聖書 ルカ7:11-17
1. 境界線
アドベント二週目を迎えています。私たちの人生はアドベンチャー=冒険です。ただ、必ずアドベントからクリスマスへ続くように、私たちの冒険と思える日々も必ずイエス・キリストにたどり着きます。12月となり、今年を振り返るような機会もあるかと思います。それぞれに課題や重荷、祈っていることがあるでしょう。中には出口の見えない道の最中かもしれません。今朝の聖書はそんな私たちにとって、唯一の希望を与えてくれる場面です。
主イエスは弟子や群衆とカぺナウムからナインという町(約37キロほど離れている)に行かれました。12節には場面が詳しく書いてあり、「イエスが町の門に近づかれ」たとき、ある葬儀の列に出くわしました。それはある母親の一人息子の葬儀でした。しかも彼女はやもめで夫にも先立たれていました。母一人子一人で身を粉にして宝のように育てて来たその息子が死んで担ぎ出されるという悲しみの葬列です。あえて「町の門」と書かれているのは、当時お墓は町の外にあったからです。死体や墓は汚れているとされていたので、町中ではなく町の外の丘のような見えやすい場所にまとまっていました。あるいは道端にある墓は「白く塗った墓」(マタイ23:27)と主イエスも言われたように、間違ってさわらないように白くする習慣がありました。そして、まさに門を通り町の外へ出て行く境界線が今朝の場面です。
この母親にとって、一人息子の死は最悪な事態ですが、そこで主イエスと出会います。また、いよいよ町の外に出る別れの時ですが、そのタイミングで主イエスは通りがかります。これは、私たちにも大事なしるしとなります。予想外の事が起こったとき、そこで主イエスは語られるかもしれない。「もう最悪!」と言うしかない状況で主イエスがそこを通られるかもしれない。「これで仕方ない」とあきらめかけたところで、その反対側から主イエスが歩いて来られるかもしれない。いえ、このみことばはそうだと言っています。みことばは、私たちを短絡的な考えや感情的な結論から救い出します。あなたを最悪の事態が囲んでいるかもしれませんが、ジーザスなしに突き進むことのないように一端ストップをかけます。ジーザスは絶妙なタイミングで、どんな最悪の状況にも来てくださいます。
町の門から外へ出ようとするその境界線で、主イエスは出会ってくださいました。もう葬ってしまったらやすやすと息子の顔が見えなくなる境界線で、主イエスは足を止めてくださいました。そして、主イエスはもう一つの境界線をここで超えてくださいました。それが「近寄って棺に触れられる」(14節)とある場面です。「死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる」(民19:16)とされていたらボーダーを超えてくださいました。誰も触れようとしなかった、誰も立ち入ろうとしなかった境界線を越えて、主イエスはあなたに近づいてくださいます。
2. 葬儀の列
そうして主イエスはまず母親に「泣かなくてもよい」と言われます。これは彼女の感情を否定したり、抑えつけて「泣くな」と言われたのではありません。むしろ、ラザロ(ヨハネ11章)の時には、主イエスも涙を流されました。涙は心の痛みです。痛いときに「痛い」と言うのは大切であり、健全です。主イエスはいっしょに涙も流してくださる方です。その主イエスがここでは「泣かなくてもよい」と言われました。それは彼女を見て「深くあわれみ」を抱かれてのことです。「泣き続けなくてもよい。涙をぬぐって見て欲しい」と母親を導かれたことばです。
すると、葬儀の列が止まりました。悲しみと涙の行列が、主イエスによって止められたのです。こんなことを誰もしません。なぜなら、人間は死に対して無力だからです。自分で自分の葬儀を止めたり、他人の葬儀を止めたりしません。ただ悲しみ、悼み、葬列に加わりついて行くことしかできません。しかし、主イエスはその前に立ちはだかり、葬列を止めることのできる唯一の方です。主イエスはあわれみを持って、この行為をなさいました。この「あわれむ」は、直訳では「内臓(はらわた)がよじれる」です。私は先日食べ物にあたり、夜中に嘔吐が止まりませんでした(失礼!)。そのときは内臓が勝手に伸縮して、自分では何もできません。主のあわれみも、事務的ではなく、そうせずにはおられない深い衝動に基づくものです。
葬列がそのまま進んで行くことを見過ごすことのできなかった主の熱い心です。母親が絶望と喪失感にさいなまれたまま、その後の人生を歩むのを良しとされない主の切実な願いです。そして、主イエスはあわれむ=気持ちだけ与えるのではなく、力・みわざ・行動を伴われます。棺に触れて「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。確認したいのは、これを死んだ息子に言ったことです。先に母親に言われた「泣かなくてもよい」は、当然彼女は聞くことができました。しかし、この「起きなさい」は死んでしまった息子に呼びかけています。しかも、間違いがないように「若者よ、あなたに言う」と宣言されています。この意味は、主イエスは死を前にしても力を発揮することができるということです。誰もが無力な死の前で、主イエスだけは権威を持って立つことのできる方なのです。
私たちが考えている主イエスの偉大さはどのくらいでしょうか。「主よ。あなたは聖書では色々なさったかもしれません。けれども、現実は違うでしょう?」「小テストくらいなら助けてくれるかもしれないけど、大きな試験では私だけで頑張らないといけないでしょう?」「道に迷った私を助けられても、人生に迷った私はどうしようもないでしょう?」「自分の身の回りのことは行き届いても、遠く離れる家族のことまで御手は届くのですか?」「神が愛であるなら、世界にはなぜ不幸があるの?」
このように主の偉大さを制限しているなら、今朝のみことばを通して、私たちの信仰を広げていただきませんか?死んでしまった息子にも届く力を、ことばを主イエスは持っておられます。私たちには手も足もでないような問題に、主イエスは立ち向かい、またそれを解決することができる方です。世界中の知恵や力をもってしてもかなわない「死」に対しても、よみがえらせることのできるのがイエス・キリストです。それほど主は偉大です。葬儀の列を止めた主イエスは、私たちの遭遇するどんな課題にも力を発揮してくださいます。
3. 恐れと賛美
これを見ていた人々の反応は「偉大な預言者が現れた」「神がご自分の民を顧みられた」と恐れを抱きつつ、神をあがめたとあります(16節)。もし、私の目の前で人が棺から生き返ったなら、びっくりして腰を抜かすか、何かわけが分からなくなってその場から逃げ去るか、本当に彼が生き返ったのか触ってみるなどするかもしれません。しかし、人々の目は主イエスに向きました。そこにおられるのがあまりに偉大な方であったからです。そこに現わされたしるし、力があまりにも素晴らしかったからです。見たことのない奇跡と不思議さとに圧倒され、ただ神をあがめ、賛美しました。
ここで主イエスのみわざを見た人々が「偉大な預言者が」「神が」と言っているのは、私たち人間は、すごいものを見たとき「すごい!」と言い、大きなものを見たとき「おおーー!」と感嘆するのと同じです。人々は確かに神を見たので「神が」と言い、偉大な方を見たので「偉大な預言者が」と言いました。目の前に猫がいて「あ、犬だ」と言う人はいませんよね。ここで、主イエスを見た人々がこぞって「偉大な神」と言ったのは同じ理由です。
今、教会の暦はアドベントを過ごしています。講壇前にも週ごとにろうそくが増えていき、今週は2本の灯がともされています。アドベントは、私たちがイエス・キリストを迎えるための備えをし、待ち望む期間です。私はこの時期が好きで、また大切にしたいと思っています。その理由は以下の出来事があったからでした。
私は神学校1年の時に、奉仕教会先で妻と出会いました。2年生で婚約をし、3年生には結婚をして家族寮で過ごしました。それは周囲の人たちが結婚と教会の働きが同時にスタートするのは大変だから、道が開かれているなら早く結婚した方がいいと配慮してくれたからでした。そうして、私たち夫婦は1年間神学校の家族寮に住んだ後、岩手県盛岡市に派遣されました。この福岡めぐみ教会を入江先生夫妻がされたように、ゼロから教会を開拓する働きでした。神学校を卒業したばかり、また初めての東北で何も分からないままのスタートでした。
開拓して数年後のクリスマスのことです。クリスマスの子ども会をするのですが、まだ教会員も少なかったのですべての準備を夫婦だけでしていました。長女が生まれて間もなくで、集中して取りかかれるのは夜になってからという日々でした。クリスマス会を翌日に控えた土曜に贈り物が届きました。妻のカナダに住む友人からの小包みでした。翌日の子ども会が終わるまでは忙しく、ゆっくり開けるために箱をそのままにしておきました。そして、翌日のクリスマス会には50名の子どもたちが来ました。借家の玄関には靴があふれ、部屋は熱気ムンムン。そしてその晩、カナダから贈られた箱を開けました。プレゼントといっしょにカードがありました。そこには「ロミちゃん。今年のクリスマス、盛岡の教会に50人が来るようにカナダから祈っています」とありました。もし、私たちが準備の時にそれを見ていたら、変なプレッシャーや来るわけがないと感じたかもしれません。しかし、主はカナダの一人の祈りを聞き、私たち夫婦にベストなタイミングでそれを分からせてくださいました。それは偉大な主のみわざです。まったく私たちの努力や願いの強さではないのです。この出来事は、私にとってアドベントの忘れられない思い出であり、主に期待すること、主は偉大な方であることを信じるきっかけとなりました。偉大な主は私たちの祈りを聞いてくださいます。偉大な主はあなたを祝福したいと願っておられます。偉大な主は生きておられます。この方を信じ、あがめ、ほめたたえましょう!
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