「存在と役割」
- 大塚 史明 牧師

- 1月25日
- 読了時間: 10分
ルカの福音書10章38-42節
続けて育つ関係
今朝はマルタとマリアという姉妹の家での出来事です。彼女たちがイエスさまを自分たちの家に招いたところから場面は始まります。「イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた」(38節)とありますから、マルタが主導権を持ってイエスさまを迎えたのだと知ることができます。そうして始まった姉妹たちの家での交流でしたが、だんだんと雲行きが怪しくなります。マルタはいろいろと給仕に忙しくしていましたが、妹のマリアはイエスさまの足下で話を聞くだけで(おそらく)まったく手伝いをしませんでした。それを見て、イライラが募ったマルタはついに言ってしまいます。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」(40節)。
あろうことか、マルタはイエスさまに対して文句を言いました。自分がイエスさまをもてなしたくて招いたにもかかわらず、マリアが「私だけにもてなしをさせている」と責任転嫁しています。また、お客として以上に「主」として招いたイエスさまに対し、無関心にもほどがある!と怒りをぶつけています。するとイエスさまは、マリアを叱るどころかマリアを褒め、マリアの行動を認める返事をされた、というのがここでの一連の流れです。
私たちには、言われて忘れることのできない言葉があるのではないでしょうか。私は、神学生時代の研修として、タイに遣わされている日本人宣教師の家族にお世話になりました。その時、費用をケチって旅行保険に加入しないでタイへ入国しました。初日の研修で「はい、旅行保険証を出してください」と言われた時、私は「入ってきませんでした」と答えました。すると、その宣教師夫妻は烈火のごとく怒ってこう言いました。「あなたは、何をしにこちらに来ているの? 保険がなければ私たちはあなたに何をさせることもできません!」。次第に、自分がどんなに軽率で愚かなことをしたのかが分かって来て、ついに一度日本へ帰り、保険に入ってから再度タイへ入国することになりました。これは大きな学びでした。しかも、その旅行保険は、研修の最終二日間で実際に使う事態となり、神さまの訓練とあわれみを経験しました。ただ、今でもそう言われたときの表情、言葉は忘れられません。
マルタにとっても「マルタ、マルタ・・・あなたは心を乱しています・・・必要なことは一つだけ・・・マリアはその良いほうを選びました」とイエスさまに言われたことは、生涯忘れ得ない経験になったことでしょう。自分は頑張って仕えていたのに、なんで何もしないマリアが褒められるのかという悔しさが、思い返すたびに沸々と湧いてきたかもしれません。しかし、この出来事から随分経って、再びマルタは給仕していました(ヨハネ12:2)。それは、このときイエスさまに言われたことが単なる悔しさや傷ではなく、自分を新生させる言葉となり、彼女自身を支え、動かすものとなったからです。
皆さんは、どう思いますか? 自分をマルタに置き換えて考えてみてください。一生懸命仕えていたのに、イエスさまはそんな自分を認めたり、守ることもしないどころか、何もしていなかったマリアを褒めたのです。そんなことを言われたり、されたりしたら、もうイエスさまとは絶交、関りを持ちたくない!と思うのではないでしょうか。「イエスさま、そんなことをおっしゃるのですね。私の味方をしてくれると思っていましたが、失望しました」とすねても不思議ではありません。マルタはキツイことを言われたのです。しかし、マルタはイエスさまとの関係をここで終わりにはしませんでした。その証拠に、時間的にはこの出来事よりも後になるヨハネの福音書11章、12章で、マルタは変わらずイエスさまを迎えてもてなしています(十字架への時間から算出)。それは、ここでの経験、言われた言葉により、彼女とイエスさまとの関係はより強く、深く、長いものとなったからです。
マルタのこの経験の発端は、彼女が自分の家にイエスさまを招いたことでした。これは単に家という建物の中にイエスさまを入れたということではなく、家の中で起きること、姉妹同士の衝突、自分の長所短所、日常や人生で起こるすべてをイエスさまに見ていただくということです。私たちは、お互いがそれぞれの家の中でどんな生活をしているか、あまり見せません。家の中では夫婦げんか、親子の確執、泣いたり、わめいたり、冷戦があったり、プチ家出をしたり、家族間だけでなく一人暮らしであったとしても波乱に満ちています。そんな隠し事ができない家の中に、マルタはイエスさまを迎え入れました。大変勇気のいることです。見られたくないところ、見てほしくないところまで知られてしまうからです。しかし、ひとたび自分の家にイエスさまを迎え入れるなら、自分の人生には変化が起こります。イエスさまは、マルタとマリアの姉妹げんかの現場にいっしょにいてくださいました。そんなほつれを見せたところで、イエスさまとの関係は破綻しません。イエスさまはけんかのある家にもちゃんと留まってくださいます。ぜひ、自分の家、人生、見せたくないなと思う日常の中にイエスさまを主として迎え入れましょう。
2. 役割に対して ~みことばを行うこと~
そんなマルタですが、彼女は率先してイエスさまを出迎え、もてなしに励んでいました。みことばを行う立派な信仰の持ち主でした。おそらくこの一行とは、40人ほどになるのではないかと言われます。そんな団体をマルタは迎え、切り盛りしていました。「聖徒たちの必要をともにし、努めて人をもてなしなさい」(ローマ12:13)のみことばを実践する、賞賛されるべき姿です。さて、この出来事のすぐ前に聖書にあるのは「良きサマリア人」のたとえ話で、先週一緒に味わいましたね。そこでは「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」という問いかけから始まり、真に神と隣人とを愛することの尊さ、またそれが出来ていなかったということが明らかにされていました。つまり、みことばを行うことの重要性がテーマでした。今朝の個所もその流れの中に続いています。そうです、マルタはみことばを忠実に、また熱心に、そして率先して行う素晴らしいモデルとして登場しているのですね。
しかし、そこで問題が生じました。この問題をもう一度見てみましょう。みことばを行っているのに、イエスさまに仕えているのに、問題が起こるのです。ここで問題となっていることとは何でしょう。それは、マルタの訴えをよく読むと分かります。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせ・・・私の手伝いをするように・・・」(40節)とあるように、ここでマルタは「私」と三度も連呼しています。イエスさまを「主」として、従うべきお方として迎えたのに、しかも、自分はそのしもべとして仕えていたはずなのに、いつのまにか「私」という思いがムクムクと起き上がって来て、ついに抑えること、治めることができずに爆発しました。
自分から喜んでイエスさま一行を迎えたはずです。色々献立や配置を計画して家に招いてもてなしていたはずです。「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず」(40節)ついには、イエスさまにまで八つ当たりしてしまいました。イエスさまにとったら、とんだ災難です。招かれた客、「主」として迎え入れられたのに、近くで怒りが爆発し、その原因はあなたにもありますと言われてしまいました。今、マルタの心はとげとげしい思いでいっぱいです。喜びを失ってしまいました。イエスさまに指図をし、周囲にも居心地の悪い思いをさせ、自分の横柄な性分がバレてしまいました。楽しい場は一気に気まずい場となり、それまでのマルタのささげたもてなし、努力も台無しです。
マルタは良いことをしていました。イエスさまをもてなすという御心を行っていました。正しいことをしていました。しかし、欠けがありました。十分ではないことがありました。その原因はどこにあるのでしょうか? イエスさまはご存じでした。マルタに欠けていたのは、神のことば、福音を聴くことです。それが不十分なかぎり、いくら良い動機、やる気、能力があってもいずれ破綻することを、ここでは教えています。そしてイエスさまは、「するべきことを何もしない!」と怒りを向けていたマリアの姿を通して、マルタに答えを見せられます。これはマルタにとって、もっともされたくない方法です。自分は正しい行いをしているのに、何もしないマリアを通して、自分の過ちが示されようとしているからです。しばしば、神さまはあなたのもっとも認めたくない存在を通して真理を教えられることがあります。それは、私たちがさらに砕かれて、神にへりくだる者とされるためです。
3. 存在に対して ~みことばを聴くこと~
マルタの目の前にはマリアがいました。マリアは主の足下にいて、ひたすらみことばに聞き入っていました。イエスさまは、手伝いをしなかったことではなく、「良いほうを選びました」(42節)と彼女のしたことを褒めておられます。こうなると、マルタは良くなくて、マリアは良いと印象を持ちがちですが、イエスさまがなさろうとしているのは、人物の判定ではありません。イエスさまは「必要なことは一つです」とおっしゃいました。つまり、ここでイエスさまはマルタかマリア、どちら存在がすぐれているのかではなく、一つの行為について言及しているのです。もし、「マルタ、君はダメだ。まったくなってないよ。マリアのようになりなよ」と言われたら、もう谷底に落とされた気分になったでしょう。イエスさまとの関係を断ち切って、金輪際会うこともなかったかもしれません。しかし、イエスさまとマルタとの関係はここからさらに深くなりました。それは、イエスさまがマルタの存在を否定せず、良いほうを選ぶということをお話しされたからです。
「無条件に愛しましょう」と聞くと、私たちは善悪も度外視してどんなときも愛することだと思い違いをします。もし、子どもをそのように扱っていたら、親子の愛は育ちません。子がどんな悪い事をしても親が叱ることがなければ、かえって「僕が何をしてもどうだっていいんだ」「関心がないんだね」と疑われることだってあります。愛とはむしろ、100%存在は認めつつ、誤った行為ははっきり告げることで確認され、育っていきます。
年末になるとテレビ番組で「プロ野球戦力外通告」の特集があります。解雇通知を受けた野球選手が、第二のキャリアをどう選択するかに密着する内容です。プロ選手にとって野球は仕事であり、役割です。しかし、それが奪われると、存在まで否定された気分になり落ち込みます。そんなとき、選手を支えるのはその妻です。彼女が「私はプロ野球選手と結婚したのではなく、あなたという人と結婚したのよ」などと励まし、次の仕事を模索していくのです。彼は、存在を認めて肯定してくれる居場所があること、野球は出番の一つに過ぎないことを学びます。そして、次の出番を勇気をもって捜します。たとえ、出番を一時的に失われたとしても、決して失われない居場所があるからです。これは存在と役割を区別すると、より生きやすくなることの一例です。
言いにくいことだとしても、存在を否定しなければ、ちゃんと通じます。事実、イエスさまはマルタの存在を深く愛しておられたからこそ、心騒ぐマルタに厳しくも適切なみことばを持って接しました。それが彼女を引き戻し、支えることになりました。また、マリアも聞き入ってばかりではなく、ヨハネ12章では高価な香油をイエスさまの足に塗って髪の毛で拭うという大胆な行為をしました。福音を聴くことと、みことばを行うこととの両方が組み合わされて心身は健全に働き、周囲に当たることなく生きる道が開かれていきます。私たちの居場所は、いつもイエスさまの足下です。福音を聴き、イエスさまのことばを聴いて平安を得ます。また、私たちには出番も備えられています。イエスさまを愛するという最高の出番のために自分を磨き、備え、用いていただきたいと願います。 ■

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