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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「主とともに生きる」

聖書:ルカ6:12-19



1. 選ばれて


今朝の聖書朗読は十二弟子(使徒)の選びの場面です。12名の名前がどれだけ出て来るでしょうか(福音書によって名前が微妙に違う弟子もいます)。ただ名前よりも大事なメッセージがあります。これから3つにわけて味わいたいと願います。

一つ目は、弟子とは「主に選ばれた者」です。弟子はなりたい人がなるのではなく、主に選ばれた人がなります(召し)。今朝は特に「使徒(遣わされた者の意味)」が選ばれる場面ですが、使徒はこの十二人とパウロだけに与えられている呼び名(称号)です。使徒以外の者たちは全員が「弟子」と呼ばれています。この礼拝室の前面にも「あらゆる国の人々を弟子とし」とあります。その意味でクリスチャンは全員弟子というのが標準仕様です。今日は特別な使徒ではなく彼らを含んだ弟子について見ます。

この場面は主イエスの祈りから始まっています。主は朝早く暗いうちから(マルコ1:35)、夜中から夜明けまで(マタイ14:23-)、またゲツセマネの園では切実に何度も(26:26-)祈られました。ここでは「祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」と明記されています。主イエスは大勢の弟子たちから十二人を選ぶために世通し祈られました。誰を選ぶのかの前に祈る必要があり、彼らを呼ぶために準備する必要がありました。祈った結果選ばれたのであり、思いつきではありません。

主が祈って選ばれたのは使徒だけでなく、ここにいる私たちのことも選んでくださいました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、任命しました」(ヨハネ15:16)とある通りです。これは神のことばですから、そのまま私たちは受け止める努力をしないといけません。「えっ!私なんてよしてよ」「ダメです。役に立ちません」「もっと日陰で。弟子とか大そうなポジションではなくもっと気楽な役割で十分」と逃げ腰になるのも分かります。けれども、重要なのは私たちの感じや考えではなく、神が何と言っておられるかです。

聖書によれば、神はこの世の愚かな者を選び、弱い者を選ばれます。人間的な基準やテストに基づきません。神は取るに足らない者や無に等しい者を選ばれます。自分の自信や能力、周囲の評価に左右されません。主はこの世で貧しい者を選んで信仰に富む者にし、何も持たない者を選び出し御国を受け継ぐ者にしてくださいます。誰も神の前で自分を誇ることがないようにするためです。

弟子となるのも、主が選ばれ、呼ばれたからです。自分の功績や性格、将来性に基づきません。あなたの弱さや弱点など織り込み済みです。それでいて、主はあなたを選んでくださいました。誇る者は主を誇り、自信のない者は、主に頼るようになります。失敗しても構いません。完璧な人を選びません(そうであれば、誰も弟子に呼ばれなったでしょう!)。


2. 仕える特権


二つ目は、弟子は「仕える特権(正確には、仕えることのできる特権)」を与えられたという点です。主イエスはここで選ばれた使徒たちを特別扱いしました。どんな風に?彼らをホテルに住まわせて楽をさせたのではありません。主イエスとともに過ごし、学び、各地に宣教旅行をする特別扱いです。主イエスも「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10:45)地上に来られました。弟子は師につき従う者ですから、主が仕えられるためではなく仕えるために来られたので、弟子も仕えるために召し出されたというのはみことばの教える弟子道です。


私たちの考える特権とは違います、というか真逆です。世にある特権は自分に仕えてもらう権利です。たとえばレストランに行ったと想像してください。案内された場所のテーブルが汚れていたらどうするでしょうか。すぐに店員を呼んで「きれいにしてくれますか」と頼むでしょう。それは当然の権利です。次に何を食べようか決めようとしたらメニュー表がありません。また店員を呼んで「メニューを見せてください」と言うでしょう。あれこれ悩んでいたらエアコンから水が垂れて頭にかかりました。今度は店員を呼びつけて、「エアコンが故障している。頭も濡れた。客に何ということをしてくれるのだ」と怒鳴るかもしれません。なぜ、怒るのでしょうか。

それは、そのレストランにお客として入ったからです。そしてそこで働く人は、自分に仕える存在だと考えているからです。しかし、主の弟子は逆です。「仕えられるためではなく仕えるために」主はあなたを選び出されたのだからです。


これを教会に適用してみましょう。福岡めぐみ教会に入ったら、玄関でスリッパが散乱しています。あなたならどうするでしょう。「ちょっと、今日の受付係なってないんじゃない」とつぶやくでしょうか。我慢して自分の分だけ履いて会堂に入ると、椅子が足りません。「ねえ、今日私は立って礼拝しろって言うの?」と座って話している人に嫌味を言うかもしれません。気を取り直そうとトイレに行ったら、今度は水が流れません!もう堪忍袋の緒が切れて怒鳴ってしまうかもしれません。もし、これが世の組織であれば怒るのも当然の権利かもしれません。


ただし、教会は真逆です。もしどこかに不具合があれば、自分が直す権利があり、もし不備があれば自分がカバーする機会が与えられているのです。何と素晴らしい特権でしょう!何でそんなことができるでしょうか。それは「イエスから力が出て」(ルカ6:19)いるからです。主のもっともそばにいる人がこの力を受けることができます。主にもっとも求める弟子がこの力を余すところなくいただくことができます。

教会に足らないところを見つけたら、指摘するのではなく自ら仕えましょう。自分なんて力足らずだし、迷惑もかけてしまうから、あまり役割を持たない方がいいかなと考えておられる方がいましたら、ぜひ主から力をいただいて仕えることに勇気を持ちましょう。仕えられるためではなく、仕えるために召し出されました。それをなさったのは主です。多少の不安があって、主が必ず支えてくださいます。足下がふらつく時があっても大丈夫です。


「しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです」(ローマ14:4)。大事なのは自分の力や能力ではなく、立たせてくださる主です。自分の手ごたえや計画ではなく、事をなしてくださる主です。そうでなければ、私たちはとっても人間くさくなり、聖なる主の宮を築き上げていくことができません。もし、私たちが仕えてもらうのが当然、あの人がやって当たり前という気持ちで教会にいるなら、世の中と何ら変わりありません。仕えることよりもおくびょうの霊に惑わされて「あの人に悪いなあ」「自分はいづらいなあ」と考えてしまうなら、私たちはギスギスし、おどおど縮みながら過ごすことになります。そだと、神の国の喜びや義はありません。これまでと違う扉を開けるのは、あなたを選んでくださった主の声に聞き従うことです。主が言われるなら、私はそうしますと立ち上がることです。


3. 遣わされて


最後三つ目は、弟子とは「主に遣わされる者」です。主イエスが弟子たちとともになさりたかったのは、福音を告げ知らせることです。福音は自動的、機械的に広がっていくのではありません。福音は誰かがやればいいわけでも、教職者や専門家がやるものでもありません。「遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか」(ローマ10:15)と主が叫んでおられるとおりです。福音は、遣わされる者がいて初めて広がります。そして、それはあなただというのが今朝の箇所です。


主があなたを選んだのには、使命があるからです。主があなたを任命したのは、託したい働きがあるからです。主は他の者ではなく、あなたを遣わそうとしておられるのではないか。確かに今朝の個所でも主イエスの行かれるところにおびたたしい数の人々がやってきて教えを聞き、癒やしてもらっていたとあります。けれども、聖書の焦点は癒してもらう人にあるのではなく、癒やしておられる主イエスであり、どこで一緒にいる弟子たちです。主イエスも彼らを連れてともに働き、この後の20節からは弟子たちを見つめながら話しを始められるように、癒やしてもらう人よりも、弟子になることに重点があるように思います。もちろん、他の箇所では癒された人が家族や地元に帰ってイエスが救い主であることを証しした姿もありますが、ここでは弟子たちがポイントです。

あなたしか行くことができない場所、あなたしか届けることができない人がいます。誰かがあなたの家に住んで伝道し、子育てをし、介護をしてくれるわけはありません。そこに主があなたを遣わされる理由があります。主が責任をもってくださいますから大胆になりましょう。


どうしたら弟子の道を楽しむことができるでしょうか。それはこの道を進み続けることです。歩み始めることです。そうすると分かってきます。そうすると喜びを味わうようになります。今、いきなりペルシャ語の本を手渡されたら皆困りますよね。読めない、分からないものは楽しくはありません。けれど、一つでも覚えた単語があるのを見つけたとき、すごく嬉しくなります。意味が分かるので楽しくなるからです。


「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)


主よ。あなたの御声を聞きました。どうか私たちにあなたに聞き従う心を与えてください。あなたが選んでくださったことを誇ることができますように。私が仕えるべき場所、人を示してください。ここで遣わされる備えをし、私が勇気をもって出て行くことができるように聖霊で満たしてください。主の弟子として、私は行きます。


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