• 大塚 史明 牧師

「世界史最大の計画」


聖書箇所:エペソ人への手紙1章7-10節

Ⅰ.新しいいのち(7節)

1. 最大の関心事

エペソ人への手紙1章の始まりでは「神は・・・私たちを選び」(4節)、「神は・・・あらかじめ定めておられ」(5節)と神の選びについての教えが記されています。先週も見てまいりましたが、これは神が滅びに行く者と救われる者をすでに選んでおられるということでしょうか?そうであれば、神は不公平なお方です。しかし、聖書の教えを見ていくと決してそうではないことがわかります。まず、神はある者を滅びに定めているのではありません。実に「すべての人が罪の下にある」(ローマ3:9)「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)とあるように、義人は一人もいないので神の前に義とされる者は誰一人としていません。実に、義であり聖である神の前には誰一人として救われる者はいないのです。神はある者を滅びに定めているのではなく、すべての者は神の前には罪人であり、滅ぼされるべき存在なのです。


それにもかかわらず、神はその恵みによって救われる者を選んでくださっています。神こそ「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(第二ペテロ3:9)お方です。「神の福音に従わない者の結末」(第一ペテロ4:17)は恐ろしいものです。神にさばかれることは、最大に恐れるべきことであり、最大に逃れるべきことであり、最大の関心事であるべきです。なぜなら、たましいの救いに関わることだからです。聖書を通して、主は私たちに緊急放送をされています。あなたのたましいの行方はどうなっているでしょうか。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」(マタイ10:28)とある方を恐れなければなりません。そして、そのお方こそ、私たちをただ滅ぼすことを望まれず、ひとり子を世に送り、十字架につけられた神です。今朝の箇所は主のご計画(=奥義ともされている)がつまびらかに述べられています。私たちのあずかった救いが、神kのご計画と選びに基づいていることを受け取り、信仰をより確かなものとし、日々の迷いや攻撃によってぐらつかないものにいたしましょう。


2. 選択ではなく

神の選びの反対は「私たち(人間)の選択」です。私が神を選んだのは、私が入信したのは・・・というように、私たちは自分がクリスチャンになったきかっけについて話すことがあります。もちろん、これも間違いではありません。私たちの自覚や選択なしに信仰を表明することはありえないからです。それでも、確かな救いに関する信仰については、さらに丁寧に考え、言葉を選ぶことが必要です。


救いは「溺れている人に投げられた浮き輪」として、以下のように例えられることがあります。


例:あなたは池で溺れています。自分で自分を助けることができません。そこに浮き輪を投げてつかまるように教えてくれる人がいました。あなたは自分で浮き輪にしがみつきました。それで助かったのです。その浮き輪を投げた人があなたの救い主です。


このたとえは合っているでしょうか?聖書の教える救いについて 100%同じことを教えるたとえになっているでしょうか?確かに私たちは溺れていて自分で助かる見込みは持っていません。それでも浮き輪につかまるという選択とつかむという行為をこのたとえではしています。それは私たちに委ねられています。その選択と行いをする能力がまだある者として。果たして、聖書の救いに関する教えも同じでしょうか。あなたは自分で自分を救えないけれども、救いの手段としてイエスを選び、その救いを掴み取ることができる。そうしないと、罪に溺れて死んでしまうと。


今朝の7節では「背きの罪」という言葉があります。同じ言葉が2章1節にも使われています。そこを読むと「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」(2:1)とあります。よく見てください。「あなたがたは・・・死んでいた者」。そう、私たちは「死んでいた」のです。死んだ者には、浮き輪を投げても仕方がありません。自分でつかむことも、それが投げ込まれていることも分かりません。目が見えず、手が伸ばせない。それは能力がないからとか、選択しなかったからではなく「死んでいた」からです。死んだ者が助かるためには、どうしたらよいでしょうか。どんな道具や薬、医療を持ってしても生き返ることはありません。ただ唯一の方法は「新しいいのちが与えられること」です。


聖書の救いは「死んでいた者に新しいいのちが与えられること」です。「まことに、まことにあなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)、「・・・私たちも新しいいのちに歩むため」(ローマ6:4)、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第二コリント5:17)、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:15)、「・・・私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」(第一ペテロ1:3) などなど、「新しいいのち」が私たちにもたらされたことをたくさん証言しています。古い自分は過ぎ去り、すべてが新しくなった(された)、そのいのちをいただいたのです。今、生きているのはキリストのくださった新しいいのちによるのです。このことを全面的に理解し、受け止め、またその通り生きたいと願います。


今、疲れている人はいないでしょうか。重荷を背負い続けてうなだれている人はいないでしょうか。「わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われた方は、あなたがたは一時的に休ませるという意図ではなく、新しいいのちを吹き込むことを約束してくださっています。

Ⅱ.救いの恵み(7-8節)

1. 血による贖いによって

今朝の7節の始まり「このキリストにあって」は9節と10節でも出てくるもので、これらの流れの軸となっている言葉であることが分かります。字義的には「キリストの中にあって」という意味です。

「このキリストにあって、私たちは・・・贖いを・・・受けています」。


キリストの中にあって、初めて実現するもの。それは「贖いを受ける(持つ)」ことであり、「背きの罪の赦しを受ける(持つ)」(7節)ことです。「背き」は他では「違反」「過ち」とも訳されています。それは、人が「神の律法に違反すること」「神に対して背いている(反抗し、従順ではない)こと」「神に対する罪過を負っていること」です。この中で私たちは死んだ者でしたが、この「背きの罪」には即座に「赦し」と続いています。こうした福音に気づくと嬉しくなります!


罪の赦しは、私たちの行いや効力ではなく、それをもたらしたのは「血による贖い」と明記されています。罪の赦しに対して、血が流されることは旧約聖書から新約聖書へと貫かれている神のおきてでした。「実に、肉のいのちは血の中にある・・・いのちとして宥めを行うのは血である」(レビ記17:11)、「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブル9:22)。そして、義なる神はそのおきてを曲げることはなさいません。しかし、その血を流すさばきを、背きの罪を犯していた私たちではなく、ご自分のひとり子イエス・キリストの上にくだされました。これが神の貫かれた義であり、貫かれた愛です。本来、死ぬべきは背きの罪を犯した張本人である私たちです。しかし、それでは救いがありません。望みがありません。神は、愛する御子を十字架につけるために、世に遣わしました。世全体が滅ぶことよりも、この方にあってすべての人が悔い改めに進んで救われることを願われました。私たちは、かけがえのない御子イエスの血=いのちによって救われました。イエスによって新しいいのちをいただきました。それゆえ、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがった方のために生きる」(第二コリント5:15)のです。


2. 知恵と思慮にあふれさせてくださる

こうしたことは、私たちが考え出したことでも、思いついたのでもなく、神にこうしてくださいとお願いしたことでもありません。ただ「神の豊かな恵みによる」(7節)のです。このように、救いに関して神がいかに周到に、いかに大胆に、いかに心を痛めて、いかに熟考してその計画を立て、また実行してくださったのかを知ることを「神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ」(8節)てくださると説き明かしています。これはすごいことです。クリスチャン生活が長いと、救われたときの感動やいつも新鮮な思いで教会に集うこと、喉から手が出るようにして聖書を読む気持ちが薄れてしまうこともあるかもしれません。最近教会に来始めた人や子どもたちを見て、その熱心さや素直さをうらやましいと思うことがあるかもしれません。


しかし、パウロが書き送ったこの手紙からは、主に近づく者はいつでも神が恵みにあふれさせてくださると教えています。ここで「あふれさせ」と訳されているところに注目した神学者(F.F.ブルース)が「豊かさは神の属性(性質)である」と記しています。7節にも「神の豊かな恵みによる」とあり、ここでも「恵みをあふれさせ」と神がいかにあふれているお方か、しかも怒りや不機嫌ではなく「恵みにあふれている」お方かが分かるのです。私たちの罪の赦しや信仰に関する知恵や思慮は、神の恵みに基づいているので決して枯れてしまうことも、なくなってしまうこともありません!主に近づけは、いつでもその恵みをあふれるばかりに注いでくださるのです。だから、私たちは今朝も礼拝します。今朝も教会に足を運んでいます。教会をあきらめません。聖書に慣れてしまったと熱心さを失いません。今日もこれまでで一番の求めをもってここに座っています。今日もこれまででもっともよい心をささげたいとここで礼拝をしています。私も今日が最高潮という姿勢と準備をもって語りたいです。ご一緒にいますみなさんにも、今日みことばを聴けて本当によかった、今日は主に出会った、救いの確かさがわかった。と口々に出てくるような礼拝、教会、交わりを味わっていただきたいと願います。私たちの礼拝する神は、あふれるお方です。そのあふれる恵みを、ご自身に近づく者に注ぎ続けてくださるお方です。ハレルヤ!!


Ⅲ.神の計画(9-10節)

1. 時が満ちて

神はあふれているお方ですが、行き当たりばったり、力任せに進むお方ではありません。実に「みこころの奥義」(9節)を秘めておられ、「時が満ちて計画が実行に移され」(10節)る慎重なお方です。突発的に行動したり、感情的に契約を破棄したりすることがないお方です。それゆえ、私たちはいつでもこの方に信頼を寄せることができます。機嫌の良いときに頼み事をするのが親子であり、人間関係の常識です。前言が撤回されたり、計画が頓挫することも人間社会ではよくあることです。仕方ないと割り切れることもありますが、納得のできないことも多々起こります。ただ、私たちが礼拝する神は、そのようなお方ではありません。ご自身のみこころを行うことができ、最善の時にそれを行うことができ、計画のままに行うことができ、初めからの目的を達成することのできるお方です。「目的→計画→実行→達成」と優良企業の謳い文句のような道筋を理想だけでなく、すべてを完璧に行うことのできるお方です。世の歴史、時、人、環境・・・すべてにさいなまれず、妨げられず、神の計画を実行することのできるお方。この方を知り、この方に身を任せ、この方に人生をあずけて行く。私たちを決して滅びには向かわせない力の神、あなたをどこまでも捜し出してくださる愛の神、計画と契約を曲げることのない義なる神。この方を知っている幸いを表明してまいりましょう。「私は あなたの幕屋にいつまでも住み 御翼の陰に身を避けます」(詩篇61:4)


2. キリストにあって一つに

神の奥義とも言われる計画が明かされます。「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められること」(10節)。「キリストにあって」とここでも記されています。ここではキリストの中に集められるというよりは、キリストをかしらとしてすべてのものがその下に集められるというイメージがより正しいと思います(参照:コロサイ1:16-20)。イエスを主として、イエスをかしらとして、実に天にあるもの地にあるもののすべて、万物が集められ、一つとされる。一つに集められることはコレクションされるというよりも、すべてがキリストを王とした秩序の下に治められることです。エペソではのちに「隔ての壁である敵意」(2:14)という表現がされているように、そこでは一切の罪、敵意、壁が取り払われます。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」との主の祈りが実現します。「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)がもたらされ、完成されます。そうした世界史、宇宙史上最大の計画が進んでいるのです。


私たちが礼拝をし、賛美をして神を、キリストをほめたたえるのはまさに「一切のものがキリストにあって集められる」(10節)御国の完成の前ぶれです。神を知らなかった者が神に知られ、死んでいた者が新しいいのちをいただき、愚痴や不平、迷いを吐露していた者が賛美をささげている。すべてがキリストにあって一つにされるその日が来ますように!その完成を確信して歩みましょう。


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