聖書箇所:エペソ人への手紙1章11-14節 |
Ⅰ.御国を目指して(11-12節)
1. 自分の計画<神の計画
エペソ人への手紙1章には、神の壮大な計画が示されています。「世界の基の置かれる前から」(4節)、「みこころの奥義」(9節)、「時が満ちて計画が実行に移され」(10節)という流れを再度確認することができます。それを受けて今朝の箇所も「すべてをみこころによる計画のままに行う方」(11節)と始まっています。
私たちは、誰の計画に沿って生きているでしょうか。一番好きなのは「自分の計画」です。自分にとってしっくりくるもの、自分の好むやり方、自分の考えから出発し、想像するゴール・・・・・・これらに囲まれ、これらのようになっていけば良いのですが、実際はそうではありません。思わぬ事態が起こります。望まない状況に引き込まれることもあります。自分の手には負えない展開や問題だって起こります。それもしょっちゅう!!それなのに、私たちはあいも変わらず「今日も自分の計画を立ててそれにこだわる」生き方をしてはいないでしょうか。そして自分の計画から出発し、またくじける。それの繰り返しです。良いことがあれば喜び、悪いことがあれば落ち込む。自分よりも幸せそうな人をねたみ、比較してうなだれ、遠くのセレブには憧れを抱いたりするのに、近くの経済的な成功者や社会的地位のある人を素直に喜ぶことができない。なんで私じゃダメなのか、私の計画はどうなっているのか。そんなことを繰り返し考えながら、変わらない日々や自分自身にも嫌気をもよおすこともあるものです。一方、「神の計画」があるとしたらいかがでしょうか。自分のレール、親のレールではなく、神のご計画に沿った人生への招待です。
先週、教会駐車場にある花壇の写真を見せてくれた人がいました。りっぱなひまわりが咲いていました。太陽の方を向いて、笑っているかのように見えるりっぱなひまわりです。実は、私、たまにそこに水をあげながら、「最近、なんか太い茎のものが出てきているな」「どんどん太くなるし、邪魔だな」「切っておこうかな」と考えていました。そんな矢先、「ひまわりがこんなにきれいに咲きました!」と須賀めぐみ姉がお知らせくださったのです。私はそのひまわりを切ろうとしていました。下ばかり見ていたからです。太い茎、ゴツゴツしていてかわいげがありません。場所ばかり占領して、他のお花たちが窮屈そう、などと思っていました。しかし、上を見上げると360度花びらを展開する大きなひまわりが咲いていたのです。
人の計画と神の計画の違いを見せられたような気がいたしました。自分の目で見ているものは、それが何になるのかまったく分かりません。時に意味がわからず、邪魔をされているような気にもなり、切り倒してしまおうともなるものです。しかし、それが大きなひまわりの花をつけました。人の視野の狭さ、計画の小ささを思います。そして、神のまなざし、神の計画はより大きく、素晴らしいものです。私たちは一時的、刹那的に生きており、神の計画のすべてを見渡すことができません。我慢ができなくなり、飽きやすく、キレやすく、忍耐が足りません。しかし、神は永遠のお方です。しかも、神は最善のお方で偏ったことやえこひいきをなさいません。神は絶対に失敗しないお方で、後悔することがありません。神は知恵においても、力において限界がなく、時間に縛られたり、場所や空間に拘束されることがありません。神は全知全能のお方です。世界は、この神の計画によって進んでいます!そのことを知る時、私たちは「自分の計画」に対するこだわり、不成立の恐れから解放され、神の計画の中に一歩進めることができます。
2. キリストに望みを置く
しかも、その神の計画の中に「あなたのことも入っているのだ」というのが福音です。「私たちは御国を受け継ぐ者となりました」(11節)。これは、世界の歴史というものは、自分が神の国に入るためにあるのだよと言っている重要な箇所です。私たちはあまりにも自分の生活、この世のことに関心を奪われ過ぎてしまい、そのために心も疲弊しています。常に忙しく、せきたてられ、平安をえて過ごしている時間はわずかです。何が間違っているのでしょうか。私たちの向かっている先です、こだわっている計画が間違っているのです。思うどおりにならないと苛立ち、言うことを聞いてくれないと怒り、願いを聞き入れてもらえないとふくれてすねています。しかし、これらすべては異邦人(=神を知らない民)が切に求めているものです。食べ物、着るもの、学び舎、職場・・・・・・この世での必要はすべて神がご存じです。「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」(ルカ12:31)と主イエスははっきり言われているではありませんか。まず御国を求めること。そうする者に、主は良くしてくださいます。聖書を読みすぎて知恵に欠ける人、品性に欠ける人にはなりません。祈りすぎて、宿題や仕事が手につかなくなる人はいません。献金をしすぎて路頭に迷うことにはなりません。なぜなら、主が良くしてくださるからです。主は、ご自身を信頼し、ご自分に従ってくる者に良くしてくださいます。なぜでしょうか?その人が頑張っているからではありません。そうではなく、神ご自身の栄誉にかけて、神が見損なわれないように働かれるからです。神は賛美され、栄光を帰されるべきお方です。ご自分の存在やお名前がはずかしめられたり、おとしめられたり、汚されるようなことは絶対になさいません。全知全能であられるからです。すべてをご支配しておられるお方だからです。実に「すべてをみこころによる計画のままに行う」(11節)ことのできるお方だからです。神は、ご自身の栄光・威信にかけて、それこそ全力で聖徒たちを養い、守ってくださいます。それによって神の御名がけがされたり、はずかしめられたりしないためです。「なんだ、信じたって何の良いことも起こらなかった」「信じても何も世界は変わらないじゃないか」と一時的に思ったとしても、それは人間の計画の範囲です。神は、キリストの十字架でさえも、ご自分の計画を成し遂げるために救いのみわざとしてお用いになられたお方です。であれば、私やあなたにとってどんな最悪と思える出来事、状況、問題にぶち当たったとしても、それは神の計画の中で益とし、時にかなって「すべて美しい」と賛美される結末へと導いてくださいます。どうか、私たちが「キリストに望みを置いて」(12節)いる者であり続けられますように!!
Ⅱ.救いの福音(13節) 1. 聞いて
神の計画を信じられるようになる、そのきっかけとは何でしょうか。それは「真理のことば」「救いの福音」(13節)です。私たちは太陽や月、動物や植物、楽しい出来事や悲しみから神を知るのではなく、何よりも「神のことば」によって神を知ります。それは正確に神を知るために、神ご自身が啓示し、用いておられる唯一の方法です。「光、あれ」(創世記1:3)と仰せられた(=ことばを発せられた)神は、「聞け、イスラエルよ」(申命記6:4)と民に近づかれたお方です。こうして「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります」(ヘブル11:3)。
偽りや耳障りのよいことばに満ちています。私たちもそれを欲してしまいます。できることならば、自分にとって心地のよいことを言ってもらいたいものです。非難されたり、必要以上に責任を求められたりすると心がチクチクとなります。だから、私たちはできるだけ自分に優しくしてくれる言葉、自分を受容してくれる言葉を探します。それを聞いて安心したいのです。自分はOKだと受け止めていたいからです。
聖書はどうでしょうか?すべてが“やさしい言葉”でしょうか。すべてが“あなたを包み込んでくれる言葉”でしょうか。「あなたは愛されています」「神があなたの心配をしてくださいます」「恐れなくても主があなたとともにいてくださいます」 これらの言葉は素直に受け入れられるかもしれません。しかし、一方で聖書は「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」(出エジプト記20:7)、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません」(エペソ4:29)とも言われます。もし、私たちが聖書を神のことばとしているのに、心地よい、耳ざわりのよい言葉は受け入れて、そうでないものを取り除くなら、その態度は誤っています。依然として、自分の正しさあるいは気分によって、聖書の中身を選り好みしていることになります。
それは、ちょうど、食べ放題で好きなものだけを取って食べるのを同じです。それは贅沢で楽しいことですが、毎食そうではいけません。そのような食べ方をしていたら、自分の身体に害をおよぼしてしまいます。嫌いなものをはじいたり、腐っていると言いがかりをつけたりするのは、聖書の言っていることすべてを受け止めていない、聞きたくない態度と同じです。
神が語られているのは「真理のことば」(13節)です。本当のことをを伝えてくれない優柔不断なあやふやな語り口ではなく、主ははっきりと、明瞭に、臆することなく「真理のことば」を語ってくださっています。聖書にあって厳しい言葉にぶつかる時、真実な主の、真理のことばであることを思い出し、その身を真理のことばの下に置きましょう。
2. 信じる
なぜ、この心を刺す「真理のことば」を聞く必要があるのでしょうか。それは「救いの福音」(13節)だからです。毎週、礼拝に集って私たちが求めているもの、いただいているものは何でしょうか。親しい人との交わり、心洗われる賛美歌、力をいただく祈り、礼拝後の楽しい時間・・・・・・これらもあって不足はないものです。しかし、それらが中心ではありません。教会にとって、絶対になくてはならないものは、神のことばが語られ、聴かれていることです。それを抜きにして教会は語れません。その存在意義を失い、いのちを失い、楽しさ、心地よさ、友がいなくなれば教会の姿は消えてしまうでしょう。けれど、教会を形作り、神の民を集め、神の民を養い、神の民を育て、神の民を増やしてきたのはイベントではありません。コンサートでもありません。学び会でもありません。食事会でもありません。ただ神のことばが神の民を呼び出し、集め、育て、聖めてきました。これは現代の教会だけでなく、新約聖書の時代からそうです。いや、さらにさかのぼって旧約聖書の時代からそうです。ただ神のことばだけがアブラハムを呼び出し、約束の地へと導かれました。何か報酬やいいにおいに誘われてアブラハムは旅立ったわけではありません。神のことばがあり、それを聴き、それに従ったからこそ、アブラハムは約束の地=神の御国へと入ることができました。彼の功績ではありません。妻サラの助言によってでもありません。ただ、神のことばがアブラハムに臨み、彼はそれを聞いて信じ、従ったので、彼は救われました。信仰の父といわれる理由はそこにあります。それは、立派な信仰を持っていたという意味ではなく、神のことばに聞き従ったという意味において、信仰の父アブラハムと言われていることを思い出しましょう。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)
Ⅲ.約束、証印、保証(14節)
1. 誰が覚えているのか
真理のことばである福音を聞いて、信じるとどうなるのでしょうか。すぐ「約束の聖霊によって証印を押され」(13節)、「御国を受け継ぐ保証」(14節)続けられていることに気づきます。目に見えない神を、語られたことばによって信じる者には、聖霊が与えられます。それは、あなたが「御国を受け継ぐ者となった」ことの「約束」であり、「証印」であり、「保証」です。実に3つの言葉をもって説明しています。それは、あなたが救われたことが確かだよ、と何重にも言葉を合わせて説明しています。そして、嬉しいことは、これは私たちに約束させようと迫っているのではない、ということです。整理してみると「あなたは・・・約束の聖霊によって証印を押されました」と受身形になっていますね。厳密には「所有者の印」という意味になります。「私たちが贖われて神のものとされ」(14節)と続くことと符号します。あなたは、神によって証印を押されています。「あなたはわたしものだよ」と言っておられるということです。そして、その声が聞こえていることが「保証」(14節)です。この保証という言葉には、「手付金」とか「婚約指輪」という意味で使われている文献があります。意味するところは、必ずそうなるということですね。あなたは必ず神のものとされる。あなたは必ず神が救っていてくださる。あなたは必ず神が名前を呼んでくださる。あなたのことは決して神は忘れることをなさらない。信仰とは、私たちが必死になって神のことを知り、学び、覚え、忘れないように頑張るのではなく、神が絶対的約束の中で、あなたを救った、あなたはわたしのもの、あなたを忘れないと保証してくださっていることにうなづくことです。どんなに私たちが年をとっても、記憶があいまいになっても、手足が動かなくなっても大丈夫。神があなたを忘れることがないからです。神があなたの手足を握っていてくださるからです。
2. 永遠に神を喜ぶ
神の計画の最終目標とは何でしょうか。それが今朝の14節の最後「神の栄光がほめたたえられる」(14節)ことです。神が求めておられるのは、神ご自身の栄光が現されることです。神への賛美、神への礼拝はそれほどまでに価値があることです。唯一、神が私たちに求めておられることです。だから、私たちは神を礼拝すること、賛美することを決してやめません。終わりの日まで、主を見上げ、主を賛美し、主にひれふす福岡めぐみ教会、そしてその一員として礼拝することに誇りを持ち続けたく願います。
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