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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「基礎 foundation」

聖書 ルカの福音書 6章43-49節


1. みことばを聞いて・・・


今日は平地の説教の締めくくりです。実は山上の説教(マタイ5-7章)も同じ岩の上に家を建てる話しで締めくくられています。この話で長いメッセージを閉じるが主イエスの意図だと分かります。こでは「わたしのことばを聞いて行う人」と「聞いても行わない人」が対比されています。ポイントはみことばを聞くか、聞かないかではなく、みことばを行うか、行わないかです。聞いて安心していてはいけないよ、という警告が締めくくりです。

みことば(メッセージ)は聞いてからが勝負です(例:種まきのたとえ)。新約聖書の他の個所でも「みことばを聞いても行わな人がいるなら、その人は生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです」(ヤコブ1:23)と言及されていて、みことばを行うことは大事なテーマです。出典は定かではありませんが「鏡は先に笑わない」という名言があります。みことばを聞くだけの人はそのままじーっと鏡で自分の顔を見ている人と同じです。その真意は「何も変わらない」です。どれだけ鏡を見続けても何の変化も起こらないように、どれだけみことばに接しても、覚えていても、行わなければ何も変わりません。しかし、みことばを聞いて行う人は、その鏡に生まれつきの自分ではない顔が映し出されます。聖書は信仰による救いを教えていますが、同時に信仰によって働く行いも強調します。救われた者は変化が行動に出ざるを得なくなるからです。

山の上にある町のように、隠れることなく福音の光を輝かせるようになります(例:本日の招詞「主を仰ぎ見ると彼らは輝いた」(詩篇34:5)。

43-45節から見てまいりましょう。「良い木、悪い木」が「良い人、悪い人」に類比されています。聖書がはっきりと「良い人、悪い人」と告げているのに着目しなければいけません。これは主の目ははっきりこのように見ておられるという意味ですね。私たち人間は(自分のことを)大目に見てくれる甘い神さまを求めますが、すべてのさばき主である神さまが正しいことと悪いこととを見分けられないようでは困ります。善悪を判断できずにあいまいな態度であったり、きっぱりさばかずにためらっている方ならば、その方を主と呼ぶのには問題があるのです。

ではここで「良い人、悪い人」と言われているのは、どんな人のことでしょうか。私たち人間はうわべを見ますから良さそうな人とか、善を積極的に行っている人を良い人、ニュース動画や新聞に事件を取り上げられるような人を悪い人と見がちです。しかし、聖書には神の判断基準が書いてあります。それは私たちが自分や周囲の人を基準にするのではなく、絶対的権威者である神を基準に見つめ直す必要があるからです。神を基準にしないと私たちは間違った基準に沿って生きることになります。基準があいまいなので、自分の本当のみにくさ、汚さと向き合わず、それを上手にカバーして生きようとします。

神のみことばは、ここに鋭いメスを当ててきます。先週も学んだように、私たちは誰かと比べて自分は義人、この人より自分はマシ、あの人と比べられたらかなわないなどと常に周り(や人間)を基準にして生きています。そうすると、罪の問題がうやむやになるので、イエス・キリストが与える救いの必要性がちっとも分かりません。自分は正しい、大丈夫だと思っている人が「救われたいのです」「助けてください」とは言いませんよね。しかし、自分で善悪の基準を決めて生きるのが当然だと思っているのが人間です。神を基準にすることから逃げ続けているのが人間です。「あなたよりも神の方が正しい」と言われることに抵抗や不満を覚えるのです。それは神を基準にして生きたくなんかない、という反逆の姿勢の現れです。

神を基準にしないことが罪の本質です。ここをぼやかした生き方もできますが、この罪の問題を解決しておかないと漠然とした不安に一生涯追いかけられます。自分が生きたいように生きても、空しさに襲われます。なぜなら、本来神にあって造られたのに、そこから逃げて人生を築き上げようとしているからでえす。また、私たちがここでの良い人、悪い人をどれだけ善と悪をしたかで判断するなら、大事な福音のメッセージを取り逃しています。神は私たちの成功や失敗を数えているのではなく、神ご自身との交わりに生きることを切に願っておられるからです。その根本があってこその良い木、良い人なのです。そして、45節には「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し・・・」とあります。私たちは、基準を神に置くときに、心の奥底から造り変えられるということで。根から植え変えられた新しい木です。それによって新しい良い実を結べるようになるのです。それまではねたみ、うらみ、嫌味しか出てこなかった私たちの心が主を賛美する者に変えられます。自分を基準に置いて王のように威張っていた性分が改革され、悔い改めや感謝ができるようになります。もともとは切り倒されて当然、火の中に投げ入れられて当然の私たちが、キリストによって救われるのは、100%恵みでしかありません。


2. 洪水


46‐49節は神を基準にして生きる人が口や言葉だけでなく、どのようにして生きるのかが描かれています。ここにはみことばを聞いて行う人と、みことばを聞いたけれど行わない人とが並んでいます。みことばを聞いて行う人は「地面を深く掘り下げる」人です。これは「掘る+深くする」という二つの動詞が使われていて、大きな強調がなされている部分です。ちょっと掘る、スコップ使うのが得意というようなレベルではなく、一心不乱に掘り続ける姿勢です。そうして突き当たった堅い岩盤の上に家を建てます。反対に、聞いても行わない人は「土台なしで地面に」家を建てます。「地面を深く掘り下げ」が丸ごとすっぽり抜け落ちています。

私はここを読むと、主イエスのユーモアに感嘆します。それは岩の上よりも地面(マタイでは砂の上)に家を建てる方が難しいのではないかと考えるからです。土台がなければグラグラします。またそんな家に招待されても怖くて敷居を跨ごうとはしないでしょう。けれども、この人は地面にスッと家を建てました。それはすごい技術、テクニックだなあと思うのです。そして、私たちはこうした手軽なテクニック、簡単にできる方法を知りたがるし、すぐに飛びついてやってみる傾向があります。それはまさにみことばを聞いて行わない人そのものです。

普段の見栄えは変わりません。けれども、土台があるかないか明らかになるのは「洪水」のときです。川の水が押し寄せてもびくともしない家か、すぐに倒れてひどい壊れ方をする家かに分けられます。洪水によって建てた家がどうであったのか、はっきり結果が出ます。

聖書で初めの「洪水」はノアの箱舟のときでした。彼らが救われた時、主は「大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない」(創世記9:11)と約束されました。また主イエスはノアの洪水のように、余の終わりの日には再びこの地上に来られると宣言されました。洪水の意味は各自の人生にある試練や困難ではなく、終わりの日のしるしです。それに耐えうる家を建てるのが、私たちが人生でしておかなければならない仕事なのです。みことばを聞いて行う=掘り下げるのかと聞かれています。


3. 人生の岩


では、終わりの日にも残る土台の上に家を築く=人生を送るためにはどうしたらよいでしょうか。それは岩なるキリストと接点を持つことです。キリストとの接点がなければ、いつまで経っても土台のない家を建て続けて空しさと焦りと徒労感がつのるばかりです。見てくれはよくできていても、確信のない人生を送ることになります。

では、キリストとの接点を見つけるためにはどうしたらよいでしょうか。先ほどの賢い人は「地面を深く掘り下げて」土台を見つけて家を建てました。同じように、私たちは深く掘り下げて、キリストとの接点を見出します。すぐに「一日10分で〇〇になる」「わずかな投資で数年後には〇〇になる」「寝ている間に・・・」といった誘い文句になびく私たちにとって、これは相当なチャレンジです。向かう方向が違うからです。上ではなく下へ、見てくれではなく心の部分に取りかかるからです。

キリストとの接点は、私たちが自分を深く掘り下げ、主の前で裸(=正直)になるところで見つかるのではないでしょうか。現代は何をするにも「パスワード」が求められます。いちいち設定するのも面倒ですし、それを思い出すのはもっと面倒です。けれども、自分しか知らないパスワードを使うことで、特別なサービスや情報にアクセスしたり、財産を守ることができます。そうしなければ自分の財産や名誉、命が危ない目にあうこともあります。

キリストに出会うためにも、パスワードが必要です。本来の自分でないような自分であろうと無理をしたり、本性を隠す仮面をしていたら、キリストとの接点は見つかりません。しかし、「本当の自分はこうなんだけれど」「人には見せられない顔がある」「誰にも知られたくない秘密や過去、課題がある」と正直になるとき、それがキリストとの接点(=パスワード)となります。日頃の自分とかけ離れた姿、使ったこともない言葉が必要であると考えているなら、キリストに近づくためにこれらはまったく必要ではありません。そうではなく、自分が裸になってこそ、キリストとの接点は見つかります。そこまで深く掘り下げて、キリストに行き当たるのです。そして、キリストこそ「岩」です。それはどんな洪水によっても押し流されることのない岩です。この岩なるキリストの上に建て上げる人生は終わりの日まで揺らぐことのない価値ある人生です。

このルカの福音書の救いのテーマは「失われた人の回復」です。いなくなった羊やなくした銀貨、放蕩息子の話しです。私たちの命も人生もそれ自体尊いものですが、神が求めておられるのは、羊飼いから離れて迷う羊、主人の手元にない銀貨、親元を離れてボロボロに果てていく息子のような人生ではありません。神は日々主といっしょにいて交わりを持ち、関係を深めていく人生を願っておられます。仮面を外し、巣の自分を掘り下げてキリストにある人生を築き始めようではありませんか。


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