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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「失望に終わらない希望」


聖書 ローマ10章8-11節

はじめに

本日はイースター礼拝です。

ご存じのように、私たちの教会の屋根には十字架が掲げられています。どんな十字架でしょうか?夜になると赤い光を放ちます。そして、イエス・キリストがはりつけにされていない十字架です。伝統的なカトリック教会や聖公会などでは、十字架とはりつけになったイエス・キリストが掲げられています。


これらのことから、それぞれに強調点の違いがあることが分かります。イエス・キリストがはりつけにされた十字架は罪の苦しみや身代わりの死を強調します。また、人々がそれを見て自らも償いに励むように導きます。十字架のみの場合は、イエス・キリストが復活されたことを強調します。


弟子たちは十字架につけられるイエス・キリストから逃げたり、遠くから眺めたりしていました。十字架の目撃者ではありましたが、主の証人ではありませんでした。十字架につけられ、死んで葬られた後、弟子たちは家の扉の鍵を閉め、部屋に固まってました。人々に見つかることを恐れたからです。自分たちもイエス・キリストのように捕らえられ、もしかしたら十字架につけられてしまうのではないかと恐れていました。


そんな弟子たちが一変したのは、イエス・キリストが復活されたからです。弟子たちはよみがえりのイエス・キリストと出会って変えられました。恐れていたのに敢になり、閉じられた部屋にいたのに外へ出て行くようになり、捕らえられても誇りと喜びに支配されるようになりました。


そのくらい、イエス・キリストの復活はインパクトのある出来事であり、信仰を始めさせ、確信を与えるものだということです。


今朝のイースター礼拝、私たち一人ひとりが復活のイエス・キリストと出会い、内側から変えられていくよう期待してささげましょう。


【口】告白する

今朝はローマ人への手紙10章からです。この短い箇所の中に、私たちの信仰の土台と内容がまとめられています。いったい私たちは何を信じているのか、どうして信じられるのかということです。


私たちの属する九州宣教区には11教会と1伝道所があり、全体で見ると日本同盟基督教団には265余の教会があります。また、このほかにも皆さんが初めて導かれた教会や洗礼を受けた教会、旅行先で訪れた教会、またこの福岡めぐみ教会に宣教師を派遣してくれている教会があると思います。


これらすべての教会に共通しているものとは何でしょう。

建物はそれぞれ違いますね。人数の規模や礼拝スタイルも違うでしょうし、牧師がいない教会もあります。靴のまま会堂に入ったり、ベンチ椅子があったり、地下にあったり、テナントだったり、ギターやパイプオルガン、アカペラなどそれぞれの教会で違うことはたくさんあります。しかし、一つだけ共通するものがあります。それがなければ教会ということができないもの。いったい、それは何でしょうか。


答えは、教会が「イエス・キリストは主です」と告白していることです。


礼拝の場所、時間、曜日、スタイルは違ったとしても、すべての教会は「イエスを主と告白」(ローマ10:9)する集まりだということだけは貫かれています。実は「告白する」とは「同じことを言う(ホモロゲオー)」という意味の言葉でできています。信じるのは各個人であり、ほかの人のかわりに信じてあげるとか、2人分の信仰を持つということはできません。私たちはそれぞれの口(手話)で、信仰を告白します。それをもっとも端的に表すのが「イエスは主」という告白です。


さらに、聖書をたどっていくと分かるように、信仰は神の民、共同体、教会という交わりに重きが置かれています。個人主義とは真逆ですね。新約聖書の手紙も多くは教会=共同体に宛てられたものです。確かにテモテやピレモンなど個人宛ての手紙もありますが、あくまで彼らも教会という共同体の中に生きる一個人として扱われています。


めいめいが好きなことや勝手なことを信仰の土台にしていると成り立たないので、「告白=同じことを言う」ことが大切になります。趣味や服装や思想は違ってもいいけれど、信仰は同じことを告白する必要があります。「あの人、何を考えているのか分からない。不気味だ」と感じることがあるかもしれません。同じように教会で「あの人は何を信じているのか分からない。不気味だ」ということがなく同じことを信じていると確かめることができるのが「告白」です。


今朝の箇所で「口」に関することをまとめてみましょう。みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり」(10:8)、「もしあなたの口でイエスを主と告白し」(10:9)、「人は・・・口で告白して救われるのです」(10:10)とあり、また「口に関すること」では「信仰のことば」(10:8)、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(10:13)、「キリストについてのことば」(10:17)とあります。こうしてみると、「口」は「告白」、「ことば」、「救われる」ことに非常に重要な役割を果たしていると分かります。


私たちに共通し、また私たちを一つにならしめているのは「口」です。それは「口」による「ことば」の「告白」によって私たちが「救われる」からです。このことは今ここにいる私たち、そして九州宣教区や同盟の教会、また各自のルーツの教会や海外の教会とも共通しています。さらには歴史上の教会とも共通しています。告白を共通のものとすることは、私たちが個人の心情や好みによらず、共同体や歴史の中で粘り強く信仰を育む体質を作ってくれます。そうでないと、自分に気に入らないことがあったり、熱量を失うと、教会や牧師、他人や制度の問題にして、信仰を捨ててしまいます。

2. 【心】救われる

ただし、口(手話)だけでは単に言う(表す)ことができてしまうというかもしれません。それでセットになっているのが「心」です。「口」だけでなく「心」がともにあることが大切です。


また卑近な例を紹介しますが、先週わが家でこんなことが起こりました。私が食器を戻そうとしたとき、普段開いていない最下段の引き出しが飛び出ていたので、そこにすねを打ちつけました。思わず「痛っ」と声が出て、持っていた器を落としてしまいました。そばにいた妻がすかさず「大丈夫?血出てない?」と聞いてくれたのですが、パッと横目で見ると、妻は何とまず器が欠けていないか入念にチェックしていて、私のことはまったく見ていませんでした。それがわかって二人で大笑いをしました。これは口と心がともなっていない笑い話です。


「心」に関するみことばをまとめてみましょう。「みことばは、あなたの近くにあり・・・あなたの心にある」(10:8)、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら」(10:9)、「人は心で信じて義と認められ」(10:10)とあります。「心」は「信じる」、「義と認められ」ることとつながりがあります。ただし、心で信じるときに大事なのは、その強さや頻度や長さではなく信じることの「内容」が大事だと分かります。「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら」(10:9)はイースターそのものですね。


冒頭の十字架の話を思い出してください。この教会の屋根や正面の壁にある十字架。そこにイエス・キリストはおられません。よみがえられたからです。私たちが十字架を仰ぐたびに確認することは、次の二つのことです。一つは、イエス・キリストが私たちの罪を背負って身代わりに死んでくださったこと。もう一つは、イエス・キリストはよみがえられたことです。十字架と復活を必ずセットにして思い起こすのです。


これはイエス・キリストご自身が言っておられることと同じです。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」(マルコ9:31)。


福音書にはこれに似たことばが何度も出てくるので、イエス・キリストは繰り返し弟子たちに向かって殺されることとよみがえることとを教えておられたことが分かります。それは、十字架の死と復活がペアだからです。それが「何を信じるのか」という信仰の内容(中身)です。


私たちが救われるには、救いに必要な知識と救いの知識を得る正しい方法がなければなりません。まず「救いに必要な知識」の十字架の知識と復活の知識についてみてみましょう。十字架の知識とは、私たちが罪人であり、罪の報いを受けなければいけないことです。また、私たちの身代わりとしてイエス・キリストが十字架につけられたことです。復活の知識とは、罪の代価が支払われ、完済したことです。


こうした知識を知っておくことは、何を信じるのかと考えたり、聞かれたりするときに大変有効です。たとえ信仰がグラついても、くり返しこの知識を思い起こしましょう。偉大な信仰者ほどそうしていたようです。かのルターも死ぬ間際まで死を恐れ、同時にキリストのみわざにすがり続けました。


また、知識と同時に救いを得る正しい方法が大切です。救いに関する知識だけあっても、救いを得る方法が一つもなければ希望がありません。また間違った方法を教えられても救いがありません。


今朝の聖書箇所が教えている救いを得る正しい方法とは「信じる」ことです。「心」で「信じる」のはイエス・キリストの復活です。復活の出来事の上に、私たちの信仰を置くのです(イラストを見てください)。


私たちは「信じる」のは「今年の運動会は白組が勝つことを信じる」とか「あなたは絶対やってくれると信じてた」と将来に対して使います。それだと信じる強さが意識されます。しかし、救いの方法は、過去の出来事を信じることです。私たちの信仰の上に復活や救いがあるのではなく、復活の出来事の上に信仰があるのです。これこそ私たちが救いを受け取る(聖書がそう教えている)正しい方法であり、私たちが救いを確信でき、賛美する理由です。


3. 失望しない、させない

結びは11節をご覧ください。

「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、

だれも失望させられることがない。』」(10:11)


聖書の中に「聖書はこう言っています」とあるのはとても面白いですよね。今朝開いているのは新約聖書で、ここで「聖書」と指して言っているのは旧約聖書(イザヤ28:16)になります(ちなみに第一テモテ5:18は他の新約聖書の箇所を「聖書」と引用しています)。聖書は互いに神のことばとしての真実性を保証し合っていることが分かり、頼もしくなります。


「聖書は言っている」とは、神ご自身が言っておられるという意味です。そして、その神が「この方(=イエス・キリストの)に信頼する者は、だれも失望させられることがない」と約束しておられます。神による約束なので、必ずそうなるという断言として受け止めてよいものです。ローマ9:33でも同様のみことばが引用されているので、たちにつかんでほしいポイントだということが分かります。


日本語訳では「失望させられることがない」、欄外で「恥を見ることがない」。英語でも「shall not be shamed(恥を見ることがない)」、あるいは「will not be disappointed(がっかりさせられることがない)」。

私たちの救いについて述べている箇所で「失望させられることがない」、「恥を見ることがない」、「がっかりさせられることがない」と並ぶのは少し意外な気がします。「あなたの期待を裏切りません」とか「買ってよかったをあなたに」のような映画や通販番組の宣伝のような感じがします。


けれども、ここでは神ご自身が私たちの救いについて語られる中で「失望させられることがない」とはっきり告げられました。実は、私たちの最大の敵のひとつは「失望」です。失望は私たちの意志を奪い、心を折り、生きることさえも無意味に感じさせる強敵です。


失望させることがどれほど人間にダメージを与えるのか、こんな実話があります。ある国にスパイとして入った人が捕らえられました。スパイは主人に忠実ですから、どんな拷問を受けても口を割りません。厳しい拷問を加えれば加えるほど、心は強固になっていきました。それで看守は降参したフリをして、「もう私たちも疲れたから、あと10日でお前が話さなかったら釈放してやる」と約束をしました。スパイはその10日間を指折り数えて最後まで拷問に耐えました。そして10日後、その看守は「あの約束は嘘だ。お前をこれからもっとひどい目にあわせる」と言ってさらに苦しめました。スパイは失望し、もう拷問に耐えることができなくなったそうです。

人は失望すると、再び立ち上がることができません。そのスパイが体力の限界ではなく、気力の限界によってミッションから脱落したように、私たちも失望してしまうと最後までやり遂げることができずに倒れてしまいます。


倒れないためには希望が必要です。失望に終わらない希望が必要であり、人生のすべてを賭けても報われる喜びが必要です。神は失望させられない希望を私たちの目の前に置いてくださいました。それが「イエス・キリストは主です」と告白する人生です。


どんなことが起こっても「口でイエスを主」と告白する者は、失望させられることがありません。これはとてつもない人生の秘訣です。絶対に打ちひしがれない生き方がここにはあるからです。どんなに先行きが不安でも「心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」者は、地上の生涯の死を迎えてもなお、失望しません。なぜなら、それを圧倒的に凌駕する希望があるからです。私たちの信仰生活であり、礼拝であり、賛美は、神がイエスを死者の中からよみがえらせた、復活の出来事の上に立っています。罪の赦しと復活による新しいいのちは、口で告白し、心で信じる者すべてに与えられます。この福音を聞いた者として、神の前に決断いたしましょう。そして、失望させられないまったく新しい人生を始めましょう。


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