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「主を待ち望む」

聖書 詩篇130篇


  1. どこから主を


今朝の礼拝から、しばらくの間2025年間テーマ「主を求め、みわざを味わう」のシリーズに入ります。具体的に、主を求めることを学びたいと願います。今朝は詩篇130篇。表題に「都上りの歌」と付けられています。詩篇の中で一番長い119篇の次120篇~134篇までの15篇が「都上りの歌」シリーズです。民が聖所であるエルサレムへ行く途中にこれらを歌いながら旅をしたとされています。当時は律法で年に3回エルサレム神殿まで行き礼拝するように定められていました(出エジ23:17)。また、離散によって遠く外国にいる民も、生涯に一度はエルサレムに上って行って礼拝をささげるために長旅をしたとも言われています。民たちは、神を求めて礼拝しに旅をしました。


私たちにとっても、毎週主の日の礼拝は小さな旅です。日常生活から出発をして神を礼拝するために教会への旅をしているのです。ただ無意識に、勝手に体が動いて、そうすることになっているから・・・ではなく、私たちは神を求めて礼拝をささげます。礼拝は、神と人との双方向の交わりです。どちらか一方だけでは成立しません。神は私たちを招いて導き、私たちはそれに答えて神に近づいて行く。それらが出会うところで、礼拝は始まります。それぞれの思いがあることを知っています。もしかしたら「親に連れられている」「休むと家の雰囲気が悪くなる」とやや後ろ向きな気持ちで、礼拝に来られている方(世代)もいるかもしれません。「今日は何となく行く気がしないなあ」「人と会うのがおっくうだなあ」と感じつつも、この場におられる方もいるかもしれません。それでもよいです。ただし、主を求めて礼拝を過ごしましょう。「何でそんなに教会や礼拝が大事なのか分からないけれど、神さま、あなたがここに私を呼んだならその意味を教えてください」「私が判断できるように、今日は聖書の言っていることがよくわかるようにしてください。じゃないと寝ますよ」くらいの勢いでもよいですから、神を求めて、礼拝いたしましょう。


11月にこの教会に来てくださった後藤哲哉先生がこの前小倉中央教会での九州聖会にも講師としてお招きし、次のようにおっしゃいました。

「私たちが礼拝の場に来られるのは、ただ主のあわれみです。イエスさまもペテロの信仰がなくならないように祈られました。ペテロは大失敗しましたが、彼の信仰は回復し、忠実な主のしもべの一人となりました。彼は祈られて立ち直ったのです。同じように、私たちも祈られています。周囲の人たちに祈られて、礼拝の場にいます。礼拝は、神のあわれみを受け取り、感じ取ることができる時です。だから、私たちは何とかして礼拝にあずかることに最善の準備をして、礼拝の機会を逃さないようにしないといけません。

一回礼拝を逃したら、その分神さまのあわれみを受け取ることができないのです。忙しいからこそ、礼拝に参加することが大切なのです。」


礼拝には主のあわれみ、祝福、力が注がれています。それなくして人生を送ることは、ガス欠になり破滅に向かうようなものです。ここで主のあわれみを受け取ることによって、この一週間を何とか乗り切ることができます。だから、この詩篇で礼拝のために都上りをした民のように、いのちがけで礼拝に参加してみましょう。これは仕事や責任関係で礼拝に来ることができない人を指して言っているのではありません。私たちは、そういった方々が何とかして集まることができ、神のあわれみを受け取ることができるように祈るだけです(もちろん、体調は優先されてください)。


礼拝は、神を求めて上って行く旅です。たとえ、「深い淵」にいるような最悪さの中にあっても、です。たとえ暗やみで、今はそれどころではないという気分であっても、です。たとえ、もう長いこと泥沼のような状態で、ひとつも願いが聞かれない、良い方向に進んでいるとは思えないからムダだと感じていたとしても、です。そここそ、信仰=神を仰ぐ出番です。主はあわれみ深い方です。あなたが神から離れ、むなしく、荒れて平安のない人生を歩むことをさせたくないと願っておられるのです。


2. どのように主を


私たちはどんな深い淵(海の深み、大水の底の意味)からでも主を求める礼拝の民です。それでは、どのように求めたらよいのでしょう。ここでは「私はあなたを呼び求めます・・・私の声を聞いてください」(1-2節)と主を求めています。大事なのは「主に」求めるのではなく、「主を」求めることです。この呼びかけは、どんなことを主に求めるのかではなく、主ご自身を求めることを教えてくれます。そして、そのことを主は最も喜ばれます。


「呼び求める」の内容は、はっきりと対象を定めて呼ぶことです。「だれか~助けて~」ではなく、「主よ」「わが神よ」と呼び求めるのです。誰かを探すとき、名前を知らなければ、その人を呼び求めることも、気づいてもらうことも難しいでしょう。あなたが困ったとき、「ねえ、ちょっとお願い」と叫んでも、頼りなさそうな人が来ても大変ですよね。「だれを」呼び求めるのか、はっきりとしておかなければなりません。そして、私たちが窮地で呼び求めるのは「主」です。願いの内容よりも、まずさきに主を求めます。そうです、「主の御名を呼び求める者は みな救われる」(ヨエル2:32)ので、大丈夫です。「主に正確に内容を伝え、助けの手段を言い当てられる人が救われる」のではありません。ただ主を、主の御名を呼び求めます。主は私たちの状況、必要、解決の方法のいっさいをご存知のお方だからです。

私たち夫婦が神学生のとき、他の神学生夫婦の実家に泊まらせてもらう旅をしました。ある夜、温泉施設で私の財布が盗まれてしまい、運転免許証もないので、帰りは妻が運転することになりました。そして長野県、群馬の峠を通らなければならないのですが、その前夜に雪が降りました。その家を出て、ほどなくして高速道路です。黒く見えた路面ですが、実はアイスバーンになっていました。ある直線で、四人を乗せた車はツルツルっと滑り出して制御不能となりました。一人が「朗美さん、ハンドル切っちゃダメ!」と叫びましたが、そのとき妻はすでにハンドルを切り始めていました。眼前に迫る来る壁をよけようとしていたのです。同乗者みながもうぶつかると思ったとき、車が回転し始め、どこにもぶつかることなく逆を向いて停車しました。もう「神さま!」と叫ぶしかない状況です。他に何もできませんし、やってはいけないハンドル操作もしてしまっています。そんな状況で事故から守ってくださったのは主でした。それから、高速道路を降り、タイヤチェーンを買うのですが、もう妻も運転が恐くなり、それ以上雪の高速を運転する自信がありません。それで、同乗していた同級生の親に来てもらって運転をお願いし、もう一泊させてもらうことになりました。どうしようもないときに呼び求めるのは主であり、主は困った状況を知って、助け手を備え、送ってくださることも経験しました。発端は私が財布を取られたことですが、主を呼ぶ忘れられない教訓を学びました。

ペテロも嵐を見て怖くなり、湖で沈みかけたとき「主よ、助けてください」(マタイ14:30)と呼び求めました。詳しい状況を知らせたり、方法は3通り思いつきますと言ったり、あなたに助けてもらう資格があったらお願いしますと言ったりしていません。ただ一心に「主を求める」「主を呼ぶ」ことだけで、助けられています。深い淵に陥っても、人のせいや環境のせいにするのではなく、ただ神のみを見上げ、主の御名を呼びましょう。そして、主を待って待って待ち望みます。


3. 贖い出す主


深い淵から主を呼び求めると、助け出されることを見てきました。しかし、3節は「不義に目を留められるなら だれが御前に立てるでしょう」と続きます。神を呼び求めると、私たちは自分の罪や汚れ、不義を示されると言っているのです。あれ?助けが確実に来るはずでは・・・と思いますよね。しかし、私たちが主だけを求めるなら、もう人のせいにしないし、できないということです。生まれた環境や今の状況のせいにもできなくなります。もし、どこかで他人のせいにしているなら、それは主だけを呼び求めているとは言えません。主の御前に立つとき、私たちは自分の不義=正しくあり得ず、神の前には不十分だと示されるのです。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしい」(へブル10:31)と聖書は一貫して、聖なる神を安易に考えることの恐ろしさを教えています。

しかし、です。「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」「(主には)豊かな贖いがある。主は すべての不義から・・・贖い出される」(5,7,8節)と主が不義をどのように扱われるかが重ねて記されます。主は私たち人間の不義をそのままさばくのではなく、贖い出し、赦す方。「贖い出す」は「犠牲を払って買い戻す」という意味です。私たちが神を恐れるのは、罪に怒り狂って叱られるからではなく、罪に対して犠牲を払って赦してくださるからなのです。私たちが自分の罪ゆえに、深い淵に入り込んでも、そこから引き上げてくださる。人のせい、周囲のせいにして自分をなだめても、罪を放置していたら何にもなりません。せっかくすべての不義から連れ戻してくださる神がおられるのですから、私たちはこの方を呼び求めることが何より先決です。


自分の罪と戦って、神を求め、赦しを経験しましょう。主のみことばは、私たちが人に向けていた刃を捨てさせ、周囲のせいにしていた腹の虫を正しく処理してくださいます。罪が赦される聞くことは簡単ですが、罪と戦い、神だけを見上げて御名を呼び求めることは、私たちの信仰が試され、鍛えられます。主にどうぞお願いしますと何でもやってもらうことは楽ですが、自ら主を求めていくことは、不信仰や面倒くささを乗り越える必要があります。2025年、私たちは自ら主を呼び、主を待ち望み、信仰の身体づくりに取り組みましょう。


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