聖書 エペソ人への手紙4章7~12節 |
先週から4章に入りました。そこではひとり=主、父なる神、一つ=望み、からだ、御霊、信仰、バプテスマと述べられていました。聖書は「世界は一つ」と言わず、「からだは一つ」と教えます。からだ=キリストのからだ=教会が、私たちが生きるこの世界を指すのに使われています。これは私たちに重要な気づきを与えてくれます。人生は一つ、世界は一つ、家庭は一つ、学校は一つ、仕事は一つと言わないで、からだ=教会は一つである。これは、私たちが生きる範囲でもっとも大きなものが教会であるということです。キリストの中に生きていることから、人生におけるすべての事を正しく配置し、理解することができます。たとえば、週の初めの日に教会堂に集うことは、礼拝から始めることは、すべては神から始まり、神に終わることを認めることです。神を礼拝して週を始めることは、これから起こるすべてのことは神の配慮のうちにあり、神の力をいただいて歩みだすことです。私たちは、ここから出て行き、遣わされていきます(だから、教会からの挨拶は「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と言います)。物理的・場所的には教会という建物ですが、意味的、現実的には神の御住まい、神の教会、神と聖徒との交わりの中です。キリストのからだであり、教会であり、神の国で生きる。このことを味わいながら、4章7~12節を見てまいりましょう。
1. 仕える恵み(7-10節)
❶ キリストから一人ひとりに
7節は「私たちは恵みを与えられました」とあります。2章に出てくる「恵み」は「信仰による救い」に関して述べられていました(2章5、8節)。ここでは4章12節とのつながりを見ると分かるように、奉仕の賜物が恵みとして与えられていることがわかります。それは「キリストの賜物の量りにしたがって」与えられています。私たちの願いに基づいてとか、能力にあわせてとか、人に求められるからではなく、キリストの御心にしたがって賜物は与えられています。キリストから、賜物という恵みが与えられている。
奉仕をするときには、このことに心を留めておくとすっきりします。やらなくちゃいけないのは辛いことです。苦手なことをさせられるのも臆病になります。けれども、もし、あなたができることがあるとしたら、それはキリストからの贈り物です。それを隠していてはもったいない。送り主の期待に答えられるような使い方、用い方をしたいと願います。あなたができるように、神さまが備えてくださっているものは何でしょうか。あなたができるように、神さまが声をかけておられることは何でしょうか。無理やりしなさい、見つけなさいとは書いてありません。けれども「私たち一人ひとり」にその恵みは与えられていると明記されています。与えてくださったお方はキリストですから、めちゃくちゃなことを求めることはありません。たとえば、のこぎりに向かって「お湯をわかしなさい」とは言われません。のこぎりは木を切るために作られているからです。フライパンに向かって「ゴミを吸ってきれいに掃除をしなさい」とは言いません。料理をするために作られているからです。同じように、私たち一人ひとりに賜物が与えられています。主があなたに与えてくださっているものを、ぜひ用いましょう。
❷ 救いの勝利への感謝として
さらに、これは奉仕をしないといけないのだというあやまった考えからも守ってくれます。続く8節では詩篇68:18からの引用があります。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた」。一見、つながりがわかりにくい引用箇所ですが、これは正しく奉仕がなされるために大切なことを教えてくれています。キリストが高き所に上り、すべての敵に打ち勝ち、勝利の分け前を人々に与えられました。だから、私たちの奉仕は、キリストの勝利を喜ぶための奉仕になる、ということです。奉仕をしないと教会に行ってはいけない、いてもいけない。奉仕をしないと救いが達成できない。奉仕をしないと肩身が狭い・・・・・・これらはすべて間違った考えから来ています。奉仕は、キリストの勝利、キリストのくださる救いに感謝してなされるものだからです。周囲に顔色をみて、無理やり奉仕しないでください。牧師の顔を立てるため、断れないからと奉仕をしないでください。そうではなく、奉仕のときに見るべきお方はキリストです。キリストは一番低い所まで降ってくださり、仕える者となってくださいました。人への仕え方、人の愛し方、人の赦し方はすべてこの方が見せてくださいました。
そして、今、この方から仕える賜物を、機会を与えてもらっています。奉仕の誘い、提案を受けたときには、キリストからの招きであることを考えて慎重に。奉仕をするときには、キリストに仕えるように丁寧に。なぜ、自分にその声がかかっているのかを「私たち一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました」(7節)の箇所に立ち返って考えてまいりましょう。だからといって、絶対しなければならないものではありません。恵みとして受け取って、初めて快くすることができるからです。断ったとしてもわだかまりや溝ができるわけではありませんが、一部の人にたくさんの種類の奉仕が重なることのないよう、互いに配慮していきたいと願います。奉仕を受けるときも、奉仕をするときも、キリストを見つめましょう。「すべてのものを満たす」(10節)お方が、奉仕をなさるあなたのことも満たしてくださいます。
2. 牧師の務め(11節)
❶ 使徒~伝道者まで
では、教会は人が自然に集まって過ごしていれば成り立っていくものではありません。イエスさまは十二人の弟子たちを選び、ともに過ごし、教え、権威を持たせて宣教に送り出しました。イエスさまは十字架と復活のあと、ご自分の銅像や大聖堂を建てたり、残したりすることはありませんでした。イエスさまが地上に残されたのはその12人の弟子たちだけです。それは、彼らが聖霊を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで主の証人として出て行くためでした。その宣教のわざが、それからずっと引き継がれて、この福岡めぐみ教会も宣教27周年を迎えています。そして、これで終わりではありません。まだまだ福音を知らない方がいます。迷って傷ついている羊がいます。自分たちがここまでだと思うその囲いの外にまで出て行って、キリストによる救いを告げ知らせなければなりません。そのために、キリストご自身が立てられた(原語:与えられた)ものがあります。それが使徒、預言者、伝道者、牧師、教師(11節)です。
キリストのからだを始め、作り上げていくために、キリストご自身が定めてくださったこれらの人々。イエスさまが3年間、弟子たちと寝食をともにし、数々の宣教旅行をし、嵐にあい、試練にあい、祈り、いのちをかけた犠牲をはらい、その弟子たちを訓練し、励まし、慰め、とりなし、教え、奮起を与え、聖霊を注いで宣教のわざに間に合う者とされました。ここでいう使徒、預言者は新約聖書時代に限られた役割として言及されています(2:20を参照)。それらに続く伝道者、牧師、教師たちは今も共通して教会の働きを担う立場の者たちです。私自身も、神からの召しを受けたので、26歳で神学校に入り、3年間の学びを受けました。人生で初めてたくさん勉強したい、学ぶことが楽しい、もっと学びたいと思った3年間でした。また、人生で初めて寮生活かつ二人部屋を経験しました。入る前は神学校でやっていけるか、クリスチャンばかりのところで生活していけるのか自分を疑っていましたが、今でもルームメートとは親友で、互いの牧師としての務め、教会のためにエールを送り合う仲です。この日本同盟キリスト教団の中に神学校のクラスメートが6名ほどいますが、ともに聖書を学んだという同志の関係は特別なものがあります。入江先生ご夫妻も卒業された学園です。聖書の確かさ、力、深さを教えられた本当に素晴らしい学園であり、生涯の財産を与えてくれたところです。それは、私たちが「できる」と思わせるのではなく、「神は生きておられる」「聖書は神の言葉であり、真実である」「ただキリストの十字架と復活を信じることで救われる」ことを教えてくれたからです。この原点(この他にはない)を心に埋め込み、そこを起点として遣わされた教会で務めをなしていくのが牧師です。
その牧師が祈りとみことばに専念し、「真理のみことばをまっすぐに説き明かす」(第2テモテ2:15)働き人として、この福岡めぐみ教会に迎え入れられました。これからも、私はまずそのことに専念し、時間をいただき、務めを全うさせていただきたいと願っています。そして、みことばを伝えるためにどんなことでもしたいと願います。どうか、主のわざに用いていただける者、ふさわしい者であるように、私のために祈ってください。
❷ 羊飼いとして
この「牧師」という語は聖書で唯一「牧師」と訳されている箇所です(新改訳2017)。そして、その他の箇所では「羊飼い」(マタイ9:36)、「牧者」(ヨハネ10章、第一ペテロ2:24)、動詞形では「牧する」(使徒20:28,第一ペテロ5:2)と訳されます。これは羊飼いが羊たちを守り、養い、水場へと導き、草を食べさせ、成長させ、いのちを守り、羊たちが良い生涯を送るようにすることをイメージさせています。それと同じように、牧者である牧師は、聖徒たちを守り、養い、正しい道へと導き、時には励まし、時には慰め、良いクリスチャン生涯をまっとうする務めを担うものです。
そして、羊の群れを導き、守り、養う手段としてもっとも大切なことが、神の言葉である聖書、いのちのことばで聖徒たちを養い、守り、成長させるということです。これ以外の方法、たとえばめちゃくちゃ厳しくしかってしつけ、軍隊のようにさせるとか、反対に何でもいいからと甘やかして神の真理を度外視するような導き方をしてはなりません。神学校で訓練されたように、主イエスが弟子たちを教えられたように、神の言葉に立って教え、励まし、成長させることです。少なくとも、私が召天した時には「大塚牧師は聖書のことを言っていたなあ」と印象に残るようにしなければなりません。その他のことは、二の次、三の次です。それは、羊の天敵が狼であるように、教会に間違った教えが入り込まないようにするためです。間違った声に聞き従った羊は、暗闇へと連れて行かれてしまいます。そして、私自身が間違った声を出すことのないように、日々みことばから聴き続ける者でなければなりません。なぜなら、牧師も過ちをおかす存在だからです。牧師の発言や考えがいつも正しく、聖書的で、福音的なわけではありません。どうか、牧師のために祈ってください。
3. 聖徒の務め(12節)
❶ みことばを聴く
教会を建て上げるテーマで、エペソ4:11-12はとても重要な箇所と言われます。11節で牧師が置かれたことが書かれ、12節では牧師と聖徒(信徒、教会員)の役割・目的が書かれているからです。
牧師は、群れの導き手として神の言葉をまっすぐに語ることを見てきました。では、聖徒の役割は何でしょうか。
それは第一に「みことばを聴く」ことです。教会の定義として、①神の言葉が真摯に語られ、また聴かれるところ、②聖礼典(聖餐式、洗礼式)が確実に行われているところ、③教会訓練(戒規)が執行されているところというものがあります。先に見てきたように、羊飼いである牧師はみことばを語りますが、それだけで教会は成り立ちませんし、成長もしません。それと対になるように「みことばが真摯(真剣、熱心)に聴かれる」ことが大切です。それは聴衆である聖徒、みなさんの役割です。もっとも大切な、第一の奉仕です。みことばが語られ、それが聴かれるところに教会はその姿を現します。時々、私の説教が良かったよ~と言ってくださる方がいます。それはそうです。なぜなら、聴くその人の心が熱心だからです。たとえ、どれだけ良いことを言ったとしても、聞かれていなければ意味のない音と一緒です。しかし、聴いてくださるからこそ、みことばが入ってきます。教会としての実感がわいてくるのです。だから、その反対もありえます。もし、私の説教がイマイチだと思ったら、それは聴き方がイマイチだったから・・・・・・(これは冗談です)と返すようにしています。みなさんがなさる第一の奉仕、最善の奉仕、最優先の奉仕は「みことばを聴く」ことです。みことばを慕い求め、それにともなう環境を整え、集中してくださることです。
聖徒の第二の役割は「奉仕の働きをする」ことです。出た、奉仕か、タダ働きか、ボランティアかと言いたくなるかもしれません。そんな気持ちをグッと抑えて、この12節を見てみましょう。牧師がみことばを語るのは「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」るためです。まずこの「奉仕」という言葉はお手伝いとか、掃除をするとか、小間使いという意味は一切ありません。これは「宣教」という意味の言葉で、英語だとministry(ミニストリー)として知られている語です。それは、教会の重要な働きで、教会は神礼拝と宣教のために立てられているので、なくてはならないいのちの働きがこの「奉仕」という言葉です。聖徒は「宣教の働き(わざ)」をするのです。しかし、そんな自信がある人はなかなかいないかもしれません。やる気のある人たちだけにお任せしたいかもしれません。そんなあなたに朗報、贈る言葉が次の語です。これに続く「整えて」という語は他では「完全な者とする」(第2コリント13:9)、「(破れた網を)繕う」(マタイ4:21)、「(過ちに陥っている人を)正す」(ガラテヤ6:1)といろいろな訳され方をしています。これらに共通しているのは、過ったもの、間違っているものを正しい状態を取り戻すようにする、ということです。みことばは、私たちを罪から守り、また間違った道を歩んでいたら正しい方向を示し、またそれだけでなくより良い状態へと向かっていける力も与えてくれます。牧師も、そのように語ることがベストです。ただ、あなたは罪人だ、力が足りない、このレベルにまで達していないと冷酷に通達するのではなく、罪やあやまちに陥り、不十分な状態であることを知らせつつも、そこから一歩神に近づいてみよう、やっていこうという慰めと励ましがあってしかるべきです。この4章1節で「勧めます」という語が「励ます」「慰める」と訳されることからも学んだことです。
牧師は、自分で教会の宣教のわざをするのではないのです。聖徒たちが御霊に励まされて、よし自分もやってみようと立ち上がることができるようにするのが牧師の務めです。そのことで、宣教の奉仕に尻込みしている人、遠慮深い人(日本人は得意です!)、控えめな人を勇気づけ、今が完全だから奉仕ができるのではなく、みことばが自分を整えてくださるからできるのだということを分かち合うのです。これは「聖徒全員=福岡めぐみ教会の全員」にかけられている号令ですね。決して「一部の聖徒たちを整え」とか「当番制にして聖徒に奉仕の働きを」とは書かれていません。実に、すべての聖徒たちが宣教のわざに踏み出せるように。教会創立27年目を節目に、新たなスタートラインにしたいと願います。大丈夫です、全能のキリストが「私たち一人ひとり」に賜物の恵みを与えてくださっています(4章7節)。
❷ 教会を建て上げる
この宣教のわざは「キリストのからだを建て上げるため」です。奉仕の目的がここに記されています。人のわざではなく、神の働きをすることが許されている。神さまはなんと大胆なお方でしょう。私たちは自分の部屋を勝手に模様替えされたり、服や持ち物を整理されたらあまり気分の良いものではありません。ましてや、自分よりも能力の劣る者がかわりにテストを受けに行ったり、試合に出ていったりしてほしくはありませんね。自分のほうがよくできるからです。しかし、主なる神はそうではありません。ご自身では何でもおできになるのに、小さな私たちにその働きを託してくださっています。それは、神さまが怠惰なお方だからではありません。私たちがより大きな目的に向かって生きるためです。私たちが最高の目的である神に仕える喜びを味わうために、ご自身の働きを任せようとしてくださっているのです。だから、私たちも人からの不平を封じ込めるためでも、自分の満足のためでも、牧師の依頼に従うためでもなく、神のわざに参与している自負を宣教の奉仕のたびに覚えたいのです。神にささげる栄誉ある働き。それが奉仕です。誇りに思ってよいことです。ひそかに威張ってよいことです。任された喜びをかみしめてよいことです。何より優先して取り組んでよいことです。そんなキリストに熱心な、真剣な、本気な聖徒たち。福岡めぐみ教会が宣教の力に満ちて歩み続けますように!! <了>
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