聖書 ルカ4:31-37 |
はじめに
先週は九州宣教区の講壇交換デーでした。
私は大分恵みキリスト教会での奉仕でした。前日から信徒のお宅へ泊めていただき、日帰り施設の別府温泉にも連れて行っていただきました。大分恵みでの礼拝、そしてその後はお弁当をいただきながら、次のような分かち合いをしました。
「クリスチャンって何を信じているのですか」という質問をされたとして、どのように答えるかを、それぞれに考えていただきました。きっかけは一人の方が「今までは全然思わなかったのに、近ごろ私も福音を伝えなければいけないと迫られている。けれども、具体的にどのように伝えたらよいのか、またどんな言葉を使えばよいか分からない」と言われたことでした。
それから、そこにいた7人で自分ならこう答えるとか、クリスチャンでもっとも大事なことは何だろうか、聖書を読んだことのない人にとってこんな表現は通じないだろうかなどと思案しながら、過ごしました。それは私にとっても大きな励ましでした。福音を受け入れた者として、次は福音をいかに伝えるかというクリスチャンの生き方の本質にかかわることだからです。そうした交わりができて主に感謝して岐路に着きました。
みなさまのお祈りと派遣を感謝します。
こちらでの礼拝はいかがだったでしょうか。
星沢先生は当日早朝に大分中津を出られ、教会学校、礼拝、昼食や交わりと大活躍されたと聞いています。
来年はどんな先生がやって来るでしょうか。これからもできるだけ各教会に初めての牧師が行くように計画していきます。宣教区の交わりも楽しみましょう。
また、本日は「祈りのネットワーク」を配布しています(1冊300円の協力をお願いします)。これは私たちの所属する日本同盟基督教団の全教会が掲載されている冊子です。古くは、100教会に満たないときに、各教会の伝道のために祈りたいと手書きで冊子を発行したことにさかのぼるそうです。今は250教会(+各教会付の伝道所)となりました。会えない教会の姿を見ることができ、旅や出張先に役立ち、また家族の赴任や子どもたちの進学の際にも役立ちます。ぜひ、手に取ってください。
自分の城
今朝はルカの福音書4章後半です。6章で十二使徒を選んでおられますので、それまでは主イエスの宣教のスタート時期と言えます。主イエスは荒野で祈られたのち「安息日に会堂に入り」、聖書を朗読され、今は「主の恵みの年」と宣言されました(4:16-19)。そして今朝の箇所でも「安息日には人々を教え」「そこの会堂に」とあります(4:31-33)。まず、主イエスの宣教は安息日の会堂で行われる礼拝からスタートしていることが分かります。すべての歩み(働き)は主の日における教会での神礼拝から始まることが分かります。
ある神学者が十戒のすべての戒めは、第四戒である「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」(出エジプト20:8)にかかっていると指摘しています。神を神とすることは、礼拝を抜きに考えられません。主の日を取り分けることなしに、主の御名をみだりに唱えることから遠ざかることはできません。教会での礼拝を抜きにして、偶像崇拝を避けることはできません。なるほど、と思いました。今朝私たちがここで(またオンラインで)ともにささげる礼拝は、神を神とする歩みの始まりです。主の恵みの年が明けるとの宣言下に生きることです。主イエスの美しさ、力強さ、優しさを見つめ、味わうことのできるもっとも幸いな時間です。主はみなさんを歓迎しておられます。主の祝福を注ごうと待っておられます。
この日主イエスは「カぺナウム」という場所で行われる礼拝に集われました(カぺナウムの語源はわかりますか?「慰めの村(カフェル+ナホム)」です。一度聞くと忘れないですね)。そこに「汚れた悪霊につかれた人」がいて、「主イエスよ、私はあなたがどなたであるかを知っている。神の聖者だ」と大声で叫びます。これだけ聞くと信仰告白のようですが、その悪霊は「私たちに構わないでくれ。私たちを滅ぼしに来た」とひどくおびえて訴えています。
このように、主エイスに会った人にはさまざまな反応の違いがあります。主イエスが神の聖者であると正しい知識を持っていたとしても、「自分を滅ぼすために来た」と考えるなら、それは恐ろしいことです。救い主ではなく、脅威を与える敵としてイエス・キリストを見るならば、それこそ救いはありません。王の王、主の主、全知全能の方が私を滅ぼしに来たと考えるなら、あなたを助け、守ることのできる方は誰もいません。しかし、イエス・キリストは「主の恵みの年を告げるために」(4:19)来られました。捕らわれ人には解放を、虐げられている人を自由にの身とするために来られたのだからです。
みなさん、ぜひこの点を忘れないでください。ジーザスはあなたの救い主です。あなたを解放し、自由にし、救い出すために来られました。イエス・キリストを正しく知り、おびえずに喜んで迎え入れましょう。
「黙れ。この人から出て行け」とイエスが言われると、その人は投げ倒されて、しかし何の害も受けることなく悪霊だけがその人から出て行きました。まさに捕らわれ人の解放が実現しました。これが主イエスのみわざです。
私たちは苦難や試練に襲われ、自分の思うように物事が進まないとき、自分の願いを持つことさえできなくなり、自分が思っていることを話すことが面倒で無意味に感じることがあります。そして「もう構わないで」と人も福音もはねのけたくなる衝動も覚えたリもします。しかし、それはここで叫んでいる悪霊のようです。汚れた悪霊は「私たちと何の関係があるのですか。滅ぼしに来たのですか」と叫び、もうこれ以上自分に構わないでほしいと突っぱねました。
これは、福音を拒絶する姿です。自分の城に福音を入れないぞ!と強がるのです。しかし、福音はその人を解放します。福音はその人を縛りません。福音はその人を真の意味で自由にします。主イエスを遠ざけるならばその人は悪霊の住みやすい場所になってしまします。どうせ自分はこのくらいだと見限っているならば、ぜひそこから引き上げていただきましょう。主イエスは誰も解放することのできなかったその人を癒してくださいました。ぜひ、私たち一人ひとりも解放されましょう。自分の城を開放し、主イエスのご支配を受け入れましょう。
2. 礼拝で起こっていること
これが安息日の礼拝での出来事であることに注目しましょう。イエスがその人を叱ると「すると悪霊は、その人を人々の真ん中に投げ倒し、何の害も与えることなくその人から出て行った」とあります(4:35)。この解放の出来事はものすごく躍動感がありました。私たちの礼拝のイメージや望んでいることとはかけ離れています。礼拝は整った環境で静かに過ごす。イレギュラーなことや急で突拍子もないことはやめてほしいと考えているなら、この個所の礼拝の記述はそれとは真逆です。何せ、急に人が叫び出し、その人が投げ飛ばされています。しかし、これが生ける神がともにおられる礼拝の姿です。
それでも、「何の害も与えることなくその人から出て行った」とは、その人自身が守られ、悪霊だけが敗れ、退散したということです。ただ大騒ぎがあったのではありません。その人は投げ倒されましたが、無傷でした。主の守りがありました。つまり、私たちが主イエスの権威を何よりも高く、偉大なものであると認めることは、私たちに何の不具合も、不都合も起こさないということです。よく、クリスチャンになったら窮屈な生活をしなければならなくなる、自由がない、あれもこれもしてはいけない、罪を犯したら罰せられ、聖書を読ませられ、献金させられ、奉仕をさせられ、祈ってるかチェックされる・・・・・・といった勘違いや先入観があるかもしれません。
しかし、ここで行われたことは真逆です。この人は解放されました。彼は人々の真ん中にズデーン!と転がったのですから、投げ倒されたことは恥ずかしかったかもしれません。しかし、それによって得た回復は格別です。
私が高校生のとき、ハンドボール部に所属していました。ハンドボールは少し重たいので、よく指をケガしました。ある試合中、ボールを受け取るタイミングを間違えて、私の指の関節が外れてしまいました。それでも試合に勝ちたかったので、その場で指を戻しました。一時的にものすごい痛みがありましたが、指はまっすぐに戻りゲームを続けることができました。一瞬の痛みはあっても、まさに何の害もなく、癒されたのです。
彼には主イエスが直接触れてくださいました。それからの彼は、生涯の間その感触を忘れられなかったのではないでしょうか。そして、彼を囲んで礼拝をしていた仲間が彼に起こった変化を見ていました。そして、彼が再び立ち上がるのを助け、それからともに歩みました。来る安息日の礼拝で、いっしょに賛美をし、神をほめたたえました。「あのとき、すごかったよな」「ジーザスに触れていただくまでの自分は大変だったぞ」などと語り合いながら、救いを味わいました。こうした「人々」の中で彼もその後を生きました。これが礼拝の姿であり、教会の姿なのではないかと思わされます。
私たちも毎週主の日を大切にし、礼拝をともにしています。痛みや苦しみを主イエスに触れていただき、互いの救いの出来事を分かち合っていくのです。ある人は変えられた目に見える変化があり、ある人は倒れた者を抱き起し、ある人は苦難を抱えつつ静かに礼拝します。
不安や不景気、うまくいかないことや家族の問題があります。そうした現実の中で悪霊に捕らわれ、自分の願いや言葉まで奪われてしまうとしたら残念なことです。自分の城をいつも自分で見張り、いつも自分で何とかしようとし、ほかの誰も自分の領域に立ち入らせようとしない雰囲気を出し、ジーザスさえもはねのけようとしているなら、考え直しましょう。そうではなく、主イエスの権威を存分に自分の人生に発揮していただくようにしましょう。
ここでなされたみわざは、ただ主イエスのことばによるものです。主イエスはその人に何かをするように指示や命令をくだしていません。ただ「黙れ。この人から出て行け」とことばを発せられました。それだけで十分でした。なぜなら、主イエスのことばには権威が伴うからです。ジーザスが言われたことは、すべてそのまま実現するからです。
教会はただの集会や同好会ではなく、主の権威が満ちあふれ、主の霊がとどまり、それを存分に味わうところです。主の権威はもっとも高く、偉大です。
3. 主の教会になろう
最後に、ここから学べる私たちが目指す教会像についてお分かちします(そのため、聖書箇所が当初よりも短くなりました)。このカぺナウムの教会(会堂の礼拝)にはこの悪霊に取りつかれた人がいました。それは、教会が彼のような存在を受け入れていたということです。ルカ7章にもカぺナウムが登場しますが、そこでは有名な百人隊長がそのしもべの癒しのために家来を送る話があります。おそらく、カぺナウムの教会はそうした人々が多くいたのかもしれません。さらにルカ10章では、カぺナウムは厳しい叱責を主イエスから受けています。なぜなら多くの者が癒され、主の力を目の当たりにしたにもかかわらず、そこで悔い改める者が少なかったからです。
では、私たち福岡めぐみ教会の使命は何でしょうか。主が私たちに特別に示しておられること、主が私たちの教会に託しておられる働きは何でしょうか。私は昨年と今年のテーマではないかと思います。「福音に生きる」(2023年)、「福音にふさわしく生きる」(2024年)です。
福音は神からの良き知らせです。それゆえ、この世とぶつかるときがあります。福音はすべて人の耳に心地よいわけではありません。福音は私たちクリスチャンの考えや好みに常に100%合うわけでもありません。福音は神から出ているので、根本的に人や世と衝突します。
たとえば、あなたが自分には価値がない、誰からも必要とされないし、慰めてもくれないとつぶやいたとしても、福音はあなたは高価で尊い、あなたはわたしの宝、いつもともにいて離れることはないと宣言します。私たちはどちらを選び取るべきでしょうか。自分の思いでしょうか、世の意見でしょうか、目の前の現象でしょうか。いいえ、私たちは主の言われることを選び取るべきです。なぜなら、福音にこそ救いがあるからです。福音だけが真の解放と自由をもたらすことができるからです。
私たちが福音を誇れるようになるためには、聖霊に導かれ、聖霊による支配を受け入れなければなりません。生まれつきの人間、変革を経験していない人間は恐れるからです。人々に批判されない、何の反応もないような教会活動であれば、それは世に合わせたことしかしていない証拠です。私はこの福岡めぐみ教会が、人間に支配されない教会に、牧師にコントロールされないクリスチャンの集まりにしていきたいのです。
人間に認められるより、聖霊が働く教会になりましょう。人間の目を気にするより、福音に焦点を合わせていきましょう。人間の反応に敏感になるより、福音の要求に聞き従いましょう。私は、この福岡めぐみ教会を牧師の考え通りになるとか、発言する方の声にそって進むのではなく、聖霊に従う教会として主の前に立ちたいのです。
「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つとなっている人々に御力を現してくださるのです。」(第二歴代誌16:9)
主は探しておられます。全知全能の主が知らないことなどないはずなのに、主はこの世界の隅々までご自身に従う者がいないか見渡しておられます。主の知恵で、優秀な人だけを瞬時に選ぶことだってできるでしょう。それでも、主は福音に生きることを願う人を探しておられます。この教会を見渡しておられます。
人間関係よりも主との関係を大事にしましょう。一見、人間関係がうまくいけば過ごしやすいように思いますが、実は窮屈なのものです。そこには解放と自由がないからです。ずっと人間の目を気にして生きるのは息苦しいものです。なにより、主の臨在がなくなっていきます。
こうした大胆な目標は人間からは出てきません。まさに主のビジョンです。主が私たちに見せてくださるビジョンが「福音にふさわしく生きる」ことです。できるだけ達成しやすく、目立たないように、失敗しないように計画を立てる私たち人間とは根本的に違います。だからこそ、主イエスから目を離さないでいましょう。聖霊に心をご支配していただきましょう。私たち教会に示された主のみこころを行っていく教会として踏み出しましょう。
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