聖書:ヨハネの福音書2:1-11 |
はじめに:これが何に見えますか?
これから4枚ほど、絵を見ていただきます。スライドをご覧ください。1、2,3,4枚目へと順に・・・何に見えるでしょうか。それぞれの絵には「二通りの絵」が見えるように仕掛けられています。これを「だまし絵1(illusionism)」と言います。二通りに見るポイントは、どこに強調点を置いて見るかによります。これは、絵そのものが変化しているのではなく、私たちの目、視点が変化することによって体験できる現象です。
実は、福音も同じように私たちの視点を変えるとさまざまな見え方がします。(誤解を恐れずに言えば)私たちの知っている面だけが福音なのではありません。神さまは偉大であり、私たち人間の理解や知性やサイズを超越しているお方です。このことに関わる聖句を2つ紹介します。
「わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:9b)
「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」(ヨハネ1:26)
今、私たちが知っていることだけが福音のすべてではありません。まだまだ、私たちは福音を知らないのです。
そして、知り尽くせないからこそ、神との交わりは楽しく、ずっと続けていられます。そして、福音の新たな面を知ると、隠された宝を見つけて喜びのあまり、持っている物すべてを売り払い、その宝のある畑を買った人のような大胆な行動をするのです。それほど、福音とは素晴らしいものです。
今年の年間テーマは「福音に生きる~Life in the Gospel~」。福音の持つ豊かさを味わいましょう。新しい福音のすばらしさを発見しましょう。
福音とは、恵みによる救いであり、神の国の訪れの力強い宣言であり、罪をするどく示してあなたの心を刺し通すものであり、喜びを与えるものであり、涙を流させるものであり、胸を震わせるものであり、重荷から解放するものであり、自由を与えるものであり、新しい心、新しい視点、新しい目当て、新しい道を与えてくれるものです。
福音(良き知らせ)に期待しましょう。今日、新しい福音に出会えるように。私たちの目の覆いが取り除かれて、福音のまばゆさに心照らされたく願います。
1 問題がある人生
今朝の聖書個所は、イエス・キリストが最初のしるし(=きせき)をおこなわれた場面です。「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり」(1節)と時と場所が明確に記されています(1章からの続き)。この出来事を記した弟子のヨハネにとっても、はっきりと覚えているものでした。それほどインパクト、意味があったのですね。
ヨハネはこの福音書の目的は「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」(20:31)と記しています。この出来事を語り告げたり、聴いたり、読んだりした者たち(私たち)が、イエスは神の子キリストであることを信じ、永遠のいのちを得るためです。
この目的が果たされるために、ヨハネは福音書の中に残す出来事や教えを厳選しました。そして、その中で最初のしるしとして行われたのが、この出来事です。ガリラヤ湖の西へ20キロほどカナの町で婚礼がありました。現在はカナの婚礼教会(フランシスコ修道院とギリシャ正教の2つあります)が建っていて、今でもたくさんのカップルがそこで結婚式や結婚更新式を挙げていて、観光名所にもなっています。▶
そこでのこと「ぶどう酒がなくなる」(3節)という問題が生じました。なぜ、ワインのなくなることが問題なのかと言うと、列席者から非難され、恥を受けるからです。せっかくの結婚生活が、周囲から冷ややかな目や良くない思い出をもってスタートしなければならなくなります。それは辛いことです。そんな一大事が今、起ころうとしています。いや、もうすでに問題が起こってしまいました。主のしるしは、ここからスタートします。
問題のない人生は誰にもありません。誰にだって問題が起こります。けれども、福音は私たちにつきものの人生の問題から主イエスとの出会いが始まり、主イエスの力を体験するきっかけになるのだと告げます。このことは、私たちにとって慰めとなり、また、信仰を始めるきっかけになるのではないでしょうか。
ここの「ぶどう酒がありません」(3節)と母マリアがイエス・キリストに告げるわけですが、これは「ぶどう酒が欠乏しています」という切実な語があてられています。もしかすると、自分の人生を見つめて、欠けているものばかり、乏しいものばかりだと嘆くことがあるかもしれません。幸せにかけている、愛された経験に乏しい、心に空洞があって満たされない、もう力がなくなってしまった・・・さまざまな思いを抱えておられることでしょう。▶▶
ただ、それでよいのです。「ぶどう酒がありません」と告げたマリアのように、私たちは「イエスさま、私には愛された経験がありません。愛されていることを教えてください」「イエスさま、私は傷ついています。癒してください」と告白いたしましょう。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる」(詩篇55:17)
※この「ゆだねよ」という語は投げ込むという意味がある。
ヨセフの兄たちがヨセフを穴の中に投げ込んだ場面(創世記37:24)と同じ語。
私たちとイエス・キリストとの出会いは、問題から始まることだってあるのです。問題から来る思い煩い、重荷、悩み、苦しみ、不満を主に「投げ込む」こと。それでいい。
現状を吐露してみてください。それを主なる神を相手にしてみてほしい。なぜなら、神を相手に考えることが大事だからです。私たちが神を頼ることなく(時には悪いとか、恥ずかしいとか、面倒だとか思ってそうするのですが)、それをわたしめがけて投げ込んでこいと言われます。人間同士は「丸投げ」されると気分は良くないものですが、神は私たちが自己完結や模範的であることをまったく望んでおられません。問題を主にさらしましょう。弱音でもかすれ声でもいいから、人生の問題、欠乏、苦み、重荷を主に伝えましょう。■
2 主イエスを見つめる人生
母マリアがぶどう酒のなくなったことを伝えると、イエス・キリストは「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか」(4節)と面白い答えをされています。とても冷たくも感じる言葉遣いと返答ですが、原語のギリシャ語では冷たい表現ではないそうです。しかし、決して親子関係では使わない言葉です。確かに、ここで主イエスが「あ、お母さん。そうだったんですね」とか言われたら少し幻滅するかもです・・・・・・
そして「わたしの時はまだ来ていません」とまで言われた母マリアは給仕の者たちに「あの方が言われることは、何でもしてください」(5節)と伝えます。実は、当時の結婚式は1週間続くこともあったそうです(参照:士師記14:12)。多くの列席者がそれだけ長くいるので、手伝いをする給仕の者たちもそれ相応の人数がいました。
そして、給仕の者たち(5節)→石の水がめ(6節)と言及されていきます。これは映画などでカメラが電話を映すと、次の瞬間それが鳴るように、ここからこの2つが動くよという合図になっていますね。石の水がめは個数と容量も記してあり、それは80~120ℓ入りの大きなものが6つでした。用途は「ユダヤ人のきよめのしきたり」とあり、婚礼の席で、人々が手を洗わずに食べて汚れないようにするためのものでした。▶ そこで、主イエスは言われます。
「水がめを水でいっぱいにしなさい」(7節)
そんな巨大な水がめにを水でいっぱいにしなさい命じられました。とても骨の折れる作業であることは想像に難くありません。みなさんなら、どんな反応をするでしょうか。今、私が同じようなことを頼んだなら、動いてくれる人が果たしているでしょうか(これはみなさんではなく私の信頼度の問題です♪)。6節で石がめについて詳しく説明していますが、このときの給仕の者たちの行動は驚くほどあっさりしています。「彼らは水がめを縁までいっぱいにした」(7節)。
給仕の人たちは、お風呂のサイズほどの大きな6つの水がめの縁までいっぱいに水を汲みました。蛇口やホースのない時代に、おそらく桶を使って皆で協力し合ったものだと思われます。文句は出なかったのでしょうか。不協和音は起こらなかったのでしょうか。疲れてやめなかったのでしょうか。面倒なことにかかわりたくないと聞こえないふりはしなかったのでしょうか。ある程度のところでごまかそうとは考えなかったのでしょうか。ここの記事からはそういったものはいっさいなかったようです。ただ「あの方=主イエスの言われることを、何でも」したしもべの姿がここにあります。「水がめを水でいっぱいにしなさい」との命令に100%従った者の姿があります。▶▶
途中でやめてしまうほどみっともないことはありません。中途半端にしか従わないほどもったいないことはありません。なぜなら、主に従うことは、必ず祝福が伴うからです。主に従わないことは、祝福を拒否することです。半分しか従わないことは、祝福を減らすことです。そして、主に従い通すことは、祝福をあますところなく受け取ることです。
「水がめを縁までいっぱい」(7節)とあるのは、彼らのうち誰も途中でやめなかったということです。疑問や不平不満、余力を残さず、縁までいっぱいに水を汲み入れました。それがどんな結果をもたらすのか、何になるのか分からない中で、やり遂げました。なぜでしょう?主イエスがそれをしなさいと命じられたからです。それ以外に理由はありません。
10年ほど前、ある日本人男性と韓国人女性のご夫妻と過ごすことがありました。彼らの車に乗っているとレインボーブリッジが近くなり、その妻は夫に「大塚先生をレインボーブリッジに連れて行く?」と聞きました。するとその夫は「う~ん、どうしようかなあ。それもいいし、けれど・・・」と返答すると、妻は「あなた、行くの?行かないの?」と血相を変えて聞いていたのが印象に残っています。主に問題を告げた私たちは、次に問われるのです。
「あなたは、このわたしに従うのか??」 ■
3 縛りを乗り越える人生
主イエスは、私たちが従うかどうかを見ておられます。そして、従い通すかどうかを見ておられます。それで「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」(8節)と言われました。それは、彼らの従う姿、奉仕する姿、苦労し、協力する姿をずっと見ていてくださったということです。それで、すべての水がめの縁まで入れ終えたタイミングで、それを持って行くように命じておられます。主は、あなたの苦しみや悩みをご存知です。そして、その中で主に従うのかを見ておられます。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)
「あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい」(ヤコブ5:13a)
主は、私たちが苦しみの中にいるとき、祈るように求めておられます。どんな慌てふためく状況でも、まず主を信じることを求めておられます。何の助けも光もないと思える時、主の名を呼ぶように命じておられます(エレミヤ33:3)。祈りよりも具体的な助け、すぐに解決がほしいと考える私たちはそのことが遠回り、無意味のように思えます。そして従わないのです。しかし、この給仕の者たちはそれ以上に無意味で、不可解で、徒労に終わりそうな作業を断らずに、縁いっぱいまでやり切りました。▶
自分のこれまでの経験値、世の中の価値観、メリットがないと動かないし、従うなんてもってのほか・・・そう言ってしまいたくなる強情な私たちに、ヨハネは続きを見せてくれます。なんと、その水はぶどう酒に変わっていました。それもそこそではなく、それまでのどのワインよりもおいしい最上級のものに。世話役はそれがどこから来たのか知りませんでしたが、手伝った給仕の者たちは知っていました。そうです、イエス・キリストからその良いものはもたらされたのです。しかも、自分たちの小さな奉仕を通して!なんでもない水なのに、それを最上級のワインに変えてしまったイエス・キリスト!
婚礼の式で、主役の二人や親族、参列者に遠慮しなければならなかったと思いますが、給仕の者たちは心でガッツポーズをし、賛美したに違いありません。イエス・キリストが素晴らしいことをなさったからです。そして、その前の1章からつき従っていた弟子たちは「イエスを信じた」(11節)のです。え?弟子たちってまだイエスさまを信じてなかったの?とツッコミたくなるところですが、これが弟子たる者の歩みですね。日々、その確信が増し加えられていくということです。クリスチャンはある時点がピーク、信仰の全盛期だったというものではありません。昨年よりも今年は主イエスをもっと知る。昨日よりも今日主イエスをもっと愛する。信仰が内側から燃やされていく。そういう歩みができるのです。▶▶
最初の絵のことを思い出してみてください。見方を変えると2つの絵ずらに見えるものでしたね。では、結びに思いめぐらしてみましょう。はじめは、苦しみだと思っていたことが、イエスさまによって恵みに変えられた経験はないでしょうか?初めは試練だと思っていたことが、後になって糧になったことはないでしょうか?はじめは何とも思っていなかったのに、今ではとっても愛おしく大切なものに変えられた出来事はないでしょうか?まさしく、ただの水が最上のぶどう酒に変えられたように。
イエス・キリストは、そのようなことをしてくださいます。しきたり=言い伝え、人の教え、世間の目を、神の国の喜び、神への賛美、神の守りの確信へと変えてくださいます。あなたが、まだイエス・キリストに告げていない問題がないでしょうか。主にゆだね切れていない、主に投げ入れていない課題、ひっかかりはないでしょうか。ぜひ、主のもとに飛び込みましょう。そして主の言われることを聞きましょう。たとえそれに何の意味が?とつぶやきたくなることであっても、主の言われることであれば従いましょう。そうすると、主はあなたのその姿、奉仕、従順、信仰を見ていてくださり、それらを恵みに、喜びに、力に変えてくださいます。私たち人間が神の領域にたどり着くまで努力し行うのは宗教です。しかし、福音はイエス・キリストがあなたを変えてくださる、あなたのために素晴らしいことをしてくださるということです。■
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