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執筆者の写真大塚 史明 牧師

「宝の輝き」


聖書 エペソ人への手紙4章30~32節

 先週は25~29節を「怒り」「盗み」「偽証」と出エジプト記の十戒と重ねて新たな戒め(励まし)としてみことばを味わいました。今朝の節も同じまとまりに含まれる箇所です。私たちは、聖書をどのようなものとして考えているでしょうか。どのようなものとして接しているでしょうか。ただの文字だとすると、インクにしか見えません。大事な書物ですとすると、大切に抱えます。足台にしたりはしません。もっと大事にしたいからといって、本棚に飾ったり、観賞用の聖書(封を開けない)を買ったりするかもしれませんね!聖書は・・・神の言葉であり、誤りがなく、永遠に変わることがなく、旧新両訳聖書で完成されており、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益で・・・と色々正解を思いつくことでしょう。今朝のタイトルは「宝の輝き」です。宝は回りに照らされてではなく、それ自体で輝きを放ちます。宝そのものに価値があるからです。聖書は「福音の光が輝いている」(第2コリント4:4)ものであると記しています。聖書は堅く言えば「神の言葉」「永遠に堅く立つ」などと言えますが、「福音(=グッドニュース)が宝のように光り輝いている」とも言えます。そして、その宝の輝きである聖書が、今朝の箇所では意外な言葉から始まっています。


2. 神の悲しみ(30節)

❶ 聖霊の悲しみ

「神の聖霊を悲しませてはいけません」

これをどのように聴くでしょうか?「さすが聖書、福音の光が輝いている!」とこの箇所を読んで思うでしょうか。あまりそのようには感じませんよね。ここからわかるのは、まず聖霊なる神さまは人格を持っておられるということです。私たちは聖書をただの文字、文学、あれはいけない、これはいけないという道徳やアドバイス、ガイドとして見るのではなく、「主なる神と人格的交流をしている」「神との交わりをしている」のです。この感覚、感触がないと私たちの人格は一向に変化しません。神さまも人格をお持ちのお方なので、私たちの人格を通して知ることができます。私たちが冷めていれば、神さまと熱い交流を持つことはできません。私たちがいい加減であれば、それ以上に神さまが応えてくださると考えてはなりません。その点から始めると、ここの「神の聖霊を悲しませてはなりません」というのは、叱責や言い当てられている(あてつけ!)には聞こえてきません。そうではなく、神の嘆願、たっての願い、心の痛い思いの吐露に聴こえてきます(読めてきます)。こうした感覚が養われると、聖書が素通りせず、しっかりと自分に語られるようになります。こうした交わりを持つということは、関わりが増えるということなので、自分にまとわりつくような、絡まれるような感覚も覚えるかもしれません。誰も、ガラの悪そうな人に絡まれるのは避けたいものです。なるべくなら、良い人との出会いがあれば嬉しいです。良い本、良い映画、良い動画、良い絵画、良い音楽、良い食べ物、良いお花・・・いろいろなものを探し求めています。しかし、私たちは聖書を通して、良い神との出会い、交わりを持つことができるのです。それはこの上なく大切にし、恐れ多さと敬虔さをもって出なければなりませんね。私たちがここでささげる礼拝が、こうした神への期待、ある種の正しい恐れがちゃんと存在する礼拝でありたいと願います。そして、そのためにまずは自分の身からです!神との人格的な交わりを持つのにふさわしい備え、姿があります。主が聖書を通して今日、今私に語ってくださっていることの臨場感を、本気度、熱をしっかりと保ちたいと思います。


その神が、「聖霊を悲しませてはならない」とお語りになっています。そう語らなければならなかった。今朝、このことを告げる必要があった。他でもないこの私に向かって、その必要が大いに、緊急的にあった。では、聖霊を悲しませるとはどういうことなのでしょうか。それを聖書は「罪」と言っています。

私たちが罪に鈍感であってはならない。罪を犯すことに抵抗を感じない、相手のせいにする、気分次第でコロコロ変わる・・・そうであっては困るのです。いえ、困るのではなく「悲しまれる」のです。何かが問題であるとか、けしからんとかという外面的なレベルではなく、深く悲しんでおられる。神を悲しませてしまう生き方を私たちは、私は、あなたはしているのだと30節は初めから私たちを切り裂きます。私たち人間はたとえば「ばか者」と言われたら、文字として傷ついたり、鼓膜を通しての声・音に悲しむのではなく、気持ちや心が痛みます。同じように、神の御霊が悲しまれるのも、私たちの言葉や行い自体が聖霊を破壊したり打ちのめすというよりも、聖霊ご自身が覚える悲しみの深刻さを表します。私たちはその言動、生き方によって聖霊なる神の領域を侵し、聖さを損ない、ダメージを負わせてしまっている。聖霊が胸を痛めて、悲しんでおられる。そのことを私たちはみことばにおける交わりにおいて知らされるのです。私たちは聖霊の悲しみを通して、自分の罪を知らされ、また神との交わりは人格的なものであり、心の痛みをともなうものであることを知ります。教会へ通っている、聖書を読んでいる、お祈りをしている、献金をしている、奉仕をしているというパフォーマンスで神との距離や自分の生き方をチェックするのではなく、聖霊の悲しみ、喜びといった心の交わりによって神とともに生きるとはどいうことなのかを知っていきます。


❷ 聖霊の証印

しかし「聖霊を悲しませている」あなたを神さまはどのように見ておられ、どう扱われるのでしょうか。「あなたには期待していたけれど、どうやら失格のようですね」「これまで忍耐していたけれど、もうガマンできない。君には失望したから黙って去って行ってくれないか?」と言われるかもしれません。そう言われても仕方のない歩みを私たちはしています。それで「あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されている」と30節は続けます。ここに、おどろくべき保証があります。私たちは聖霊を悲しませてしまうのだけれども、同時に「証印を押されている」ので、神の救いからもれることは決してない、と言われているからです。


この順序、私たち人間には少し理解が追いつかないかもしれません。「聖霊を悲しませてはいけません」からの「聖霊によって証印を押されている」パターンこそ、本日のタイトルである「宝の輝き」であり、福音の光の輝きそのものです。私たち人間は弱く、罪深い者です。一度誓ったこと、決心したことを次の瞬間にはいともたやすく覆し、破ってしまいます。しかもそれを真摯に反省するならまだしも、居直ったり、言い訳をしたり、そうするのが当然であったかのように振る舞うこともあります。しかし、こうしたとき、私たちは「聖霊が悲しんでおられる」ことに気づけるようになります。決してそのまま放置するような生き方からは決別しています。なぜなら、「聖霊が悲しんでいる」ということを意識したり、感じたり、そのことに心刺されてこちらも悲しみや至らなさを覚えるということが起きているからです。それから、再び神に立ち返り、聖霊を悲しませるとは逆の方向、すなわち聖霊を喜ばせる生き方へ向き直ろうとします。それこそ、その者に聖霊が注がれており、聖霊なる神との交わりに生きているしるしです。その聖霊は私たちにとって「証印」であり救いが今からもこれからも決して取り消されないことを保証してくれるものです。これはエペソの手紙が書かれた初めの章から宣言されていたことでした。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(1:14)「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」(2:6)とは、この「贖いの日」=完成の日を指しています。そのとき、私たちはすでに御国を受け継いでおり、キリストとともによみがえらされ、朽ちないからだを着て、天上に座っているという完成図があるのです。その完成に向かって、私たちは今生きています。聖霊はその始まりのしるしであり、同時に終わり・完成のしるしです。ですから、私たちが聖霊を悲しませるとき、そのことに気づけるとき、それは聖霊がともにいてくださることの証拠です。そして、聖霊が注がれているということは、必ず完成のとき、贖いの日にもれなく救われていることの保証でもあるのです。聖霊による証印は、私たちを適当に生きていてもよいというあんしん保証ではなく、うまくできない自分、罪を犯し打ちひしがれる者に投げかけられる神からの保証です。これをいただいているにふさわしい者になりたい、と新たな願いを持たせてくれる希望のとりでです。救いようがない自分だと判定してしまい、必要以上の落ち込みを覚えるとき、聖霊の証印を思い出してください。聖霊は再びあなたが顔を上げ、神の導かれる道を歩むように励ましてくださいます。悲しんでもなお、過ぎ去ることはありません。どんな深みにも来て、助け出し、ともに歩んでくださるお方です。これこそ、神があなたになさっておられることです。神から生まれ、神に至る。この道を確認しましょう。


2. すべてを捨て去って(31節)

続く31節では、再度25,29節を確認するように5つの具体的な罪とそれをまとめるように「いっさいの悪意とともに、すべて捨て去りなさい」と命令がなされています。「一切・・・すべてを捨て去れ」と徹底した命じ方です。どんな言い訳の余地も残されていない。「悪魔に機会(スペース)を与えないように」と命じていた27節とも通じます。イエスさまも「鋤を手にかけてからうしろを振り返る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(ルカ9:62)と厳しく言っておられます。なぜなら、少しの足がかりが私たちにとっては甘えとなり、転落のきっかけとなるからです。


飛行機に乗る前は、入念な身体検査、持ち物チェックがあります。エックス線検査ゲートをくぐって警報音が鳴れば、鳴らなくなるまで身体、持ち物チェックをされます。持ち物はすべて預け、時計をはずし、ベルトをはずし、ブーツやハイヒールを脱いで通過します。それは危険物を持ち込ませないためです。文房具用の折りたたみハサミであっても、子ども用の花火であっても持ち込めません。そのあたりは容赦がありません。なくなく捨てたであろうライターやピンセットが検査場のゴミ箱に捨ててあるのを見ます。それはどんな小さなものであっても、危険を及ぼす可能性のあるものであれば持ち込めないというルールがあるからです。


人の命を守る基準でもこのように厳格に定められ、実行されています。そうであれば、私たちの永遠のいのち、たましいの損傷がかかっているとしたらなおのことです。なぜなら、肉体の怪我であれば治りますが、たましいの聖さを保ち、磨くためにはもっと注意深くないといけません。取り返しのつかないところまで転がってしまわないように、私たちは徹底して罪との戦いを意識しなければなりません。


そんなクリスチャンライフは疲れてしまうでしょうか?喜びが奪われるでしょうか?そこまでしないといけないものなのでしょうか?私たち目線で考えると厳しすぎたり、キツいと思うことがあるかもしれません。しかし、イエス・キリストはどうだったでしょうか?「ちょっと今日気分が乗らないから福音やめておこう」とか「人のところまで救いに行くのはダルい。とりやめだ」とは決して言われませんでした。それどころか、天の御座を駆けおり、神の御子としての権威を脱ぎ捨て、地上で人となられました。弟子たちとは24時間いっしょに過ごされ、朝夕は静かな場所に退いて神に祈られました。病める人には手をおいて癒やされ、家に入れば祝福を祈られ、子どもたちを抱き上げ、人々と真っ暗になるまで神の言葉を教えて過ごし、罪人といっしょに食事をし、枕するところもなく毎日神の働きをなさいました。最期は取り除いてくださいと祈った十字架を背負わされ、人々からはののしられ、弟子たちからは見放され、神に呪われて死なれました。


もし、イエス・キリストが「ちょっとでも自分を優先していたら」どうなったでしょうか。弟子たちを叱りつけ、人々とは会わない日時を設け、自分だけいいパンを食べたり、十字架をさけることもなさったかもしれません。しかし、そうはなさいませんでした。それは、主イエスが100%御心に従って生きられたからです。自分のためにスペースを残しておくことはなさいませんでした。ちょっとでもそれがあれば、人々の身代わりに、贖いとしてご自分を差し出すことはできなかったでしょう。十字架につけられ死なれたイエスを正面から見ていた百人隊長は「この方は本当に神の子であった」(マルコ15:39)と告白しています。まさに、私たちの信じる神は、私たちのためにご自分を100%差し出してくださったお方です。余すところなく、なにの余地もなくすべてをささげて愛してくださいました。この方の愛にふれられているので、私たちは「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどの一切を悪意とともに、すべて捨て去り」(31節)神に向かって生きるのです。これらの状態は感情は高ぶっていても、喜びを大きく失った状態であり、隣人に対して苦い水をまきちらし、憎しみや叫びやいらだちをもって人々に恵みを与えない生き方です。それらを捨て去って失うものはありません。主イエスが人としてすべてのみわざを終えられ、三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座しておられるように、私たちも神の国に入るために邪魔になるもの、妨げとなるものは捨て去って迎え入れられたいと願うからです。その歩みを、こうした礼拝の生活を通して一日一日、一歩ずつ守られています。私たちは、互いに神の国への歩みを支え合い、守り合う存在です。あなたが神に向いていることが、隣人の励ましになります。あなたが罪と戦い、これらの悪意を捨て去ることが、隣人への証しとなります。ぜひ、私たちのために余すところなくご自身をささげ、愛してくださったイエス・キリストを覚えましょう。この方に愛されているのは、あなたです。


3. 赦し合う(32節)

イエス・キリストに愛されているあなた。このことを確認するように32節は「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(32節)と結びます。「親切」とか「優しい心」というと、学校や地域の標語みたいですが、「互いに・・・赦し合いなさい」というメインディッシュを忘れずにいたいと思います。ただの優しい、ただの親切ではなく、それは「互いが赦し合う」すがたになっていること。これがキリストの愛の結実です。キリストに愛された者たちの間で見られなければいけない光景です。キリストの愛を受け取った者から発していなければならない変化です。けれど、どうしたら赦せる人になれるのだろうか。赦し合ってというけれど、まずは相手の方から赦してもらいたい。そもそも、赦そうと思えない。最後の文に注目してみましょう。「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」。これは「赦してくださった」とあるように、神はもういっさいのわだかまり、赦せない思いを抱いておられないという意味です。まず始めるのは、神があなたを赦してくださったこと。神がすでにあなたを赦されていること。ここからです。


どんな自分が赦されたでしょうか。どんなあなたを神は赦してくださったのでしょうか。エペソ2章に立ち返れば「自分の背きと罪の中に死んでいた」あなたであり、「不従順の・・・霊に従って歩んでいた」あなたであり、「生まれながら神の御怒りを受けるべき子」としてのあなたでした。神の御前では何もよいものはなく、役立つものはなく、見てもらってよいものはない私たち。それでも、神はそんな私たちを愛してくださいました。それは、私たち自身の人柄や行いや感触に頼らない愛を神は持っておられるからです。私たちはいつも自分で自分を見て愛されるに値するかどうか判断をします。あるいは人からの評価や目によって、自分が愛されているかどうかを確認しようとします。そして、自分に嫌気を差したり、人から嫌味を言われたり、人間関係がうまくいかないと自分が愛されていることがわからなくなります。そんな自信は持てなくなり、ふさぎこみます。自分が愛されている理由やその価値が自分にはないと思うからです。しかし、それは神のいない世界のお話です。だから、この32節でも最後の文の主語は「神」です。あなたがたが赦し合えるのは、実に「神があなたがたを愛し、赦してくださったからだ」という驚くべき新事実を提示しています。神は私を愛しておられるお方。なぜなら、それは神ご自身の自由な愛に基づく愛だからです。自分の中に愛される理由、人から好かれる価値を探さなくてもよい。いや、そうして自分を見失い、人々の間でさまよっているあなたを探し出して、主は愛を伝えてくださいます。受けるに値しないけれど、それこそが神の愛。まさに宝の輝きです。この宝、この輝きを知っていますか?受け取っていますか?輝かせていますか?たくさんキリストの愛が入るスペースを作りお迎えしましょう。<了>


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