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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「主を恐れる礼拝者」


聖書 ヨシュア記5章13-15節


はじめに

1月からの礼拝/賛美シリーズも本日で10回目。次週は受難週、その次はイースターとなりますので、礼拝/賛美シリーズは今朝で一区切りとなります。


毎回はじめに確認しているように、私たちは主の日も平日も、会堂でも家でも、集会でも普段でも、礼拝の生活をしてまいります。この礼拝式はそのスタートとなるものです。ここから、私たちは福音の素晴らしさを携えて飛び出していくようなイメージです。


そして、その力の源泉となるのは、この礼拝で体験する力であり、みなでささげる賛美の臨場感であり、ともに聞くメッセージです。先週も複数の方が「みことばが私を支える力となりました」、「隣人に福音を伝えるための導きとなりました」とレスポンスしてくださいました。


すごいですね。かが福岡めぐみ教会を通して起きています。神さまの視点で想像してみてください。みことばを通して語られる主が、天から私たちの動向をご覧になって喜んでおられるのではないでしょうか。こういうとき思い出すみことばがあります。私はこのみことばが大好きです。


「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。」(第二歴代誌16:9)


主がお探しになっておられるのは、主ご自身と全く一つになっている人々です。それは、主の語られるみことばを求め、真摯に聞き、応答する人ではないでしょうか。


今朝も、私たちはともにみことばを聞きます。年齢層も境遇もそれぞれ違いますが、不思議なことに同じみことばによって主は一人ひとりに語ってくださいます。主があなた自身に語ってくださることに期待し、今朝のみことばに入ってまいりましょう。


壁を目の前にして

ヨシュア記は、イスラエルの民が神の約束の地カナンに入り、土地を得る出来事を記しています。ヨシュア記の前にある創世記から申命記は「モーセ五書」といわれ、その名の通りモーセが書き記したものです。そして、出エジプト記15章から申命記まではずっと荒野での旅の記録です。このヨシュア記は、40年に及ぶ荒野の旅が終わったところから始まります。


ヨシュア記の主題は「神が約束の地へあなたを導いて祝福する」ことです。ただし、「約束の地」と言っても、そこは空き地ではありません。


今朝の個所は「ヨシュアがエリコにいたとき」(5:13)と始まっています。これは、次の6章で出てくるエリコの町のことです。エリコは最大8メートルの城壁が二重で取り囲んでいた難攻不落の要塞でした。人間の力、結束、王の偉大さを誇るように城壁がそびえ立っていました。力と力の勝負なら絶対に負けません。そして、城壁を守る兵士、敵を討つ軍隊が整備され、子どもたちをいけにえにするほどの狂った風習も行われていました。自分たちの勝利のためならどんなものでも犠牲にして構わない、という論理です。それで、ヨシュアの主題は「神が約束の地へあなたを導いて祝福する」と同時に、「神の約束を受け入れようとしない罪との戦い」でもあるのです。

それは、エリコだけでなく私たちの内にもあります。私たちは常に、外部からの侵入に備えて防御線を張ります。ここからは入り込ませないと虚勢を張ったり、今は話しかけたらキレますよという不機嫌なサインを出したりします。あからさまに人を攻撃し、ひそかに人を憎みます。あるときにはまことの神とはかけ離れた存在に頼ったり、惑わされたり、誘惑に負けたりもします。「いつも喜んでいなさい」のみことばとは対極に、いつも人を批判し、人を軽視し、そうかと思えば被害者意識を持ったりもします。それはまさにエリコの城壁のように高いプライドや罪を自分の中に張り巡らしているかのようです。


まだメッセージのさわりですが、もうすでに、自分の持っている問題を嫌というほど見せられます。私たちはイスラエルの民がそうであったように、この内なる戦いに挑み、勝利し、約束の地で主に仕えるよう導かれています。


イスラエルはこの40年間、荒野にいたため、敵との戦い方を知りません。毎日砂漠をさまよい、マナを食べていましたが、戦ったことがありません。しかし、これから入る約束の地には高い城壁と迎え撃つ屈強な兵士たちという大敵と戦わなければなりません。彼らは鍛えられ、武器を持ち、統制されています。どうしたらイスラエルの民戦い、しかも勝つことができるのでしょうか。


ヨシュアは途方に暮れるような思いでエリコの町を眺め、城壁を見てため息をついていたに違いありません。しかし、ここから神は導かれます。ヨシュアがどれほど自信をなくし、民が戦い方を知らなくても、主は完全な計画に従って、彼らを教え、導かれます。


そして、主は私たちにも同じことをしてくださいます。 主がヨシュアに語られたことは、私たちにも語り伝えたいと願っておられることです。主がヨシュアを通して導かれた進路は、私たちにも進んでほしいと願っておられる道です。私たちは、主がここでヨシュアに語られた主の声を、聖書を通して聞いているのです。


目の前に現れる試練や壁に恐れて私たちがたじろぐとき、主は「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」(1:9)と語り始めてくださいます。このみことばを聞いて、私たちは壁を前にしても立ち上がるのです。主の呼びかけによって、私たちは新しい地、約束の地へと向かう勇気をいただくのです。主の声によって、私たちはエリコのような屈強で強情な自分の罪との戦いに備えていくのです。今がそのときです。



2. 思考の転換

そんなときヨシュアが目を上げると、「一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立って」(13節)いました。ヨシュアがこのままの状態で行ってしまわないように出て来た、という感じです。ヨシュアはとっさに「あなたは味方ですか、敵ですか」と尋ねます。緊張に圧倒されそうなとき、私たちはようやく自分ではない他のだれかの助けやアドバイスを求めるようになります。しかし、もし、そのとき間違った者に助言を求めたら致命傷となります。神は私たちが主を求め、主に聞くのを待っておられます。またあるときには、このように主は歯止めをかけるようなかたちで語ってくださいます。


ヨシュアは「味方か、敵か」と尋ねましたが、その相手は主でした。きっとヨシュアの頭の中は目の前の戦いのことでいっぱいだったので、周囲の誰を見ても「味方か、敵か」という基準でしか人を見ることができない精神状態でした。追い込まれていたのですね。


「あなたは私たちの味方か、敵か」とは、自分の肩を持ってくれる存在なのか、それとも自分を阻む者なのか。 中心にあるのは「私たち=自分」です。この人が自分に対してどのような姿勢、心づもり、態度なのかを判断することでいっぱいだったのです。


卑近な例ですが、先週こんなことがありました。

夜中、寝ていた妻が何やら苦しそうです。半泣き状態で起き上がった彼女が「足がつっちゃったの」と助けを求めてきました。私はそのつった足を直そうとグっと力を入れたのですが、どうら治るのとは逆方向(つまり、ひたすら痛い方)に押さえてしまったようで、次の瞬間、妻が「痛い、痛い。役たたず」と、もちろん愛嬌を込めてですが言いました。妻にとって、そのときの私は「敵」に思えたのでしょう。ピンチのとき、味方が欲しいものですね!


そんな余裕のないヨシュアを諭すように「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」(14節)と主は言われます。ヨシュアが軍の将なのではなく、主が将(キャプテン)であると言われました。これから向かう戦いはヨシュアが先頭に立つのではなく、主が先導するのだと言われました。そして、その主は遅れることなく「今、来た」と言われます。ヨシュアは自分が先頭に立って戦うことばかりを考えていましたが、そうではなく、これは主の戦い。立ちふさがる城壁に圧倒されていたヨシュアは、主が先立ってくださることをすっかり忘れていました。


試練のときに整理しなければならないのは、あなたにとって誰が味方で、誰が敵なのかではありません。壁を前にしたとき考えなければならないのは、あなたにはできるか、できないかではありません。

課題に取り掛かる前に知るべきことは、それによってどんなメリットとデメリットがあるかではありません。私たちがまず知っておかなければならないのは、主が導いておられることなのかです。


たとえ困難があると分かっていても、それが主の導いておられる道であれば、私たちは従うべきです。そのことを通して、主が喜ばれるのであれば、信じて踏み出すべきです。歓迎しない事態に陥ったとしても、そこで主があなた自身の罪を見せておられると考えるなら、苦痛でも受け取り方が違ってきます。嫌なことは全部他人のせいにしていたら、私たちは主が与えようとしている成長や祝福を受け取り損ねます。


ヨシュアは一大プロジェクトのプレッシャーや戦略に頭を悩ませていたのではなく、自分自身の問題を取り扱われているのです。すべてを「味方か、敵か」で計算して行動するヨシュアの癖に、主はメスをもって切り込まれます。「わたしがあなたを導いているのではないのか。それを忘れてしまっているのか」と言うために、主は出て来られました。


今日という日から、どんな局面においても主が私の先に立っておられると意識するならば、私たちは必ず礼拝の生活を続けることができます。私たちに力がなくても大丈夫です。「抜き身の剣」は主の側で準備ができているしるしなのですから。


3. 主のしもべとして

主の軍の将に対するヨシュアの応答は素早いものでした。すぐに顔を地に付けて伏し拝み「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」(14節)と自分を「しもべ」の立場へと移しています。先ほどまでの「私たちの味方か、敵か」という論理とは別れを告げ、今や「主とそのしもべ」というポジションになりました。


しもべは主の告げられることを待ち、聞き、従います。

ヨシュア記の主題は(1)神が約束の地へあなたを導いて祝福すること、(2)神の約束を受け入れようとしない罪との戦いである、と最初に述べました。しもべにとっては主人からの祝福をいただくことがもっとも幸せです。他の人からの評価や賞賛には目もくれずに、主人に目を注ぐのがしもべです。主人からの栄誉を受けたいからです。神が約束の地へと導き、祝福を与えるのですから、何があっても前進し、約束の地へ入らなければなりません。


また、しもべは自分の主人に生涯忠実であることが求められます。昨日と今日で違う主人に仕えることはあり得ません。神の約束を受け入れようとしない罪があり、罪との戦いがあります。この戦いに勝利するためには、自分自身で力を付けたり、味方を増やしたりする必要はありませんね。ただ主人に信頼し、主人への忠誠を誓い続けることです。それが罪とのいに打ち勝つ道です。


それから主はヨシュアに「あなたの足の履き物を脱げ。立っている所は聖なる場所である」(15節)と言われました。ひれ伏したヨシュアに「立っている場所」と言われるやり取りは興味深いものです。私たちがどれほど神の前にひれ伏しても、それは足らないのだと言われているようです。


「私は礼拝者だ」「私は誰よりも神を敬う」という態度を心のどこかにでも持っているならば、その高ぶりこそ、主はもっとも忌み嫌われます。礼拝しすぎて謙遜になりすぎ・・・という心配は無用です。


そして、「履き物」は自分の力と尊厳と所有権を象徴するものでした。それを「脱げ」と言われるのは、自分のすべてを主に明け渡せという命令です。少しばかり自分の権利や誇りを主張したって・・・という隙間もないほどの完全な明け渡し―主への信頼―そが、戦いのためにもっとも必要な備え・武具でした。主が抜き身の剣を持ち、あなたの先を行かれます。このお方を信仰の目をもってまじまじと見て、全面的な信頼をもって従うのです。


自信なんかなくて良いのです。主への信頼こそが一番、いいえ、それがすべてです。



主は、このやり取りをヨシュアと一対一でしてくださいました。「味方か、敵か」で人を見ていたヨシュアの不安を払拭し、「あなたの足の履き物を脱げ」と見栄えもプライドも捨てるように迫られるのを、誰も見ていないところでしてくださいました。こういう罪の迫りと献身をするのが礼拝です。そして、他の誰のことも構わないで、ただ私自身は主に対してどのような応答をするのか、のことを考えるのも礼拝です。


毎週、同じことを繰り返す礼拝。

みことばの前後で何も変わらない礼拝。

これは、私たちがなすべき礼拝ではありません。


毎週、主とお会いする礼拝。

みことばを聞くと応答する礼拝。

これこそ、私たちの目指すべき礼拝です。


今朝、あなたに示された罪はありますか。主と一対一の真剣勝負でそれを取り扱ってください。

今週、あなたの行く道を主が示してくださっていますか。権力でもなく、能力でもなく、主に信頼して従いましょう。

約束の地に入ってこそ与えられる祝福を味わいましょう。


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