聖書 ミカ書5:2
1. 小さな計画
今年のアドベントは「偉大な方」をテーマに選びました。第一週は百人隊長のしもべの癒やしから偉大な権威、 第二週はナインのやもめの息子から偉大なみわざ、そして今朝第三週は「偉大な計画」です。詳しくはタイトルにあるように偉大な方の小さな計画となります。
みなさんは「救い」について、どのような理解をしているでしょうか。ある人は「天国行きの切符を持つこと」「死後に行く場所」イメージを持っているかもしれません。先週の箇所では、主イエスは死んだ息子に対して「若者にあなたに言う。起きなさい」(ルカ7:14)と言われました。「死んでしまったけど、天国行けるからね。お母さん、そういうことだから、天国で会えるからそれまで待っててね」とは言われませんでした。端的に言えば、主イエスは、その場で若者のいのちを取り戻すことによって、救いを実現されたのです。すなわち、「救いとは何か」を私たちに教えているのです。そうです、救いとは「今ここで起きるもの」であり、「地上の生涯で救われたことを味わうこと」であり、「現実の生活が変わること」です。他の箇所でも「今日、救いがこの家に来ました」(ルカ19:9)と主イエスは救いの実現性を強調されています。救いは地上のいのちを終えて天国へ行くことというのは、間違いではなくても、素晴らしい救いの一部であることは整理しておきたいものです。
今朝の個所は珍しく旧約聖書の一節からです。これは救い主イエスがどこで生まれるかを預言したもので、マタイ2章で、ヘロデ王がキリストはどこで生まれるのかを尋ねた際に、律法学者たちがこのミカ書5:2から「キリストはベツレヘムで生まれる」ことを突き止めています。
まず、その前の節5:1から見てみましょう。それは「今、軍勢をなす娘よ、勢ぞろいせよ」という呼びかけで始まります。この時、分裂したイスラエル王国の南ユダは、大国アッシリアの軍隊により包囲され、都エルサレムが陥落してしまう危機にありました。そんな重要な戦いで「今、軍勢をなす娘よ」と呼ばれています。それは、ユダの軍隊がそれほどか弱い状態であったからです。「軍勢をなす勇士たちよ、勢ぞろいせよ」とはとても言えない弱い軍勢でした。
そのような状況で2節の呼びかけがあります。そのため、「ベツレヘム・エフラテよ」との前に、「しかし」ということばが原語にはあります。「あなたがたは今にも倒されそうだ、しかし、ベツレヘムよ」という流れです。だいたい、こうした続きには「今弱っているけれども、次には大きな見方や励ましが来る」のが通常ですが、神の計画はさらに不思議な展開をしていきます。このベツレヘムは「ユダの氏族の中で、あまりに小さい」からです。今、女のように弱々しいのに、神はそこからさらに小さな氏族に目を向けるように導くのです。
私たちでたとえるなら、すごく大変な手術をするのに大病院ではなく町のクリニックを薦められたり、お腹がペコペコなのにレストランではなく畑に連れて行かれるようなものです。そのくらい、落ちた所からさらに下へ落ちるような展開ですが、神にはさらに深いお考えに基づいた計画があります。「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」(箴言14:12)との警告も、たびたび思い出す必要が私たちにはあります。
たとえ人の目にはこれが最善と思っても、遠回りさせられたり、別の道を歩まされることがあります。それも主のご計画です。また、たとえ自分には困難に思えたとしても、これも神の計画の一部だと受け止める信仰が養われるのも祝福です。すべて自分のビジョン通りに事が進めば信仰は必要ありません。人生はそうではないからこそ、神の計画を受け入れることが欠かせません。
2. 偉大な計画
そうして弱った状況でさらに小さな氏族に目を向けさせて与えられるのが「あなたからイスラエルを治める者が出る」というメシヤ預言です。ベツレヘム・エフラテは二つの地名ではなくベツレヘムをより詳しく告げたものです(参照:ヨシュア19:15)。「ベツレヘム」は旧約聖書にたびたび登場しますが、もっとも重要なのはダビデの生まれ育った土地だということです(第一サムエル17:12)。そしてダビデから、エッサイ、父オベデとさかのぼります。そのオベデはボアズとルツの間に生まれました。ルツ記では、ベツレヘム(「パンの家」という意味)に飢饉が起こり、その地を追われるようにしてモアブに逃げたナオミが二人息子に先立たれ、オルパとルツという2人の異邦人の嫁とベツレヘムに帰還するところから始まります。そうして、人生に数々の苦難を経てルツとボアズとが出会い、生まれたのがオベデであり、そこからダビデが生まれました。ルツ記は逆境から導かれる神の歴史でした。それと同じように、すべての人の救い主も逆境から生まれるのです。
ベツレヘム=そんな小さな村からイスラエルの王が生まれる。今は最悪、最弱の状態。しかし、そこを経て救い主は生まれる。そういうメッセージがここにはあります。ベツレヘムで生まれたダビデは、当時八人兄弟の末っ子でした。長男が跡取りであり、祝福を受け継ぐ時代にあって、次男や三男は二の次でした。ましてや八人兄弟とあれば、その一番下は無いに等しい存在として扱われていました。実際、サムエルが王となる者を捜しにベツレヘムを訪れたとき、ダビデは羊の番をしていて呼ばれることさえありませんでした。その上の七人の兄たちが「そうではない」と退けられて、初めて呼び出されたのが末っ子のダビデでした。そのダビデが王となり、主のために神殿を作ろうとしたとき、主はダビデのために永遠の王国を立てることを約束してくださいました。
それがここにある「イスラエルを治める者が出る」という約束の預言です。イエス・キリストはダビデの子孫としてこの世に来られます。もっとも弱いときに、もっとも小さな氏族から、もっとも偉大なお方が、もっとも堅く立つ王国の王としてお生まれになるのです。これがキリストの生まれる700年前の預言です。そして、本当にその通りになりました。イエス・キリストは、700年後にベツレヘムでお生まれになったのです。しかも、その時は皇帝アウグストゥスからの勅令で、ヨセフとマリアは住民登録をしなければならない状況でした。自分たちで計画したり、望んだ旅行ではありません。半ば強制的に、そうするしかなかったのですが、それさえも主の計画の一部でした。これから700年後のことを予言して、当てられる人や成就できる人は誰もいません。
この預言書を記したミカは、この教会におられる宣教師の名前ではありません。ミカには「だれが主のようであろうか(=だれも主のようではない)」という意味です。まさに、この主に並ぶ方はだれもいません。
偉大な神である主は、偉大な計画をお立てになり、実行し、成し遂げることのできる方です。しかも、どんな小さなところからでもおできになる方です。どんな弱いところからも栄光を現してくださる方です。
3. からし種のように
さて、最初の質問を覚えておられるでしょうか。あなたにとって「救いとは何か?」と聞かれたら、どのようにお答えになるでしょう。救いは天国行きの切符と言うのでは物足りません。死ぬのを待つ、あるいは死を待つことが恐くなくなるというだけでは十分ではありません。救いは、今救われることです。現在の状況がどうであれ、主によって救われるなら、生きる力が与えられます。それは以前主を知らなかったときには、決してできなかった生き方です。聖書には、イエス・キリストによって救われて立ち上がる人、目が見えるようになる人、耳が聞こえるようになる人、人に仕えることが喜びになる人、主を賛美するようになる人、人を赦すことができるようになる人、躍り上がって喜ぶ人がたくさん登場します。
彼らは、天国行きを待っていた人ではありません。救われ潤いが今の生活に現れ、救われた喜びで地上の生涯を歩みます。なぜなら、主なる神さまは、私たちが天国へ行けるように救ってくださるだけでなく、この地上においても救ってくださっているからです。礼拝や聖書やお祈りだけが霊的なことで、救いのしるしであるわけではありません。普段の私たちそれぞれの生活も、救いのしるしなのです。教会にいるときだけ、集会に出席し、奉仕し、学び、献金することだけがクリスチャン生活なのではありません!私たちの毎日がクリスチャン生活なのです。
私たちが勘違いしてはいけないのは、いわゆる教会っぽいことやクリスチャンっぽいことだけが尊いのではなく、この世で生きる時間すべてが尊いのです。もちろん、その中で苦難があり、困難があり、思わぬ事態や状況に陥ることもあります。自分の目に良いことばかり、自然と感謝できることばかり起こらないのが(通常の)人生です。そして、サタンの策略は私たちから喜びを奪おう、神を疑わせよう、信仰を無気力にさせよう、お祈りを無意味に思わせよう、聖書を読むのを面倒くさいと思わせようと必死になって働いています。そして、足をすくわれることもあるのですが、そんな私たちのために、主は「あなたの信仰がなくならないように祈りました」(ルカ22:32)と祈ってくださっています。あなたは、主イエスにとって祈る価値のある存在で、失いたくない存在です。そう祈られたペテロもその後すぐにイエスを三度知らないと裏切るのですが、それも前提にして主イエスは祈り、受け入れ、愛してくださっています。間違いや弱さを前提にした関係ほど強いものはありません。失敗や過ちを前提にした交わりほどあたたかいものはありません。私たちは麦のようにふるいにかけられ、試練にあい、疑問やあきらめを持つことがあります。しかし、からし種ほどの主への信仰があれば、主は励ましを与え続けてくださいます。その信仰を大きく育て、やがて人をも励ますことのできる者へと成長させてくださいます。私たちは偉大な方の計画に生かされています。勇気をもって踏み出しましょう。
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