聖書 マルコ4:35-41 |
はじめに
本日はシンガポールチームとともに主を礼拝しています。
こうして国籍をこえて、集まっている光景は素晴らしいものです。ここにいる私たちは国籍も年齢も違います。普段の学校や職場ではここまで幅広い年齢層の人とともに集まったり、何かをすることはありません。
そして、まさにこれが教会の姿です。ちょっと恥ずかしいかもしれませんが、前後左右の人をご覧になってください。顔ぶれがバラエティーに富んでいるでしょう。教会ではこうした豊かな生き方を味わうことができます。
教会は、イエス・キリストが私たちの救い主であるという福音から始まります。そして、私たちが互いに愛し合い、励まし合うことで身体もたましいも支えられます。これによって私たちは支えられ、育まれ、時には癒されたりします。さらに、ここで味わう喜びと祝福を携えて、それぞれの場に遣わされていきます。私たちの人生の中心に主なる神を迎え、このサイクルの中に身を置いて歩み続けられることは幸いです。ご一緒にこの幸せをかみしめましょう。
かけ声
聖書には水(海、湖、川)を場面にしたストーリーがたくさん出て来ます。ノアの時代には洪水があり、モーセの時代には紅海が分かれ、ヨシュアの時代はヨルダン川を渡り、ヨナは海に投げ入れられ、主イエスは湖のほとりで人々と過ごすことが多々ありました。十二使徒たちは水の上を歩くイエスを見て驚くこともありました。
今朝は湖(ガリラヤ湖)での出来事です。4章1節で舟に乗った主イエスが湖から、陸地にいる多くの群衆に教えられた場面の続きです。その日の夕方になって、主イエスは弟子たちに声をかけられました。「向こう岸へ渡ろう」(4:35)というかけ声です。
私は一日の始まりに、主イエスから「向こう岸へ渡ろう」という声を聞いて始められたらいいなと思います。また行動するごとに「さあ、行こう」と言われて始められるなら、それはとても幸いなことです。そして、実際に聖書から主イエスの声を私たちは聞いています。主はあなたに語りかけ、あなたを召し出すお方です。主はあなたを新しい旅へ立ちあがるように始まりのきっかけを与えてくださいます。主はあなたに声をかけ、あなたを導かれます。決してあなたが一人で歩くことがないように、道中もともにいてくださいます。主はあなたが最後まで歩み続けたときに、迎えてくださるお方です。
先週、シンガポールチームと公園伝道へ出かけました。その場に行って声をかけた子どもたち、中学生たちと遊び、福音を伝えるという働きでしたが、主が導いてくださいました。まさにこの「向こう岸へ渡ろう」と言われた主イエスの声が成就しているようでした。すべての人に福音を伝えることは、主のみこころです。私たちは何も恐れる必要はありません。ただ主に信頼し、踏み出すだけだということを教えられた週でした(活動写真をご覧ください)。
子どもたちと”With Jesus in the boat”という歌を歌いました(以下に歌詞)。
With Jesus in the boat,
we can smile at the stormsmile at the storm smile at the storm
With Jesus in the boat
we can smile at the stormas we go sailing home
sailing, sailing home sailing, sailing home
With Jesus in the boat
we can smile at the stormas we go sailing home
当日は、太字下線のJesus, boat, smile, storm, sailing, home の6単語を強調して覚えてもらい、みんな歌うことができました。そして、これら6つに大事な要素が詰まっていることを発見しました。
Jesusはboatに乗っておられ、私たちに「向こう岸へ渡ろう」と言ってくださいます。主イエスとの旅です。私はよく小学校や中学校の行事で「単独行動してはいけません」と注意される児童でした(今からは想像できないでしょう)。団体行動に我慢出来ないタイプで、すぐ列から外れたり、友だちを道連れにしたりしていました。こういう人がいると、先生は大変困りますね。
ただし、クリスチャンはそういうわけにはいきません。単独行動ではうまくいかないのです。単独行動では行き詰まるのです。それゆえ、朝に夕に私たちは主イエスの声を聞き、主イエスとともに行くのです。
「向こう岸へ渡ろう」と言われた主イエスの声に聞き従って進み始めた舟ですが、その先に嵐が待っていました。順風満帆ではなかったのです。続きを見てまいりましょう。
2. 嵐
主イエスの呼びかけによる船旅は、「激しい突風が起こって波が舟の中まで入り、舟は水でいっぱいに」なるものでした(4:37)。「突風」とは人間の予測を超えたタイミングを指します。こんな激しい風は弟子たちが予想できるものではありません。そして、波が荒れて高くなり、舟を突き破るほどの勢いで水が入り込み、舟は沈みそうになった。弟子たちは死さえも覚悟しました。
他の聖書箇所から、十二弟子の1/3である4人は漁師であったことが分かります(ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)。彼らには嵐の経験もあれば、舟の操縦方法、水が入ったときの対処にも通じていたでしょう。しかし、このときの嵐は彼らが太刀打ちできる規模ではありません。彼らも黙って見ていたわけではなく、何とかして水をかき出そうと必死にやったはずです。それでも嵐の勢いを止められず、とうとう「先生、私たちが死んでも、かまわないのですか」(4:38)と叫びました。
人間としたら当然の姿ですね。誰も嵐のときに冷静沈着、心も服もなびきませんという人はいません。嵐に脅威を覚え、刻々と悪くなる状況に焦り、やがて全員がパニック状態に飲み込まれる。まさに舟に水かさが増していく状況は、そのまま人間の心象を表しています。さて、主イエスはこのとき何をしておられたのでしょうか。
なんと主イエスは眠っておられました。この船旅を呼びかけた人、言い出しっぺなのに・・・・・・しかもその寝方は舟が揺れ始めても、水が入り始めても、弟子たちが取り乱してもさめない深いもの。こんな嵐の中でも眠っている主イエスはひどいでしょうか。弟子たちも「自分たちは死ぬところなのに」と憤りに似た叫びをもって起こしています。弟子たちを見捨てる気なのでしょうか。
けれども、少し考えてみましょう。その日、主イエスは群衆に向かって一日中話しておられました。誰だって一日中人といて話していたら疲れます。しかも大工であったイエスさまは舟の上で一日過ごされていました。その方が多くの人々に福音を伝えることができたからです。群衆が押し寄せて、みなが主イエスから聞きたいと願ったからです。主イエスはそれに全力で応えてくださいました。一度、主イエスの寝顔を見てみたいと思いませんか?私はこの個所を読むとそんな思いになります。
主イエスは嵐の中でも眠ることのできる方ですが、私たちは少しのいざこざ、わずかな不安、既定路線から1ミリでもズレると心騒ぎます。「ああ言ってやればよかった」と悔しがり、「今度はどうやって仕返しをしてやろうか」と繰り返し考えて眠れなくなります。まして嵐の中で熟睡するなんて、とてもできません。しかし、主イエスはこの嵐の中で眠っておられます。
これは本来あるべき私たちの生き方、いえ眠り方を教えられます。私たちも本当は嵐の中であってもこのように熟睡できるのだよ、と。その鍵は父なる神への信頼です。主イエスは神の御子としていつも父なる神と親密な関係にありました。それは嵐に左右される相対的ではなく、何があっても揺るがない絶対的な関係です。状況や気持ち、外的要因によって消滅しません。それは祈りと交わりによるものです。そして、私たちも「アバ、父よ」と呼ぶことのできる聖霊が与えられています。「このように祈りなさい」とイエスが教えてくださった祈りの第一声は「私たちの父よ」であることを思い出してください。嵐の中であっても眠り、騒ぐ心をしずめるのは、私たちが「父よ」と祈るときです。父なる神を忘れないときです。
確かに、それぞれの人生は無風、順風ではなく、逆風があり、嵐があります。スムーズにいきません。けれどそのときに「神は何もしてくれない」「神は自分には関心がないのだろう」「神に祈ったってどうせ無駄」と失望やため息、あきらめや神との決別を選択せず、嵐の中で叫びましょう。ピンチで騒いでよいのです。ただ、その声を主に向けましょう。主は嵐の中であなたに無言でいろ、冷静であり続けよとは言われず、むしろその叫びを聞いてくださいます。嵐は、主イエスがともにいることを忘れ、自分だけでやろうとする私たちに、あなたの舟にはJesusがいることを分からせてくれる機会でもあります。
3. 行き先
叫んだ弟子たちに起こされた主イエスはみことばをもって嵐を静められました。そしてこう言われます。「どうして怖がるのですか。まだ、信仰がないのですか」(4:40)
「まだ、信仰がないのですか」には、どんな印象を持ちますか?もし、あなたが面と向かって言われたらどんな思いになりますか?悲しくなる、恥ずかしくなる、しょんぼりする・・・・・・さまざまな感情が渦巻くかもしれません。
はたして主イエスは、弟子たちの信仰がないことを責めるために言われたのでしょうか。いいえ、この始まりに「向こう岸へ渡ろう」と言われた主イエスは、弟子たちの信仰を向こう岸へ導こうとされたのではないでしょうか。そうです、ここで「まだ、信仰がないのですか」と言われたのは、主イエスがあなたの信仰を探してくださる方にほかなりません。
そのために、弟子たちは選択肢がない状況へと追い込まれたのです。自分たちの経験や知識、行動や協力の限界を迎えました。恐怖におびえ、解決策もなく、疲れ果てました。そのとき、主イエスを呼んだのです。ずっとそこにおられた主イエスをようやく見出しました。するとすぐ主イエスは立ち上がり生ける神の声を発せられました。この方は全世界を支配しておられます。私たちが決して通用することのない領域をも従わせることのできる方。
それまで、弟子たちが信仰だと思っていたものは何だったのでしょうか。もしかするとそれは、自分たちのやる気や感情であったかもしれません。自分たちの能力や行動であったかもしれません。明らかなことは、主イエスへの信頼ではありませんでした。主イエスがおられるから大丈夫だという図太い信仰ではありませんでした。舟に乗っておられるJesusを見るよりも、目の前の状況に必死に立ち向かい、焦り、すぐに限界を迎えました。けれども、主はそんな弟子たちのもがきを通して信仰を呼び覚まそうとしてくださいます。あなたの信仰をいっしょに探してくださいます。
もし今のあなたに嵐が及んでいるとしたら、主イエスに助けを求めましょう。声に出して、身振り手振りで、賛美で、祈りで主イエスを求めましょう。あなたが悩み、罪を悲しみ、日々の航海にもがいているならば、それは主イエスにもっと近づくステップです。怖がらなくていいですし、おじけづかなくてもいいです。あきらめなくていいですし、背を向けて去らなくていい。最後の叫びになってもいいから、かっこ悪くても、さまになっていなくてもいいから主イエスの名前を呼びましょう。
あなたは、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と声をかけられた船旅をしていますか。あなたには、確かな行き先がありますか。あなたが恐れている嵐があるならば、主イエスを呼びましょう。
主イエスの招き、かけ声に耳を傾けましょう。主イエスのことばに従う人生を始めましょう。主イエスの呼び声を拒まずに漕ぎ出しましょう。嵐の中で主イエスを見ましょう。そして、向こう岸へ渡り切るまで船旅をしましょう。
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