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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「初めのメッセージ」

更新日:2023年8月9日


聖書 マルコ1:15

今朝からは「福音」シリーズを開始します。説教には大きく二つのスタイルがあります。一つは先週まで学んでいたエペソ人への手紙のように、同じ書物を続けて読んでいくものです。これは講解説教(expository sermon)と呼ばれるもので、聖書本来の持つ趣旨を最もよく表現する方法、味わう方法として支持されるものです。一書を続けて読むスタイルです。もう一つは今回から取り組むような「テーマ(主題)説教」あるいは「シリーズ説教」です。たとえば受難週~イースターとかアドベント~クリスマス、結婚式や葬儀などがありますし、「祈り」「伝道」「人生」など焦点を絞るやり方があります。これは講解説教と違って、毎週聖書個所が変わります。どちらも神のことばを聴くことに変わりはありません。そして、礼拝では教会で聴く、神の民としてともに聴くことに意味がありますので、どちらの方法も有益です。今週からは次年度テーマである「福音」をシリーズにして礼拝で学んでまいります。今回はマルコ1:15ですが、次の説教個所は週報に掲載しますのでご参照ください。おそらく今後半年くらいは福音シリーズになるかと思います(毎週の説教計画のためにお祈りください)。「福音」は聖書全体を包んでいるテーマであり、救いの全体像としても過言ではありません。福音の内容=その輝き、多面性、深さ、広さ、素晴らしさを知ることは、救われて終わりではないクリスチャンライフのためにとても大切なことです。福音を平面、単色に見るのではなく、実に「水晶」(参考:出エジプト記28:19等では祭司のエポデに、黙示録4:6,21:20では天の御座に、22:1にはいのちの水の川のたとえとして登場)のように光り輝くまばゆさを知りたいと願います。


Ⅰ. 時が満ち

  1. 主イエスによるはじめ


今朝はイエスさまによる公生涯の第一声の場面です。ルカの福音書を見ると「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた・・・」(ルカ3:23)とあります。そして弟子たちと過ごされた祭りの数から約3年半を宣教の働きをされたことが聖書から分かります(ヨハネ2:13;23,4:45,5:1,6:4,7:2;10,13:1※こう記すとヨハネが祭り(過ぎ越しや仮庵等祭りに注意して記していることが伝わってきますね)。それでだいたいの知識として、イエスさまは30歳から3年間地上で主な働きをされたことがインプットされているクリスチャンの方も多いのではないでしょうか。

ルカが「ヨセフの子と考えられていた」とあるのは、その誕生が聖霊によるものであったので、人々がよくそのことを思いめぐらしていたことが分かります。生まれてから30歳までの間は「ヨセフの子」また「大工の子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか」(マルコ6:3)と普通の人間として過ごされていたこと証言があります。それまでで明らかになっているのは「十二歳」(ルカ2:42-)のとき、両親と一緒にエルサレム神殿へ行かれたことだけが記されています。ちなみに、それ以降マリアの言及はあっても、ヨセフには言及されていないので早くに他界したのではないかと言われてもいます。


こうしてイエスさまは三十歳まで家族と人とに仕え、大工として働いておられました。有名な荒野の40日間の誘惑、試みに勝利されただけでなく、その全生涯(聖書に記述されていない三十歳までの歩みも含めて)「この方は本当に神であった」(マタイ27:54)、「傷もなく汚れもない子羊のようなキリスト」(第一ペテロ1:19)、「キリストは罪を犯したことがなく」(2:22)、「罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」(へブル4:15)と証言されています。それは、罪のない聖い完全な人生を、生まれてから十字架にかかられるまで貫き通されたということです。それゆえ、この方は、私たち罪人の身代わりになることのできるお方です。


そうしてやってきた主イエスの第一声。それは「時が満ちた」です。それはイエスさまがそれまで大工として謙遜に仕えてきたところから公生涯を始める時であり、荒野での誘惑を退けられた時であり、イエスさまに先駆けて生まれ、道をまっすぐにするために活躍したバプテスマのヨハネが捕らえられて宣教のバトンを受け取る時であり、旧約聖書でダビデに向けて言われた「あなたの日が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる」(第二サムエル7:12)という預言の成就の時でした。ガラテヤ書でも「時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました」(ガラテヤ4:4)とあり、「時が満ちる」という書き方が聖書の随所になされていることに気づきます(他ではエペソ1:10。やがての完成の時を指す)。むなしくただ時間だけが過ぎゆくのではなく、明確な神の預言、神のご計画が成就していくところに「時」の意味があるのだと教えています。これは、私たちが日々生かされている時にも、意識することのできる時間感覚です。礼拝は神と過ごし、神にささげる時となり、奉仕は神のために使う時となり、家族や隣人との会話や交わりは神の愛を分かち合う時であり、仕事や学校、家事は神の栄光を現す時となるのです。明日〇時に起きるとは、そこから神とともに歩む新しいいのちの始まりを示す時となります。こうして主の御手で過ごすことは幸いです。


  2. 聖書全体のテーマである「神の国」


主イエスの宣教の開始の時。それは「神の国が近づいた」とのメッセージから始まります。イエスさまが告げ知らせたかったのは「神の国の到来」なのでした。これが第一声に言われたことには理由があります。イエスさまのもたらすもの=宣教とは「神の国」がテーマであるということです。イエスさまが教えられた目的も、人々を癒された目的も、さまざまなみわざも神の国の到来を告げ知らせ、人々を神の国へと招くためだからです。イエスさまのたとえ話で一番多いのは「神の国」「天の御国」で始まるものです。「種まきのたとえ」や「からし種」「パン種」「畑に隠された宝」「神の国の食卓」など多々あります。また人々とのやり取りでも「神の国」をキーワードにしてたびたび示されました。富める青年がイエスさまに「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と聞いた時、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」(マタイ19:16-24)と答えています。永遠のいのちを神の国と置き換えて答えています。それは子どもを抱き上げて「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」と言われ、「神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)とも言われています。端的に「イエスは町や村を巡って、神の国を説き、福音を宣べ伝えられた」(ルカ8:1)「イエスは苦しみを受けた後・・・神の国のことを語られた」(使徒1:3)ともあります。これらのことからイエスさまの宣教テーマは「神の国」であることが分かります。神の国、すなわち神のご支配(週報の1ページ目最下段)、神からの祝福、喜び、聖さというものがどれほど素晴らしいものなのか。そして主イエスが働かれることで、実際に神の国の支配と祝福が間近に来ていること、どんどん実現、成就していることを人々に分からせるためです。怪しい宗教の国、品行方正な道徳の国、相変わらず権力が幅をきかせる国、人によって差がある格差の国をイエスさまは決してもたらしておられません。


神のご計画は神の国の成就です。イエスさまが「時が満ち、神の国が近づいた」と(おそらく何度も)言われたのは、私たちが神の国に生きるようになるためです。神との交わりも教会生活も聖書を読むことも祈ることも、ささげ物も賛美も交わりもすべて「神の国」に生きている証しとして、外側に出ているものなのです。まずイエスさまの宣教テーマが「神の国」であることを覚えましょう。これが福音のはじめのメッセージです。そして、「神の国」をテーマにして聖書を読むと、色々と目が開かれていきます。イエスさまの教えやみわざ、約束が神の国に関わっていると知れるので、救いの全体像や聖書の全体像がつかめるようになります。キリストが天の御座を捨てて来られたのは神の国の到来の一部です。それが確かに実現したのですね。キリストの地上での数々のみわざは神の国の力がそこに現わされたしるしです。キリストが再び来られる(再臨)の約束も、神の国の完成の時であると確信することができます。それで、昨年取り替えた教会看板にも「神の国の祝福と喜びをあなたに」という文言を入れていただきました。「あなたの祝福、あなたの喜び」ではありません。「神の国の祝福と喜びをあなたに」というイメージです。なぜなら、神の国は神の民で構成されており、それはますます広がっていくものだからです。決して衰退し滅ぼされる、消滅するような国ではありません。この福岡めぐみ教会から、栄光の誉れが永遠に続く神の国へとつながっていくのだからです。決して滅ぼされない、永遠に堅く立つ神の国の成就。それに向かって、私たちの礼拝生活、宣教も位置づけられていくとき、それは大いなる喜びと意味に満ちたものとなっていきます。今、この礼拝で「聖霊による義と平和と喜び」(ローマ14:17)がもたらされているのも、神の国の実現です。そして、これが完成に向かって進んでいく。これが宣教の目的となりますね。それはイエスさまの第一声から今日まで、またこれからも変わらない目的です。


Ⅱ. 悔い改めて

  1. 方向転換


この「神の国」に入るために必要なこと。それはただ一つでした。「悔い改めなさい」と主イエスが言われています。「悔い改める」とは「方向転換をする」「方向を変える」という意味であると教えられてきました。私たちが何となく「悔い改め=後悔する、ざんげする、二度とやらないと反省して誓う」とは少しイメージが違いますね。

悔い改めとは方向転換をすること。私たち人間は、そのままの生き方では方向が違うというのです。どこから違うのでしょうか?それは神の国に向かうものではないということです。私たち人間は神の国に入るためには「自分の行い」を大事にします。それで神の国のたとえでも出てきた「富める青年」は「何をしたら、永遠のいのちを得ることができるでしょうか」とイエスさまに聞いています。彼はきっと聖書を読んでいたユダヤ人です(神の戒めを知っており、律法を守っていると言っているので)。聖書を読んで、そこに書かれている戒めを守っている人が「何をしたら永遠のいのちをいただけるのか」と聞いています。そしてその人に向かって「あなたの考えていることは間違っています。あなたが今向かっている方角では神の国に入ることはできません」と答えられました。人間は思い違い、考え違いをするのですね。どれだけ善行を積み重ねても、人間は神の国に入ることは決してできません。

また反対に、自分の善行の欠如は棚にあげて、より劣った人、罪深い人を見つけて、自分はギリギリ神の国に入れるだろうと考えることもあります。しかし、これも間違っていますね。他人をさばくその量りで自分も量られるからです(マタイ7:2,ローマ2:1)。人間の国であれば人間同士を比較していればそれで済むかもしれませんが、こと「神の国」は自分の行い、他者との比較が基準ではないのです。神の国はあなたの頑張りで入る資格が与えられたり、できなかったことで資格が奪われたりするものではありません。それで、まず私たちは救いが自分の行いに基づくという考えから「方向転換」する必要があります。まさに「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:13-14)と言われたとおり、イエスさまのくださる水によって生きるのだということを知らなければなりません。主イエスがくださる永遠のいのちの水を飲むまでは、私たちは決して神の国に入ることはできません。また渇いて別の水を飲むだけです。そして、各地を転々としながら決して満ちたりることのない旅をさすらうだけです。イエスさまに出会うまでは、イエスさまに従うまでは、私たちの考える道では方向が間違っているのです。


  2. 神さまの願い


イエスさまご自身が言われたこの「悔い改め」は、神さまがそのことを喜ばれる行為です。私たちが自分で頑張って善行をささげるよりもはるかに喜ばれます。それは次のようにあるとおりです。

「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです・・・一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」(ルカ15:7;10)。神さまが喜ばれるのがこの悔い改めという行為なのです。それをするとき、主は見てくださっています。また喜んでくださっています。なぜなら、救いに関して人間が自分ではなく、神さまに頼ることが唯一の道であり、そのために御子を送られたのだからです。私たちのために用意した唯一の救いの道が「悔い改める」ことだからです。まださばかれていないので、大丈夫。世界はちっとも変わってないと楽観視したり、先延ばしにすることがないように。毎週の礼拝と言いますが、明日のいのちも定かではありません。悔い改めはいつも緊急性を帯びています。ぜひ、今その決断をしていただきたいのです。


「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを送らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第一ペテロ3:9)


Ⅲ. 福音を信じる

  1. 恵みとして


悔い改めと並んで命じられているのは「福音を信じなさい」です。これがコインの表裏のように言い換えたものです。悔い改めは福音を信じること。その逆福音を信じるとは悔い改めることもまたしかりです。同じマルコの福音書の中でイエスさまご自身も「わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(8:35)とわたし(主イエス)と福音を並べて教えてもおられます。この「福音」という言葉に、イエスさまはご自身を込めるほど大事に、また内容あるものとして「福音」という言葉を教えて来られました。福音とはキリストのメッセージですね。


それは救いには程遠く、永遠のいのちをいただくのに何の資格もない私たちが、ただイエス・キリストを信じるだけで神の国に入れていただける。ただただ恵みのメッセージです。罪人の私が、どれだけ努力しても得られない永遠のいのちを、ただイエス・キリストを信じることによっていただけるという驚きのメッセージことです。それは、自分の行いで獲得しようとしていた間違った生き方、方向から転換をし、ただイエス・キリストに自分のたましいの救いをお委ねし、信頼するという人生変革のメッセージことです。この「福音」を主イエスから始まって、使徒たちは、弟子たちは、クリスチャンたちは、教会は二千年以上全世界、すべての民族にと宣べ伝えてきました。それは「福音は・・・すべての人に救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)です。福音を聞くと人は力が注がれ、福音が語られるとき教会は力を得、また福音を伝えるときその人は力が増し加えられます。福音は聞く者にも語る者にも力を与えてくれます。


神さまがあなたの行いにしたがってさばかないからです。けれども聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)とあります。これはいったいどういうことでしょうか。それでも、人はその行いに応じてさばきを受けるのではありません。人間がさばきを受けるのは、父なる神が救いを与えるために送って御子イエス・キリストを受け入れたか、拒んだのかでさばかれます。神は私たちの言動や罪の数、罪の大きさや重さでさばくことをなさいません。なぜなら、福音によればそのさばきはもう終わっているからです!それがイエス・キリストの十字架でした。イエスさまは、私たちの罪を背負って十字架にかかり、死んでくださったからです。罪の代価は支払い済みなのです。そして、私たちが地上の生涯を終えて主の前に出るとき、何を問われるのか。何をもってさばかれるのか。それは「あなたはイエス・キリストに対してどのような態度を取りましたか」ということです。御子を受け入れて持っているか、それとも拒んで持っていないのか。御子のうちにとどまっているのか、それとも御子から離れて歩んできたのか。そのことが問われ、それによってさばかれます。神さまがご覧になられるのは、私たちがキリストを着ているか、そうではないかだけです。


  2. 救いの知らせとして


私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、三日目によみがえり、天に昇られたイエス・キリスト。いったい今は何をされているのでしょうか。それは「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがお出来になります」(へブル7:25)とあるように、私たちの救いのためにとりなしておられます。罪人であるあなたと神との間に立って、子の救いを受け入れるように祈り、懇願しておられます。あなたの恥の罪をおおうために、ご自身の成し遂げられた救いの衣を着せようとしてくださっているのです。福音はちょっと人生が良くなる話ではありません。いい生き方をするためのアイデア、トリビアではありません。私たちの永遠の救いに関するいのちのメッセージ、救済のメッセージです。この福音にいのちをかける教会、クリスチャンでありたく願います。


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