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「主に答える」


聖書 ルカ5:1-11

はじめに

最近、次女が夕方に海辺を散歩する習慣を始めました。福岡は日本列島の西に位置していて、夕陽が鮮やかに見えることがありますね。これは次女が撮ったものです(スライドを参照)。


青空と夕陽とが一枚に収まった印象的な写真です。こうして記録してじっくり見ることで、創造主が一刻、一刻と美しいみわざをなしておられることに感動します。


そして文系の私ですが、夕陽が赤く染まる理由について調べてみました。それは光の波長が関係するそうです。昼間の空が青いのは、太陽から発せられる光のうち、波長の短い青色が四方八方に拡散するため青く見えるのだそうです。また、朝や夕の太陽が地球から見て低い位置にある場合、距離が長くなるために、長い波長である赤がよく見えるようになるそうです(これもスライドを参照)。


いったい、誰がこんな素晴らしいことをなさるのでしょうか。いったい、誰の作品でしょうか。毎日、毎時、毎分世界中をカンバスにして作品を仕上げ、私たちに見せてくださっています。どんな美術館よりも素晴らしい作品であり、どんな美術館にも収めることのできない偉大な作品であり、しかも入場料や観覧料もいりません。賛美せずにおられません。

この素晴らしさを聖書は告げています。


「主のことばによって 天は造られた。

天の万象もすべて 御口の息吹によって。

主は海の水をせき止めて集め

湧き出る水を倉に納められる。


全地よ 主を恐れよ。

すべて世界に住む者よ 主の御前におののけ。

主が仰せられると そのようになり

主が命じられると それは立つ。」

(詩篇33:6-9)


今朝も、私たちは主を賛美します。それはのっぺらぼうの神ではなく、この世界をカンバスに素晴らしい作品を描いておられる創造主に向けられる賛美です。他の誰でもないあなたに見せてくださる優しい神を礼拝するのです。私たちが沈む時には、夕陽を見せて目を開いてくださいます。私たちが渇いた時には、雨を降らせて潤いを注いでくださいます。私たちが弱い時には、空の鳥、野の花を見せて慰めてくださいます。主は生きておられます。この神に出会うと、人生が変えられます。


さあ、ごいっしょに礼拝をささげましょう。


  1.  まだ何も始まっていない

今日の聖書個所は、人間が疲れ切った場面から始まっています。さあ、主の日だ、日曜だ、礼拝だと言ってもすぐに力がみなぎってスタートラインに立てたらよいのですが、そう簡単にはいきません。人間の肉体は弱いですし、精神力も長くは続きません。一週間それぞれの場所でなしてきた営みがあります。当然疲れもあります。戦いもあったことでしょう。それらと無縁でこの礼拝の場に来られている方は一人としておられません。


それでも、主がこの場所に呼んでくださり、集めてくださったのが私たちです。今、主がよく来たねと喜んでおられるように、互いにねぎらいましょう(恥ずかしさもあると思いますが、お近くの方を歓迎しましょう)。


「群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って」(5:1)というワクワクする場面で始まります。あまりに人が多かったので、主イエスは岸辺から舟に乗って距離を取り、おおぜいの人に話そうとされました。そこにいたのがペテロら漁師たちです。彼らは舟から降りて網を洗っていました。夜の漁を終えて最後の片づけをしていました。ペテロたちは夜通し働いた後の疲労感、しかも何も取れなかったという徒労感でいっぱいの状況でした。

そんなときに、主イエスはペテロの人生に大きな影響を与えようと、舟に乗りこまれました。

主は空気を読むのが得意ではないのでしょうか。いいえ、全知全能の方ですから、主がタイミングを間違うはずがありません。ペテロや私たち人間にとっては今じゃない、最悪のタイミングだ、次の機会にしてほしいと思うことがあっても、神の深い考えに基づいた始まりがあることを、ここから教えられます。


なぜなら、疲労と徒労感に襲われている時、私たちはいとも簡単に人生をあきらめ、投げ出してしまうからです。感情的、あるいは短絡的に答えを出してしまう傾向を私たちは持っています。疲れているときの即断やうまくいっていないときの決断は、良い結果をもたらさないと言われるのは的を得ています。


しかし、このタイミングを見計らったかのように、主はペテロの舟に乗りこまれました。舟はペテロの仕事場であり、人生そのものです。主イエスはそこに入って来られました。疲労感と徒労感、あるいは失望や落胆に満ちた人生に必要なのは、このわたしではないのかというメッセージがここにあります。ペテロにとっても、また私たちにとっても、必要なのは主イエス・キリストです。強いられてでも、習慣ででも構いません。ペテロの舟に乗られた主イエスは、あなたの舟にも乗り込んで来られます。そこからあなたの舟のかじ取りをし、導かれます。この礼拝の場は、いつも人生の転換期、新しい始まりです。

私の好きな映画のシーンがあります(「キッズリターン」、監督北野武)。人生の挑戦に失敗した二人が次のような会話をします。人物A「俺たち、もう終わっちゃったのかな」人物B「まだ始まっちゃいないよ!」それで映画が終わります。夢破れて、これからどうしたらよいのかわからない二人。すべての努力が水の泡となり、これからどうしたらよいのかもわからない。人生終わったかのように感じる。それでも「まだ何も始まっていないぜ!」とのセリフで結ぶのです。


皆さんにも隠れた疲れ、ひどい徒労感を抱えている方がおられるでしょう。疲れや失意と無縁の人など誰一人としていません。それでも「まだ何も始まっていないよ」「始まったばかりじゃないか」「人生終わり、詰んだ」とあきらめることはない、自分で結論を出す必要はないのですね。ペテロの舟に乗り込まれた主イエス・キリストが、今ここにもおいでになり、あなたに声をかけられます。 その御声を聞くのが、この礼拝の場です。主は、今日新しいことをあなたの人生になさってくださいます。



2. 最高の「でも」

「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」(5:4)


この個所で群衆に何を教えられたのかは詳しく書かれておらず、その話が終わってからペテロとの会話が中心であることが分かります。疲労感と徒労感に支配されていたペテロです。ようやく主イエスの話しが終わったので帰れると思っていたところではないでしょうか。しかし、主イエスは「まだ何も始まっていない」と言われるお方です。何と「深みに漕ぎ出して、網を下ろしなさい」と言われるではありませんか!舟を出しただけでも大きな壁を乗り越えたのに、さらにここから沖に出て、しかも洗ったばかりの網を下ろすように言われてしまいました。


だからペテロは次のように返します。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」(5:5)おそらく語気を強めて返答したことでしょう。「こちらがどんな思いでいるのか知らないのですか」「ぶっ通しの夜勤明けですよ」と泣きついたり、反抗したくなるような命令であったかもしれません。しかし、これがペテロのセリフ全部ではありませんでした。何と続いて「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」(5:5)と付け加えたのです。私は、ここは最高の「でも」だと思います。


通常の「でも」は、否定的な言葉が続きます。たとえば、「あなたの言っていることは正しいかもしれない。でも、私にはできません」「君が忙しいのは分かるさ。でも、今日はどうしても無理なんだ」というのが通常の「でも」の使用例です。しかし、ここでの「でも」は違います。


ペテロは夜通しムダ働きをした窮状を話し始めてから「でも」やるのだと返答しました。その理由とは何でしょうか。その「でも」に続くのが「おことばですので」という理由でした。これは主イエスが荒野で悪魔の試みを受けたときに、答えられたのと同じです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)。


ペテロの人生が、まさにここで変わっていることが分かります。それまでペテロは自分のやってきたこと、自分の感触、考え方、感じ方で人生や行動を決めていました。疲れたから無理、ムダになるからやらない、そもそも気が乗らない・・・・・・こういった人生の動かし方をしていました。しかし、そんなペテロが「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と、神のことばを人生の指針、行動の基準に置き換えたのです。人生の祝福の秘訣がここにあります。私たちの見通し、考え、思いよりも、主の計画、主のことば、主の導きに従った方がより大きな祝福をいただくことができます。

「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった」(5:6)。


ペテロの見通し以上の収穫(捕獲量)がそこにはありました。夜通し働いたのは、その方が魚がたくさん捕れるからです。しかし、それは覆されました。日中におびただしい数の魚が捕れました。網を洗ったのは、すでに仕事を終えた(あるいは終えたかった)からです。しかし、それは覆されました。網が破れそうになるほどの結果がありました。二艘の舟が沈みそうになるほどの魚たちでした。全部、ペテロの見通しや思惑とは違う方向です。しかし、それはより良い結果をもたらしました。ペテロが「おことばですので」と主のことばに従ったからです。


主があなたに語られるのは、あなたが願っていたタイミングではなく、あなたが従いやすい命令でもないかもしれません。「でも、おことばですので」やってみませんか?目先の結果、自分の思っていた通りの祝福は手に入れた瞬間に冷めるものです。驚きもせず、感謝もしません。思った通りのものが手に入っただけだからです。そして高慢になるか、満たされ続けるためにさらに頑張るしか進む道がありません。「でも」主のことばに従うなら、そこには驚きがあり、手に抱えきれないほどの祝福があります。そんな人生を味わってみませんか?その突入の鍵は「でも、おことばですので」という最高の「でも」です。



3. 離れて、従って

大きな祝福を味わったペテロが、次に発したことばに注目しましょう。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」(5:8)。


これについては、みなさんどう思われますか?みなさんだったらこのとき、何と主イエスに答えますか?「ありがとうございます」「あなたは素晴らしい方です」「すごい収穫だ、感謝」と言うかもしれません。けれど、ペテロのように「私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言う人は少ないのではないでしょうか。


私なら「これからもずっと私といてください」とお願いするかもしれません。まるでのび太君がドラえもんを手放さないように・・・・・・ペテロがここで得た祝福はたくさんの魚ではありません。なぜなら、このあとペテロは「舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った」(5:11)からです。これからもイエスさまも舟に乗ってもらって、漁が最大の効果が出るタイミングを教えてほしいというのがペテロの考える祝福ではありませんでした。


ペテロがここで得た最高の祝福は「自分が罪深い人間」だと知ったことです。なぜならこの罪の理解こそ、主イエス・キリストが与える救いの意味が分かる最大のポイントだからです。

この点で、私たちはつっかえます。また伝道においても、障壁になります。人々に救いの必要性やキリストの与える救いの素晴らしさのすべてを伝えきることができません。けれども、これは弟子ならば誰もが経験する道です。主イエスの弟子たちも「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」(使徒1:6)と尋ねています。彼らにとっての救いの理解は、この地上に王国が到来することでした。


私たち自身や私たちが福音を伝える相手も、この地上の楽園、今すぐ手に入る祝福、身の回りから即座に敵対者がいなくなる解決を求め、こだわります。福音を信じて何になるのか、イエス・キリストは何をしてくださるのか、クリスチャンになって幸せになれるのか、教会に行くメリットはあるのかと疑問を持つのは、罪や救いがはっきりと分からなければ当然のことです。


もちろん、主を信じる幸いはさまざまな形があります。「神がともにいてくださるので心配が少なくなった」「気持ちが楽になった」「イエスに祈ると荷が軽くなる」「教会に行くとホッとする」と感じられたなら、感謝なことです。しかし、もっとも大切な祝福は、ここでペテロが驚いている「自分の罪深さに気づくこと」です。それをペテロは魚よりも舟よりも、また仕事や将来よりも大切にしました。それらを捨てて、主に従ったほどだからです。

たくさんの魚なら、これからペテロはもっと勉強し、もっと働き、もっといい道具を使い、もっとたくさんの人と働けば捕れるようになったでしょう。それは自分/人間でできることです。しかし、「私は罪深い人間です」という認識と罪の問題は、ペテロにとって仕事がうまくいく以上のことでした。そして、イエスを魚の捕り方を教えてくれる先生としてではなく、自分のような罪深い人間のもとに来て導いてくださる主として見る目が開かれました。罪の問題は決して自分の努力、道具、人間の協力でどうにかなるものではありません。そのことを解決してくださるのは、ただ主イエス・キリストだけです。


ペテロの人生は自分が罪深い人間であることを主題に歩み始めました。それは家族や仲間に囲まれて過ごし、仕事で成功を収めるよりも大事なテーマです。ペテロの人生の主が変わり、仕事の持つ意味が変わりました。罪の問題を取り扱ってくださる主に従う人生、主のもとに他の人々を連れて来る使命を持つライフスタイルに変えられたのです。漠然とした不安や人生の目的についての悩みの正体は、イエス抜きで生きていることにあります。人間には解決できない罪の問題を抱えて生きているので、平安がありません。人間の存在、生きる目的、死後の行き先はすべてイエス・キリストの福音だけが解決を与えてくれます。イエスを主と慕い、罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださる福音を誇り、届けましょう。


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