聖書 ルカの福音書 5:33-39 |
1. 喜びのとき
「悔い改め」と聞くとどんなことをイメージしますか?悔い改めた人はどういう表情をしているでしょうか。神妙な顔つきをしているか、それとも朗らかに笑っているか。悔い改めた人は静かにうつむいている方が似合っている気がしますね。旧約聖書には次の記述があります。
「・・・心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ」(ヨエル2:12-13)。
これから想像するのは身も心も削って必死の形相で主に立ち返る姿です。今朝の場面では律法学者たちが自分たちや他の弟子たちは断食をするのに、主イエスとその弟子たちが断食をしないことが問題視されています。新約時代、律法学者やパリサイ人たちは年に数度(レビ16:29、ゼカリヤ8:19)と週に二度(ルカ18:12)の断食をしていました。こうしたことを心から行ったり、隠れた部屋で行うことは主が受け入れてくださることですが、実際は違った目的があったようです。それで主イエスは「断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい」(マタイ6:17)と言われました。断食していることが人々に分からないようにしなさい、との意図からです。
このように律法を守り行うことは、時にその人の誇りとなり、時にそれをしていない人との間に垣根・壁を作りさばくようになります。今朝の場面は、主イエスと弟子たちがレビの家で楽しそうに飲み食いしているときに起きました。学者たちは、自分たちは苦しい思いをしているのに主イエスたちは何で断食もしないで、しかも罪人の招待する会で飲み食いしてのだと詰め寄っています。これは「悔い改め」に対するイメージが違うから生じた問題と言えます。断食をして苦行と誇りに満ちた人たちと主イエスと楽しそうに食事をしている人たちがいます。
今日のタイトルは「喜びの変化」です。「悔い改め」は人生における明確な「変化」です。断食をしていてもずっと同じように苦しい表情をし、考えも変わることがなければ、それは変化とは言いません。逆に、この直前に出て来るレビのように収税所に座って自分のお金を貯め込んでいた者が主イエスのために盛大なもてなしをするのは大きな変化です。実は、レビこそ悔い改めた人です。悔い改めとは神妙な顔つきになることではなく、主イエスと出会うことだからです。悔い改めとは断食を達成することでもなく、イエスを主とすることだからです。それまで自分や人生、趣味や仕事、家庭や経済や健康に向いていた矢印が、主イエスに向かうことだからです。レビは主イエスと明確に出会ったからこそ、悔い改めが起こりました。彼の人生に思ってもみなかった変化が起こりました。この後レビはマタイの福音書を記し、主イエスの証言者となる人生へと変えられました。
主イエスはこの変化を「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにはできますか」(5:34)とたとえを用いて話されます。結婚披露宴で出された食事を食べないのは失礼で。そのような人がいたら場が冷めますし、新郎新婦への侮辱行為(いっしょにお祝いするつもりはない!)と受け取られかねません。それゆえ、結婚の宴会では心からともに喜び、祝い、食べるのですね。同じように、主イエスとともにいることは喜び祝うときです。
断食や苦行、自分で自分の身をきよめる行為、滝に打たれたり、瞑想しても罪責感はぬぐえません。誰も完ぺきに償うことや罪や誘惑に完全勝利することはできないからです。そうして自分の罪の重さや罪の性質、罪からの解放に無力であることに気づかされ、悩むとき、主イエスとの出会いが訪れます。主イエスは「罪人を招き、悔い改めさせるために」(5:32)来られたのだからです。
悔い改めとは、自分の力で何とかしようとするところから、主イエスの力により頼むようになることです。自分のしがみついていた、変わらない、変えられない椅子から立ち上がり、ただイエスを主として歩むことです。この出会いから生活への変化が現れてきます。逆ではありません。あなたが変われば、イエスが主であることが分かるのではなく、イエスを主とするとあなたに明確な変化が起きます。悔い改めと本当の喜びを味わっていますか?
2. 新しいぶどう酒
友人たちにとって花婿が来ることが喜びの原因であるのに続けて、悔い改めた後の新しい人生がどのようなものであるかをたとえで話されています。新しい着物と新しいぶどう酒の二つのたとえがありますが、主旨は同じですので、今朝は新しいぶどう酒から学びましょう。
主イエスと出会い、悔い改めた人は初めに外側ではなく内側が変えられるのだと教えています。たとえば出来立ての辛い麻婆豆腐を食べるのを想像してください。まず熱い豆腐を口をホフホフさせて食べ、それがお腹に入ると胃が燃えるようになります。次に辛さを抑えるために水を飲みます。これが逆で、「いただきます」をした途端、口をホフホフさせ辛いと言って水を飲んでから、麻婆豆腐を食べたらおかしい(恐怖)です。
私たちが福音に生き始めるのも同じです。まず主が私たちの内側に住んでくださいます。最初に内側、それから外側です。誰もそのままで霊的になる人、ほっといたら聖書的になる人はいません!私たちはほったらかしにしていればどんんどん自己中心、嫌味ったらしく、罪深い人間になっていきます。人は「その心に図ることがみな、いつも悪に傾く(創世記6:5)性質を持っているからです。それでまず、内側から変えられる必要があります。
「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」(コロサイ3:16)とあるように、私たちは内側にみことばをたくわえ、豊かに住まわせます。仮住まいではありません。主として迎えるのです。新しいぶどう酒の特徴は発酵です。どんどん膨らんでいくので、それを入れる皮袋が大切です。キリストのことばは内側で燃えています。今にも領域を広げようと発酵しています。そんな新鮮なぶどう酒の働きがあるので、私たちはどんどん信仰によって歩むように導かれていきます。
聖書を開くとき、「神さま、まず一度語ってみてください。それから従うかどうか、信じるかどうか決めます」という態度では臨んではなりません。それは外側から内側に何を入れるか決めることだからです。もし、キリストのことばを豊かに住まわせると、内側から力がわき、賛美が生まれ、祈れるようになります。それを入れない生活、人間とは大きな違いが生まれます。内側から突いてくるみことばがなければ、困ったことがあれば困り、人をたより、絶望するだけです。しかし、みことばを豊かに住まわせているならば、神のみこころを探り、よく祈れるようになり、衝動よりも静まりを覚え、そうした中で御声を聞き、示されたところに従って再び歩み出すことができます。問題によって振り回されたり、棒に振らない人生があるのです。それがキリストのことばを豊かに住まわせて、信仰によって結びつけていく人です。
3. 新しい革袋
キリストのことばは励ましや慰めを与えてくれますが、それだけではありません。みことばは私たちを造り変えます。有名な個所で「聖書はすべて・・・教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」(第二テモテ3:16)とある通りです。教えられることがなければ、私たちは変われません。矯正されないと悪習慣を断ち切ることができません。訓練を重ねて初めて神の声に聞き従うことができるようになります。
世には惑わしがたくさんあります。自分にも頑なな面や「ま、いっか」と大事なことも流してしまう怠惰な面があります。「自分は大丈夫、正しいところにいるし、よい判断をして非難される筋合いもない」と決めて動かないときもあります。でも、これこそ惑わされているしるしです。みことば中心になっていないので、正しくないところにいても教えられることを拒んでしまいます。
元来、人はアドバイスされることを好みません。自分の目で見たこと、感じたこと、考えたこと、決断したことを正しいと思いたいし、人にはそれを支持してほしいと願います。ちょっとでも「それ、違うから」と言われると落ち込んだり、憤慨したり、無視したりします。みことばはそんな私たちを造り変えるために働きます。当然、そのときには摩擦や抵抗を感じます。
しかし、その痛みや摩擦こそ造り変えられるのに必要な過程です。内側からみことばが響き、外側をそれにふさわしく変えてくれます。最初から完璧な皮袋であるわけではありません。徐々に造り変えられていくのです。配達の人に飲みかけのお茶をあげる人はいません。新品のできれば冷えたお茶をあげるのが礼儀です。主に対してはどうでしょうか。古いままの自分を差し出そうとはしていないでしょうか。そんな思い違いを、礼拝や交わりを通して、また自分で聖書を読むことを通して造り変えられてまいりましょう。キリストのことばを根拠にして立ち上がりましょう。今やろうとしていることは聖書的か。キリストのことばが叫んでいることか。神が喜ばれることか。ジーザスに対して口にすることのできる言葉なのか。キリストに対しても同じような態度をとるのか。
内側から神の招きが聞こえますか。もしそう導かれているなら、主の声を聞きましょう。もし、反対に否定の思いが出ているならそれもかき消さず戦ってください。悩んでください。自分の今の思いが本当に祝福される道を選び取ろうとしているのかと自問してください。そして、分からなかったら、主に聞いてください。人に言わなくてもいいから主に求めてください。主が答えてくださいます。そして、その答えが聞こえたとき、従順に従いましょう。私たちがいつも新しいぶどう酒を入れるために造り変えられる喜びを味わいましょう。
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