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「ブレるな」

聖書 ホセア書10章12節


  1. 耕地の開拓


本日は2025年間聖句のみことばを味わいます。年間聖句は、目当てがはっきりするように、ホセア10:12の中から2行を抜き出していますが、本日は10:12全体(6行)を見てまいります。


この節の前半は3つの動詞、「蒔き」「刈り入れ」「開拓せよ」が続いています。文法にはそれぞれに役割があります。たとえば、形容詞(かわいい、美しい)であれば、人や物の特徴を描写します。ただ「リンゴ」というよりも「真っ赤なリンゴ」としたり、「自動車」というよりも「狭い川沿いを猛スピードで走って来る危険な車」とした方がより詳しく伝えることができます。この節は、動詞から始まっています。動詞は人なりモノなりが「ある・いる」「どうする」「どうなる」を表します。文章とその意味を決める重要な役割があるのです。たとえば「本」だけで意味が通じず「本がある」のか「本がない」のかは動詞がないと決定できません。また、「お腹」だけなら意味が通じませんが「私のお腹は丈夫なの」とか「お腹がすいて力が出ないよ~」など、動詞によってまるっきり意味が変わってきます。それほど、動詞は文章の意味を悟るのに重要です。


この節は前半だけで3つ連続して動詞が登場しています。それも「命令形」ですね。動詞が示す行動を求めます。

しかも、聖書はただの文字や読み物ではなく、神の口から出たことばです。神が話しておられるのです。私たちであっても、書き言葉と話し言葉とでは、受け取り方・感じ方も違ってきます。文章だと平坦な感じや冷たい感じを受け取ります。会話だと抑揚や勢いを感じます。おそらく、私たちは3回命令形を使って話したら、徐々に勢いが強くなるはずです。「これ、片付けておいてね」「ねえ、これ今しまってよ」「早く元通りにしなさい。何度言ったら分かるの!」と段階を経て強くなります。命令形の動詞算段重ねは、おそらく「しなさい」「せよ」「しろ」と大変強い語気で話しているわけです。


では、それを主に置き換えてみましょう。ここで3つ「蒔きなさい」「刈り入れなさい」「開拓(耕)しなさい」と続けられているのは、多くの期待が込められています。この中の一つだけを聞いていればよいのではありません。またただ聞いて覚えておくだけでもありません。これら3つをすべて行うことが主のねらい、願いです。しかし、よく見つめると、3連続するこの命令形には順番がおかしいところがあります。通常は土を耕し、種を蒔いて、刈り取りですが、ここでは種を蒔き→刈り取り→耕せとなっています。おそらく、この節のはじめ「正義の種」と結び「正義の雨」を合わせる構造になっているのと、「種を蒔き、実を刈り取る」ためには「開拓する(耕す)」ことが手始めなので、それを中心に置いたとも考えられます。

そして、これをはじめに聞いたイスラエルに住む人たちも農作業の行程はわかっているので、種蒔き→刈り取り→開拓と聞いて、まず耕しに取りかかることが真っ先に思い浮かんだはずです。第一のミッションは「耕地を開拓せよ」です。これと同じ表現が「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」(エレミヤ4:3)とあります。「耕地(fallow)」は畑となる土地ですが、「1年以上手が付けられていない土地」「休耕地」を意味する言葉です。主なる神さまは、民たちがまず今まで放り投げていた土地、見過ごしていた畑に鍬を入れるように命じられました。


私たちが何かをしよう、こうなりたいと思うときも同様です。すぐに結果や変化を求め、カタログを眺めたり(スマホで情報を得たり)、道具を買いそろえたりするのですが、気になりつつ何もしていなかったところ、放置していたところを手始めにしないと結実に至らず、一過性の盛り上がりで終わってしまいます。


個人的なことに加え、主の教会についてはいかがでしょうか。もし、私たち一人ひとりが昨年まではやらなかったことをやり始めたら、それは一斉に耕しがなされるようなものです。ともに汗を流し、助け合いながら、耕していくなら素晴らしいことです。入門クラスに参加してみる、教会学校の時間に来てちょっとお手伝いしてみる、気になっていたあの戸棚の整理をする・・・

そのようにして、眠っている土地に手入れしてまいりましょう。主は谷底や砂漠を開拓せよとは言われていません。あなたに関わりがあるフィールドを耕しなさいと言われています。それは私たちの教会であり、ここから遣わされていくそれぞれの場所において発揮することです。


2. 今すべきこと


耕地の開拓に続くのが種蒔きです。しかも、ここで命じられているのは「正義の種を蒔く」ことです。聖書の中で「正義」「義」は圧倒的に神さまのなさることやご性質に使われる語です。人に「義」が使われるのは、律法を完全に守ったとき、あるいはアブラハムが主を信じたことが義とされたという場面です。おそらく、ここでの「正義の種を蒔く」とは、私たちが良い行いに励む、良い心で接するというよりも、主なる神にこつこつと従うことです。もし、私たちが自分の義、自分の正しさという種を蒔くことができればよいのですが、その機会は結構少ないものです。「あのときの私の考えは100%正しかった」「この私の行いは完全に義だ」と言える人や場面はまれでしょう。もし、そのような人がいたら、ちょっと距離を置きたくなるかもしれません。「正義」「義」は主が持っておられます。その主と親しく交わり、主からいただくものでアクションしていくとき、そこに種が蒔かれていきます。もちろん、すぐに目に見える結果、好転が感じられなくても、種は地中であたたまってから芽を出します。

「種はいのちを運び 救いを告げ知らせる」と今月は手話賛美をささげています。種の中にはいのちがあります。種に自我やよくばり、恩着せがましさや嫌味があればそこにはいのちはありません。相手にはダメージを与え、その畑は荒れすたれます。蒔くときは主からいただく義の種を蒔きましょう。


そうすると「誠実の実を刈り取る」ようになります。これも「刈り取れ」ですから、もう実はなっていて、それを刈り取りなさいという確信に満ちた命令です。「誠実」も言葉の意味や響きはわかりますが、日常生活や自己分析とはなかなか結び付きにくいのではないでしょうか。「あの人誠実そう」とは言っても、「私、誠実かも!」と喜んでいる人は少ないように思います。この誠実は「恵み」(ヨナ4:2)「誠実(を尽くす)」(エレミヤ31:1)と訳され「ヘセド」という主の愛を表す語です。主はどのような罪人をも赦し、大きな失敗を犯した者をも愛してくださいます。その愛は「ヘセド=恵み、契約に基づく愛」だからです。主なる神さまは、気分で態度を変えられません。私たち人間の態度によっても、愛を取り上げません。実に、主ご自身による自由で無償の愛をもって、契約を守るようにして愛してくださいます。私たちは自分次第、相手次第の関係で日々悩むのですが、主との関係はまったくそうではありません。どんなことがあっても取り消されない愛の関係に基づいています。

「誠実の実の刈り取り」には、「正義の種蒔き」が必要であり、そのようなことはもはや人間には不可能です。努力しても罪や欲は消せません。ほっておいたら「不義の種まき」「不正の実の刈り取り」をしなければならないのが私たちの現状です。こうした3つの命令形を受け、それを執り行おうにも無理な現状を突き付けられ、途方に暮れるとき、主のみことばは続きます。

「今が主を求める時だ」


そうです、私たちは自分を見つめ、ほじくって耕しても一向に正義や誠実は出てこないのです。しかし、唯一の道があります。それは「主を求める」ことです。私たちが「主を求める」なら話は別です。これまでのことすべてがひっくり返ります。私たちが主を求めるなら、主はどんなことも拒みません(罪でないかぎり!)。イエス・キリストもご自分を求める者に対してはその信仰にしたがってすべてのものを恵んでくださいました。反対に、ご自分を求めない人に対しては、それが生まれ故郷の知り合いであっても、みわざを行うことができませんでした。彼らが主を求めていないからです。私たちがすべきことは主を求めることです。刈り入れより前に、種蒔きより前に、耕すより前に、主を求めます。そうすれば、主はご自身の知恵と力を惜しむことなく注いでくださいます。主の栄光のために労したいと願う者のために、答えないなんてことは決してされないからです。


3. ついに主は


良いことをしているつもりでも、思わぬ展開や試練、苦しみの場面を経験します。「祈って始めたのに、何でこうなったのだろう」「愛をもって話したのに・・・」そんな風に考えて自信喪失や落ち込み、自分を責めたりします。それでも、主はこの個所を通じて言われます。まず「耕地を開拓せよ」そうして「正義の種を蒔け」そして「誠実の刈り入れをせよ」。やはり、まず耕すところから始めるのです。いきなり実は取れません。


この節の最後は「ついに主は来て、雨を降らせる」と結びます。イスラエルの土地には、まず雨季の初めの雨・秋の雨が降ってから土地を耕し、種を蒔きます。その雨は土地を柔らかくするからです。主がそのチャンス・機会を与えてくださいます。そして雨季の終わりの雨・春の雨があり、最後に実を大きく潤し、収穫するそうです。ここでは刈り入れ前の雨が降る、それを「ついに主は来て」と表現しています。耕す者だけが期待します。種を蒔く者だけが祈ります。今、押しつぶされそうな人はもう一度休耕地に手を入れましょう。今、うなだれそうな人は種を蒔きましょう。今、あきらめかけている人は主を求めましょう。その道程をたどる私たちは「ついに主は来て、雨を降らせる」と確信します。今年の福岡めぐみ教会と連なるひとり一人に、耕しと種蒔きと刈り入れとが豊かになされますように、主を求めてまいりましょう。


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