちを落とすのではなく、旧約聖書にはエステルやダニエルのように主のみこころをいのちがけで行って、守られた者もいます。しかし、それが誰に対してはそうで、誰に対してはそうならないということは私たちには隠されていることです。それは、私たちが知るべきことではないからです。先ほどみたイエスさまが「中には殺される者もいます」と言われたことをそのまま受け止めるべきです。私たちが知るべきことは、ただ「主のみこころは何であるか」だからです。
イエスさまも続けて「来る迫害から逃れて、絶対に迫害を受けないように注意していなさい。情報をかき集めて、何とか難を逃れなさい。」とは言われませんでした。むしろ迫害が起こっても、世の終わりが来たと言いふらす者がいても、戦争や災害が起こっても「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい」(ルカ21:36)と言われました。私たちはみこころを行って体調管理をしていても病気にもなりますし、みこころにしたがって学校に行ってもその途中に事故にあって死ぬかもしれないし、仕事で大変な失敗をしたり、子育てや親の介護でめちゃくちゃ苦労をするかもしれません。けれども「主のみこころを行う」ことが私たちにとって一番大事なことです。ぜひ結果は主にゆだねて、「どうなるの病」から解放されましょう。結果から考えると、みこころは見えてきません。死ぬと言われるような主の弟子の生き方は選べません。けれども「みこころは何か」から祈り始めるとき、それが示されると結果は主にゆだねることができます。ぜひ「できるか、できないか」「得か、損か」「成功するか、失敗するか」から始めるのでなく、「みこころは何でしょうか」「みこころを教えてください」「みこころを行わせてください」から始めましょう。そうすれば、キリストの栄光が現れる終わりの日に私たちは歓声をあげ、歓喜に満ち、それから永遠の喜びにあふれることになります。それはこの地上でどんな結果を受けたとしても、神の国では必ず賞賛を受ける生き方です。それは、みこころに歩んだ者だけがあずかることのできる祝福です。
Ⅱ. 聖霊に満たされて
1. 重要点に注目する(18節) これに続いて「ぶどう酒に酔ってはいけません・・・むしろ、聖霊に満たされなさい」と18節にあります。これはお酒(日本酒、シャンパン、発泡酒・・・)を飲むか飲まないかということがポイントなのではまったくありません。むしろ、そんなことで議論を交わしたり、飲まないと自慢したり、飲んでいる人を指さしたりすることこそ、みこころではありません。タイムパフォーマンスの面でもムダなことです。そうではなく、強調点は「みこころを悟り、みこころを行う」ためには「聖霊に満たされなさい」です。ちなみに、「ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」は、まさに浪費する、無駄にするの意味で、人生のタイムパフォーマンスをムダに損なう、使い果たしてしまう警告になります。御霊に満たされる生き方こそ、自分自身がどのように歩んでいるのかに注意を向けさせ、時間を買い戻して機会を活かす生き方に導き、悪い時代に飲み込まれず、主のみこころが何であるかをパキパキに理解させてくれるからです。ぶどう酒を飲むことの良し悪しと比べることなど、到底比較にならない議論です。それよりも、次の19-21節の積極的な生き方に向けて力を発揮していくものです。
2. ~しつつ×4度(19-21節)
19-21節では四つの動詞が連なっています。「互いに語り合い」「心から賛美し」「父である神に感謝し」「互いに従い合いなさい」です。これらはすべて「御霊に満たされなさい」にかかる動詞です。詳しく読むならば「互いに語り合うことで御霊に満たされなさい」「心から賛美することで御霊に満たされなさい」・・・となります。はじめの「詩と賛美と霊の歌」は詩篇を指していると考えられています。詩篇を語り合うとは、私たちの会話がみことばを中心に語り合うものであるようにとのことになります。聖書を土台・中心にした言葉をもって互いに語り合いがこの教会でなされているならば、一人ひとりが御霊に満たされていきます。みこころを行っていくことができます。また、賛美は出来不出来を考えるものではありません。ただ「主に向かって心から」するのが賛美です。それは、主が喜ばれることだからです。私たちが満足するから、嬉しくなることよりもまっさきに思い出しておかなければならない大切な点です。主は、賛美されることを求め、私たちの賛美を喜んでくださいます。さらに、「いつでも、すべてのことについて」感謝することです。その秘訣は「イエス・キリストの名によって」することです。自分の願い、思い、考え、体力、知力からでは到底すべてに、いつも感謝することは不可能です。けれども、イエス・キリストの名に不可能はありません! なぜなら、父なる神さまは私たちがいつでも、どこでも、どんなことでも感謝できるようにひとり子であるイエス・キリストを私たちに与えてくださったのだからです。神さまは、私たちが感謝できるように快適な環境、失敗のない人生、健康、楽しみを与えておられるのではなく、イエス・キリストをくださいました。それは神をほめたたえ、感謝するのに十分すぎる贈り物です。このキリストを中心にして(恐れて)、私たちが互いに従い合うのです。
教会で奉仕することは、時間や労力をムダ使いすることではなく、主に仕えることです。礼拝でささげものすることは、金銭や貯蓄を失うことではなく天に宝を積むことです。主のために悪いわざに加わらないことは、楽しみが減るつまらない生き方ではなく、主の報いと賞賛が伴います。
この手紙を書いた同じパウロが使徒の働きではこのように言っています。
「・・・私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)
この場合、みこころは「神の恵みの福音を証しする任務」です。そしてパウロにとって、そのことは「自分のいのち」をかけても当然の価値があることだと理解していました。彼の時間も、人生も、いのちも「ムダ」ではないのです。最高のタイムパフォーマンスが、イエスのために生きること、福音を証しすることにはあるからです。私たちは、同じ福音を聞いた者として、自分の人生、時間を何のために使うのか考えましょう。もっと「いのちは少しも惜しくない」と言えるほどに福音の素晴らしさを味わいましょう(牧師の説教がそのために用いられるように願いつつ備えています)。
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