聖書:マルコ14:22-26 |
教会暦では今週は「受難週」(Passion week, Final week, Holy week)です。イエス・キリストの地上における最後の一週間をたどります。福音書を読んで整理すると何曜日に何をしたのかある程度知ることができます。教会は、主の歩みに思いを馳せながら黙想し、主がたどられた道を同じように黙想したり、実践したりします。ただ、大切なことは私たちが主と同じことをするよりも、主がそれらすべてを私たちのためにしてくださったことを想起し、心に刻むことが大切です。そして、主がどんな思いでなさったのか、主が担われた罪の重みはどのようなものであったのか、罪を背負って父なる神のさばきを受けられる恐怖、主が感じられた痛み、主が祈られた祈り、主が見つめておられたもの、主が受けられた罵声やののしり、その屈辱、弟子たちに見捨てられたむなしさ、罪人のために祈った祈り・・・主がなさったこと、感じられた痛み、うずくその心を黙想しながら、過ごす週です。
今朝はマルコの福音書を見ています。この日曜は「エルサレム入城」(マルコ11:1-11)、明日月曜はべタニヤでいちじくをのろわれた場面(11:12-14)、エルサレム神殿での宮聖め(11:15-19)、火曜は前日のいちじくが枯れているのを目撃したり(11:20-26)、祭司長たちに権威について詰め寄られる場面(11:27-33)や教える時間を過ごします(12:1-34)。水曜日はどの福音書からも詳細の行動は見出せないため、伝統的に教会はこの日にひたすら祈って過ごしました。木曜はナルドの香油を注ぐ個所(14:3-9)、そして本日の聖書個所にもなっている最後の晩餐(14:12-31)、裏切り者への宣告(14:18-21)、ゲツセマネでの祈り(14:26;32-42)、大祭司の庭での尋問(14:53-72)、ペテロの否認の記述から夜が明けて金曜(Good Friday)を迎え(15:1)、ポンテオ・ピラトのもとでの裁判(15:1-20)、十字架を背負って歩まれたゴルゴタの道と十字架刑(15:21-41)、墓での葬り(15:42-47)、そして土曜(安息日)、さらに日曜(週の初めの日)の朝と続きます。
そして、この最後の一週間がどれだけ大切であるか、主イエスが救い主であることを示すために重要であるのか。それは各福音書がこの一週間に割いている分量からも見て取ることができます。マタイは21~27章、マルコは11~15章、ルカは19~23章、ヨハネに至っては12~19章をかけています。この「福音」シリーズで学んだ主イエスの初めのことばは「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
からその「福音」がやはり主イエスの最後の一週間に重きが置かれていること、十字架が中心であることが分かります。このことは毎週告白している使徒信条でも確認することができます。使徒信条を思い出してみてください。「我は信ず」と始まる使徒信条で「我らの主、イエス・キリストを信ず」の項目では主の誕生からすぐに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と最後の一週間での苦しみについて詳しく述べています。信条は大事な信仰をできるだけ短くまとめて、覚えておくように形作られていったものです。コンパクトにまとまった信条の中で、これだけ詳しく、丁寧に十字架について残されてきたのは、一つずつ私たちが告白し、主のしてくださったことを忘れずに覚えること、大切にすることを意味していますね。
Ⅰ. キリストの招き
すべての弟子たちに
今朝は最後の晩餐で知られている場面です。そしてこのことを教会は「聖餐式」として執り行っています。それは、主イエスが教会に命じられた二つの式=バプテスマ(マタイ28章の大宣教命令を思い出してください)とこの聖餐式(ルカ22:19、第一コリント11:24「わたしを覚えて、これを行いなさい」)を聖礼典として行い、これらを教会のしるしとして守り行ってきました。今朝はこの聖餐式の意味とここに込められた「福音」のメッセージをいっしょに学び、実際にこのあと聖餐式にあずかりたいと願っています。
マルコ14章22節は「さて、一同が食事をしているとき」と書き始めています。それは、通常の食事とは別のことが始まるという意味です。教会は通常の食事をともにすることは愛餐会(あいさんかい)と言うことがあります。それとは別に聖餐式は守り行われてきました。新約聖書では「家々でパンを裂き・・・食事をともにし」(使徒2:42、2:46)と分けて書かれている点からも気づけます(聖餐式を「パンを裂く」で記している箇所:使徒20:7;11,27:35)。
まずここで覚えたいのは「キリストはすべての人を招いておられる」ということです。実はこの場面、弟子たちと食事をしているときに「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります」(14:18)と突如意外なことを言われたその席で、改めてイエスさまがパンと杯を取ってお話になるという場面になっています。「裏切る者がいる」中で主イエスはいっしょに食事をし、またこれから特別な聖餐式にその者も招いておられます。私たちはその者がユダであることを知っていますが、このときいっしょにいた弟子たちは全員が「まさか私ではないでしょう」と動揺しています。みなが裏切る可能性を否定できなかった。「だれが一番偉いのか」という議論はたびたびしていましたが、「だれが裏切るのか」については、だれのことも指さすことなく、それぞれが自分について「そうではないと言ってください」という感じで焦っています。自信がないのです。ペテロが「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」と言うようになるのは、このあとからになります。最初は自分ではありませんとはだれも言うことができませんでした。それは、イエスさまはすべての人を招いておられるということです。だれのことも排除しない、裏切る可能性のあるものを除外しておられません。
聖餐式は、そんな弟子たちに施されたことを覚えましょう。自分に自信がない。ずっとイエスさまについていけるのか、確固たるものがない。裏切る者がいると言われて即座に自分ではないとは言えない。これからずっと信仰を堅く保っていけるとは全然言えない。疑わしいものが、その可能性が自分の中に潜んでいる。しかし、それでもあなたは招かれています。イエスさまは、裏切る可能性ではなく、悔い改める可能性、機会を与えようと最後まで招かれるお方です。丈夫な人ではなく病人を癒やすために、迷い出て失われている人を捜して救うために、正しい人ではなく罪人を赦すために来られたお方です。そのため、私たちの教会では聖餐式を月に一度行っています。バプテスマは生涯に一度ですが、聖餐式は何度も繰り返し行います。それは、裏切る可能性のある自分が今日も招かれていること、その招きに応えていいんだということを確認するためです。自信のないこの者のために、毎回あちらから招いてくださる方がいる。自分を見ない。自分の中に確固たるものを探さない。確かなのは「この私が招かれている」こと。この私を招いてくださる、招き続けてくださるお方が確かにいるということです。このことを、毎回毎回味わうのです。自分が根拠として選ばれているのではなく、主の招きが根拠となっていること。聖書の教える救いは、人間である私たちのわざ、決意、熱意、粘り、嘆願、可能性によるものではなく、神の招き、みわざによるものです。ただ救ってくださる神に、私たちの救いはかかっています。その証拠に、今朝もあなたを招いておられます。招きに応えましょう。自分を見ずに、主を見ましょう。
Ⅱ. キリストの死
1. パンと杯が表すもの
そうして弟子たちの目線を集めたイエスさまは、パンを取り、神をほめたたえ、裂いて弟子たちに与えられました。その後、杯(ぶどう酒)も同じように感謝の祈りをしてから弟子たちに与え、みなが食べ、飲みました。これらについて、ただのパン、ただの杯ではないことを教えるために、みことばを添えて与えられました。順にみてまいりましょう。
パンは「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われました。パン=キリストのからだ、です。杯は「これは多くの人のために、流される、わたしの契約の血です」とその意味を明らかにしておられます。杯=キリストの血です。そしてこれらパンと杯=からだと血を「いのち」とまとめることができます。そのいのちを、キリストは「取りなさい」と言ってみなが食べ、飲むようにされました。パンはパンであり、ぶどう酒はぶどう酒であっても、食べるときに思い出すのはこれがキリストのからだであること、飲むときに思い出すのはこれがキリストの血であることだと教えておられます。これからキリストのからだは十字架にはりつけにされ、身動きが取れなくなり、打ち傷が無数につけられ、死んでいくからだとなります。私たちはパンを口にするとき、キリストのいのちとともにキリストの死を味わいます。それは、本来私たちが自分で死ななければならない死でした。自分が罪人であるがゆえに、当然の報いとして受けなければならない死でした。その死にご自身のからだを引き渡してくださった、救い主を存分に味わうのがパンです。「木にかけられた者は神にのろわれた者だから」(申命記21:23)とある、神の罪に対するのろいを全部引き受けてくださったのです。
杯も同様です。これから飲む杯は、キリストがもだえながら引き受けた苦い杯です。脇腹を槍で刺され流れ出てきた赤い血です。それは本来、私たちが自業自得で流さなければならない血でした。私たちが当然飲むべき苦い杯でした。それを、キリストは引き受け、私たちの身代わりに血を流してくださったのです。それによって「実に、肉のいのちは血の中にある」(レビ記17:11)、「血はいのちだから」(申命記12:23)であり、「ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(へブル9:22)とあることを、キリストは私たちに代わって成し遂げてくださいました。このように、パンと杯はキリストの死を表しています。弟子たちが、このとき通常の食事の時間から区切りをつけて、改まってパンと杯を取るように与えられました。それと同じように、私たちはこれから聖餐式にあずかります。
2. 死の恩恵にあずかる
聖餐式でパンと杯をいただきとき、私たちはキリストの死を覚えます。さらに、キリストが死なれたことだけでなく、その死によって私たちに与えられた恩恵、救いの恵みを味わわなければなりません。キリストの死によって獲得された恩恵とは、「もはやあなたの罪は神による刑罰の対象ではない」という恵みです。
私たちの救いは、罪が赦されることです。決して「罪がなかったこと」にはされません。神は全知全能のお方ですから、すべての出来事を永遠に覚えておられます。忘れることも、取りこぼすこともなさいません。私たちの罪も同様です。すべての人の罪の、すべての罪が神の前にはつまびらかに覚えられています。そして、その罪に対して義なる神は正当な怒りとさばきをなさいます。罪をただ見逃していては、神の威信、神の義が没落してしまうからです。断固として罪はさばかれなければ、神はただしいお方として君臨できません。その罪の刑罰を、罪を犯した私たちではなく、ひとり子イエス・キリストに負わせられたのが十字架の出来事です。このお方の打ち傷によって、このお方の流された血によって、すべての人の罪は処分されました。人からもののしられ、神に見捨てられたイエス・キリストは、神にのろわれた者として木にかけられ殺されました。本当に残酷なことです。しかし、これで神はいっさいの罪の処分をされました。これが神の義です。そして、同時にその罪を罪人に負わせず、罪なきイエス・キリストに負わせて罪人を救おうとされたのが神の愛です。
聖餐式でいただくパンと杯は、このキリストの死の恩恵を受け取る儀式でもあります。ただ、キリストが死なれたことだけでなく、あなたの身代わりに死んでくださったことだけでもなく、キリストの死によって「あなたの罪は赦されている」「あなたの犯した罪は、何一つとして刑罰の対象とはならない」「わたしがすべての罪を背負って死んだのだから」と告げてくださる恩恵を、あなたの手の中で、口の中でよみがえらせるのが聖餐式です。そして、その尊い犠牲の死にあずかる者として、自らの言動、歩みを振り返り、神の前で罪を認め、そこから悔い改め、恵みとして与えられた罪の赦しにふさわしく感謝と献身の思いを新たにするのが聖餐式です。
だから、決して「月初めは聖餐式があるんだね」「今月もまたか」「早いな。さすがルーティン」などと慣れてしまわないようにしたいものです。いつでも、いつまでもキリストの死に新鮮な驚き、ひれふして受け取るようにしたいのです。
Ⅲ. キリストの愛
1. キリストのいのちにあずかる
教会は、この聖餐式が主イエスの定められたとおりに行えるように、細心の注意を払ってきました。それが制定のことば(聖餐式のときに読み上げる式辞、おすすめ、文言)であり、また私たち日本同盟キリスト教団では按手を受けた正教師が司式するように定めています。また、パンと杯を配るのは執事会にかかわる人たちですね。イエスさまが裏切るユダを含めて誰のことも排除せず聖餐式をなさったのは確かなことです。ただし「わたしを覚えて」とルカや第一コリントで記されているように、まったく意味の分からない人や求めてはおられない人が授かることは本質ではありません。また、本人が嫌がっているのに無理に口に含ませたり、飲ませることも本来意図されているやり方ではありません。これまで学んできたように、私たちの罪のために身代わりとなってその身を差し出し、血を流してくださったキリストの救いを受け入れている者こそ「わたしを覚えてこれを行いなさい」(ルカ22:19、第一コリント11:25)とみことばが定めているあり方をまっとうできると考えるからです。それで、バプテスマを受けた方=キリストと結び合わされ、その死といのちにあずかっている者がこの「パンと杯」といういのちをいただくのにふさわしいとし、制定のことばと司式者、配る者をちゃんと定めて行うことを心がけてきました。これまでもそうしてきましたし、これからもこのような定めのなかで執り行っていきます。それは実に、キリストが再び来られる日まで守り行う大切な儀式です。
バプテスマ(洗礼)から聖餐式への順番は使徒の働き2章でも描かれています(使徒2:41-42)。
それを受けてなお、ともに礼拝の場におられ、まだバプテスマを受けていらっしゃらない方にも知っておいていただきたいことがあります。それは、聖餐式が「目に見える招待状である」ということです。いつも式辞でもそのようにお伝えしていますが、改めてそのことを思いめぐらしてみてください。信じたくても信じきれない、自分の意思ではどうしても一歩踏み込むことができない、まだ心に燃えるものがない、無理に応答する必要を感じない・・・さまざまな心の状態があることと思います。それでも、これからの聖餐式でパンと杯が配られるとき、「あなたも呼ばれていること」「あなたも招かれていること」「あなたが応答するのをずっと待っている方のこと」「あなたの罪を全部背負ってくださった方のこと」「あなたのためにいのちを差し出してくださった方がいること」「あなたが振り向く前に、もっとも深い愛をもって愛してくださったお方のこと」を考えていただきたいのです。「このキリストのくださるいのちがなければ、自分はどうなってしまうのだろう」「自分は死んでどうなるのだろう」「自分の犯してきた罪はどれほどのものだろう」「罪の処理はどうしたらできるのだろう」「罪をもったまま死ぬとはどういうことなのだろう」「どうして健康やお金ではなく、ご自身のからだと血を私にくださるのだろう」と少しでもよいので考えていただきたいのです。そして、自分は神とつながるのか、神とつながって生きていくのか、神を拒否し、距離をとり、つながることをよしとしないでずっと生きていくのかを真剣に考えてみていただきたいのです。生活や将来の心配、ノルマや能力や実績だけで評価される恐怖やむなしさや不安、自分の価値をも自分で見下げてしまうむなしさ、どうでもいいやと人生について考えることさえ嫌気がさす毎日を過ごしておられるなら、それはこの神とつながるチャンスです。そのままでは自分も精神もつぶされてしまうという危機信号をたましいが発しているのです。ぜひ、このキリストを受け取り、キリストのくださるいのちに養われ、いのちの水に満たされ、疲れた心身の癒される、この場所だ、この方だという喜びと確信を抱いていただきたく願います。そのような祈りを込めて、これからの聖餐の司式をさせていただきます。
2. 神の国での光景として
最後に、イエスさまが施されたこのところの結びで「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」(14:25)と言っておられます。少しまどろっこしい表現のように思えますが、それだけここに力が込められています(はじまりが「まことに=アーメン」であることからも分かります。ここでは、「神の国で新しく飲むその日まで・・・もうぶどうの実で作ったものを飲まない」というのは、「飲まない」というところに強調があると同時に、「そのときには必ず飲む」という逆のことが強調されている文型になっています。そう、この聖餐式はやがて神の国の完成の際にはイエスさまと本物の祝宴をともに過ごすことになるのを先取りしたものなのです。「その日まではもう飲まない」=「その日には必ず飲む」ことを待ち望むのが、地上の教会が施す毎回の聖餐式の意味です。今年度の聖句にある「神の国」での出来事がこの聖餐式です。やがて来る神の国の完成に向けて、一歩ずつ前進していることを聖餐式のたびに思い起こすのです。やがて、このことが神の国で現実になる、と。それはこれから私たちが実際に食べ、飲むことが確実であるように確実な将来です。ぜひパンと杯を味わい、必ずこうなるのだという確信をも充分に味わいましょう。
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