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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「世界の見方が変わる」

更新日:2023年8月9日


​聖書:ローマ人への手紙1:18-25

今年は、私たちが会堂の中でも会堂の外でも神の国の喜びと祝福をあふれさせていく年です。そのためには福岡めぐみ教会に連なる私たちが福音をよく理解し、成長し、影響力を与え、力を現し、実を結ぶ者となるように、あらゆる国の人々のところへ出て行って、福音を受け取ることができるように相手に語り、届け、話し、現すことができることが大切です。クリスチャンは日曜の礼拝に来るだけでは足りません。日曜の礼拝だけしていても、そのようなインパクトある生き方やVIPに影響を与える力は備わりません。毎日聖書をよく読み、神のことばを聴き、隣人を愛し(特に、自分とは違った人々)、祈り、行動する人であることによって、力や喜びを伴うクリスチャンライフを送ることができます。


自分が教会に迎えられたときのことを考えてみてください。あなたは誰かに紹介されたり、連れられたり、歓迎されたり、また交わりに入れられてきたはずです。そのように誰かを通して恵みを受け、救いにあずかりました。あなたのホストとして迎え、接し、祈り、かかわり、導いてくれた存在がいるはずです。そのようにして救われた私たちは、次に救いを受ける人のために、ホストの役割を担うのです。受付や執事、牧師や宣教師だけがゲストを迎えたり、微笑んだり、声かけをするのではありません。教会そのものが、神の招きと愛と安らぎとを表現していることが大切です。それは、ここにいるあなたとあなたとあなたが(一人ひとりの目を見ながら確認しますね)、神の国にようこそとホストの役割をし、新たなゲストを招き、迎え入れ、仕えていきましょう。


本日は福音シリーズ13回目。毎週違う聖書個所を開くことになりますが(11月末まではそのように説教計画をしています)、「福音の素晴らしさ/豊かさ/輝き」を様々な角度から知るためにこのような方法を今年は取っています。どうか、主が福音の主要な教え、柱を私たちに教えてくださいますように。私たちが「福音」という大きな枠の中で毎週の礼拝メッセージを聴き、神の真理を悟り、よく整理し、適用ができるように祈りましょう。ローマ人への手紙1章から「礼拝」について見てまいります。私たちが真の礼拝者となることで、世界の見方はガラッと変わります。


1. 造り主なる神

本日の中心となる聖書個所はローマ人への手紙1:18-25ですが、その直前16-17節に「私は福音を恥としません・・・福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」とあります。私たちが福音を恥としないならば、ますます信仰は成長し、福音は前進していくと約束されています。ただし、それが書いてあるということは、私たちが福音を恥とする可能性もあるということです。ローマ人への手紙が書かれた時代から今に至るまで、それぞれの時代背景は違っても、クリスチャンの中には福音を恥としていた、クリスチャンであることを恥じる人がいるのは否定できないことなのかもしれません。ある神学者は「新約聖書は、迫害を受けている教会クリスチャンから迫害を受けている教会、クリスチャンへの手紙の数々である」と著書で記しています。新約聖書の書かれた時代はローマ帝国と皇帝が偉大な力を持ち、皇帝崇拝、納税、律法など様々な面において強大な影響力を持っていました。ユダヤ人であっても、異邦人であっても自分がクリスチャンになるということは社会的、宗教的に「不利な立場を選ぶ」ことを意味していました。クリスチャンは迫害を受けて当然。逆風を受けて当たり前。だからこそ、それぞれの時代で、あらゆる地域の教会が真理である永遠の神のことばに立ち続け、この世の権力に押されてひよったり、間違った教えに傾いてしまわないために新約聖書の数々の手紙が書かれ、励ましや警告を与えているとも言えます。新約聖書は教会やクリスチャンが迫害にあうことを前提として書かれていると言っても過言ではありません。そして、迫害にあった教会やクリスチャンは、その信仰を弱まるどころか、かえって強くされ、神の栄光を現すということが歴史上いくつも証しされてきました。


今の時代も別の理由から「福音を恥」とすることがあるかもしれません。みんなと違う、日本は仏教国だから、寺院は伝統や文化だけどキリスト教は外国、西洋の(違うのですけれどね)宗教、日の丸や君が代に不敬をはたらくなんて日本人の心がないのか、親戚の前ではなかなか言い出せない、クラスや学校で他のクリスチャンに出会ったことがない、そんなのダサいし・・・・などいくらでも「福音を恥」としてしまうような場面に出くわします。社会や時代が、クリスチャンであることを歓迎してくれる場面は、少ないものが当たり前です。そのときに(準備期間があるときもあれば、とっさの場合もあります)、福音を恥とするのか、あるいは福音を誇りとするのか。福音を隠すのか、あるいは福音を表すのか。そういう場面に立たされることがあるからこそ、ローマの教会に宛てた手紙の1章で「私は福音を恥としません」(1:16)と書き出しています。これにアーメンでしょうか。私もあなたも福音を恥としない教会。そのためには福音の素晴らしさ、力を知ることです。福音の価値や力を知っているからこそ、あらゆる場面で福音を恥とせず、福音を誇り、福音のために生きることができるからです。


それを受けて、今朝の聖書個所18節は「というのは」(1:18)で始まります。恥としない福音とは「永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められ」(20節)るのであり、神が「造り主」(25節)である。今朝、私たちが聞くべき福音の第一声は「神がすべてのものの造り主である」ということです。それが「神について知りうること」であり「神が・・・明らかにされた」(19節)真理です。それがあまりにもあざやかにはっきりと示されているので、だれにも「弁解の余地がない」(20節)とまで言っています。聖書は「ねえねえ、この世界は神さまが造ったんだってよ」というのが常識であり、前提として受け入れるべき土台であり、何の弁解の余地もないほどの真理だと告げます。


神の永遠の力はこの世界を造ったことで明らかです。偶然では決してこのようにはなりません。重い重い地球が浮かび、止まらずに回り続け、空は青く、日差しを調節するために雲が動き、海や川の水は流れ、雲や雨と循環して途絶えず、食物は育って食料にもなり、あらゆる環境においても家畜や生き物や鳥が生息していて、どこにおいても人間が知性と技術をもって治めている。いかなる巨大な生き物や凶暴な生き物がいたとしても、彼らによって支配はされていません。人間がすべての生き物、地上を支配しています。それは、神がそのようにすべてのものを造られ、計画し、人間には知恵を注ぎ、従えよとお命じになられたからです。「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」」(創世記1:28)。人間である私たちは、この世界を眺めるとき「神の永遠の力」(20節)を見出したり、感じたり、感動したりできるのです。それこそ「福音は・・・信じるすべての人に救いをもたらす神の力」(16節)の現れだからです。この世界を見れば、神の力を認めることができます。神は造り主であり、創造主であり、知恵のあることが分かります。またその知恵を惜しみなく人間にも与え、この世界の仕組みや正しい支配、治め方ができるようにしてくださいました。また、神の造られた世界から、私たちは美しさの意味を与えられ、自然の厳かさや威厳や恐れを感じることができます。神によって造られたすべての被造物は、神の永遠性や力や美しさや偉大さを現しています。だから、被造物を見るとき、私たちは感動するのです。そこに神の栄光が現れているからです。山の気高さ、海の広さ、太陽の朝日や夕焼けの圧倒的な描写、夜の星々・・・それらを見て私たちは感動し、心が動きます。それは、太陽や空や海がすごいのではなく、それを造られた神の栄光がそこに現れているからです。だから、太陽に感動するのは間違ってはいません。大いに自然や被造物に目を向け、知って、感動し、喜ぶべきです。ただし、それらを拝んだり、礼拝したりするのが間違っているのです。礼拝の対象を神から被造物に変えてしまっているからです。

旧約聖書にも、このような人々がいました。

「二十五人ばかりの人がいた・・・彼らは主の神殿に背を向け、顔を東の方に向けていた。東の方を向いて、太陽を拝んでいた。」(エゼキエル8:16)


ぜひ、心を静めて礼拝の対象について、自分の心が造り主なる神にのみ向いているか思いめぐらしてみましょう。この世界にあるもの、手でふれることのできる生き物や花、足で踏みしめることのできる大地、香り、様々な音色、おいしい野菜・・・すべては被造物であり、神によって造られたものです。造られた神が素晴らしいのです。私たちは被造物の豊かさをじっくり味わいながら、神を賛美し、神を想い、神を礼拝することができます。


2. 鈍い心と欲のある人間

ただ、このようにストレートに神に対して礼拝がささげられればよいのですが、私たちを含めてこの世界はそうはなっていません。とても混乱、混戦しています(たくさんのプラグが電源コンセントにつながっているように)。私たち人間の生まれながらの知性や感性はそうではないのです。まさに「鈍い心は暗く」(21節)、「心の欲望のままに汚れ」(24節)果てているのでした。


被造物を見ながら、人間は「神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり・・・朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちとして替えてしまいました」(21、23節)。しかも、人間はそれが愚かなことだとはわからずに「自分たちは知者であると主張」(22節)しています。まさに世界は人間中心で回っている(と思っている)のです。この世界は神さまがすべて造られたのだと認識したり、感動したり、礼拝している者は珍しい存在にされます。神なんて空想の世界、信仰の世界だからそんなものを持ち出すなんてお話にならない、科学で証明できるものだけが真実だ、何なら人間の知識や技術は遺伝子を組み替えてより効率を良くしたり、これからは再生や生命を生み出す部分だって運用できるかもしれない。讃えられるのは人間だよ。神さまなんて礼拝している暇はないさ・・・このように化学、科学、文学、技術、文化の面では人間の知恵は素晴らしいことは確かです。しかし、唯一人間が不得意な分野があります。それは人間の知性は神に関しては暗く、からっきしだということです。


「神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました」(25節)。


人間は礼拝の対象を人間、鳥、獣、這うものに取り替えてしまっているのです。しかも、それは人間の知性を使って、フル回転させてそうなっているのでやっかいなのです。そのことをおかしいとは思っていないからです。人間がまことの神以外のものに惹かれるようになるのは、何か銅像の目が光って、知らず知らずのうちに引き込まれてひれ伏していたというわけではなく、人間の方から「神さまはこういう方だ、形だ、存在だ、こんな風にしたらいい」と考え出して、神々を作り出しているからです。


おかしいことだとは思わないまま何かに対してありがたく手を合わせたり、軽い気持ちで財布にいれて大事にしたり、ご利益を信じて家に飾ったりします。新約聖書時代も今も、別の国や地域であっても、こうした人間の習性、神に関する知識の混乱、暗さは世界共通です。ある地域だけは、偶像礼拝をしないなんてことはありません。


人がそれぞれ礼拝の対象を決めて、幸せだったらいいのではないか。いいえ、人がめいめい思うままに神々を礼拝することを聖書は許していません。なぜ、それではダメなのでしょうか。それは、神以外のすべてのものは、私たちを失望させるからです。神さまは、私たちが間違ったものに生涯をささげないように、何を神とするかという大事な判断を見誤らないようにわざわざストップをかけてくれているのですね。神以外は、私たちを必ず失望させるからです。


たとえば、礼拝したくなるような人間であっても、自分よりもすぐれているときもあれば、自分よりも劣るときも来るでしょう。素晴らしいと思っていた人物がスキャンダルや犯罪で堕落することもよくあります。偉人だって、完璧ではありません。良いことだけを記録してあっても、それはあなたを救うために何の役にも立ちません。その人は悪いことだってしますし、万能ではないからです。そうしてあるものに失望すると、私たちは次の礼拝の対象、崇拝の対象を求めます。それはもはや偶像の奴隷で、劣ったもののとりこになっている証拠です。神に関する知識がしっかりしていないので、霊的に迷っている状態です。自分と同じ肉にすぎないものを礼拝していては、私たち人間の価値がすたります。心はいつまでたっても真の意味で満たされません。同じ被造物同士が礼拝していては、世界はますます混乱します。礼拝は、ただおひとり、それを受けるにふさわしい神のみにささげられるべきだからです。それゆえ、福音は私たちがマズいものを拝まないよう教えているのです。私たちが神について鈍い心を持ち、神の御姿を違うものに変えてしまいたい、栄光は自分に向けられたいという欲望を持っていることを認めさせられたいと願います。まことの神の前で、今、へりくだりましょう。主の前に出て、ひれ伏しましょう。


3. 本物を礼拝し、本気で仕えよう

最後に、今朝の福音をまとめて結びといたします。すべての人は、聖書の福音によってのみ、偶像礼拝が何であるかを悟り、その罪や空しさに気づかされます。福音によってのみ、まことの神だけを礼拝する者へと変えられていきます。福音を通してのみ、神について正しい知識を得られます。福音によってのみ、神の正しい怒りを知ります。福音を通してのみ、礼拝と感謝を神に向ける者へと変えられます。福音を通してのみ、私たちのたましいは真の意味で満たされます。


聖書に基づいてこの福岡めぐみ教会で礼拝をささげるとき、私たちのたましいはようやく満たされるのです。他の何物もそれはできません。できても一時的にしかすぎません。また渇きます。また迷います。しかし、ここに平安があります。ここにしかない希望があります。ここでしか味わうことができない落ち着き、生きている喜びがあります。福岡めぐみ教会でともにささげる礼拝であなたのたましいは満たされているでしょうか。


反対に、礼拝の時間が苦痛に、面倒に感じている方はいらっしゃるでしょうか。教会に向かう足取りが重たくてトボトボしている。賛美のときに唇が重たく感じる。祈りを声に出すのも省略してしまおうと思ってしまう。もう全部だるい。そんなときもあるかもしれません。それでも、ぜひ、私たちの礼拝、賛美、祈りを神に向けてみましょう。神に向けて心を開きましょう。神に向けて思いを注ぎましょう。神に向けて口を開いてみましょう。神に向けて手を上げてみましょう(今、ここで実際に手を上げたり、声に出して主をたたえ、賛美してみましょう)。人がどうこうではない、親が言うからでもない、変に思われるかもしれないではない、機械的、義務的、日常の繰り返しではない礼拝をささげましょう。


あなたの霊を神に触れさせてみてください。それほど大きく心を開き、主に信頼し、心を解放してみてください。そうして、主の栄光を仰ぎ見てください。たましいが触れられるとき、重荷が取り去られ、神の臨在を経験するとき、罪が嫌いになり、聖霊に満たされるとき、喜びと力が与えられます。先週学んだアブラハムは出来事があるたびに祭壇を築きました。それは、アブラハムがここに主がおられる、私はここで主と出会ったことを記念し、ほめたたえたからです。私たちも福岡めぐみ教会で礼拝をささげるたびに、祭壇を築き、神と出会い、たましいを触れさせ、造り変えられていきます。本物の神を礼拝し、本気で仕えましょう。


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