top of page

福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「心の嵐をしずめて」

聖書箇所 : ルカの福音書10章38~42節



はじめに

「なんで私ばっかり」と思ったことはありませんか?

家庭や職場、教会でもよく聞いたり、自分でも言ってしまうセリフかもしれません。


大学時代、バイクで遠出するのが楽しみでした。お金をかけない旅ですので、はじめの年は毛布だけ持って行きました。海辺で寝るととても寒いことに気づきました。次の年は寝袋を持って行きました。テントがないと蚊にさされることがわかりました。次の年は寝袋とテントを持って行きました。自炊道具がないと長い期間旅ができないことがわかりました。こうして数年がかりで必要なものを揃えて、旅をすることができるようになりました。そして、社会人になったのでそんな長く旅ができないことに気づきました・・・。


友人たちと旅に出ると、私は片付け係です。ゴミ集めや調理器具の洗浄などは私がしました。食べてすぐにやりたいのと、他の人があまりそれをしないからです。しかし、その役割がずっと続くと、次第に「なんで私ばっかり」「私がこうして手を動かしている間、彼らは火を囲んでおいしそうにコーヒーを飲んでいる。そのカップを洗うのも私ではないか!」と怒りが込み上げてきたのを思い出します。


「私がこれだけ頑張っているのに、あの人は全然手伝ってくれない!」 今日はそんな頑張り屋さんに聞いてもらいたい聖書のストーリーです。さらに、私たちがこれから本格的に取り組んでいくゴスペルハウス(家の教会、家庭集会)にも通じる話です。また、これからの人生で何が必要か、どのように生きて行けばよいのか。これらの問いに答えを示してくれるのが本日の聖書個所です。ともにみことばを味わいましょう。

1.嵐のはじまり

イエス・キリストは弟子たちとともに旅をされました。福音を語り、神の国ついて教え、人々を癒し、悪霊を追い出し、力あるわざを行っておられました。今朝の場面はそんなイエス・キリストたちを迎える姉妹の話です。


イエス・キリストのうわさは多くの地方に広まっていましたので、今どのあたりにイエス・キリストがおられるかは毎日の話題であった時代です。そんなころ、一行が来られることを聞いたのでしょう、イエス・キリストを迎え入れたのがマルタという女の人でした。彼女は「イエスを家に迎え入れ」(10:38)ました。家に来てもらうための準備をするのも大変なことです。何時ごろ来られるか、到着したらどこへあがってもらうか、お茶菓子はどうするか、食事は、寝床は・・・やることは山ほどあったに違いありません。そうして、ようやく訪問が現実となりました。


イエス・キリストを迎え、家に招くことを待望していたマルタはもてなしました。足を洗うための水を汲み、手ぬぐいで拭き上げ、食事の準備をし、お皿を運んだり、下げたり・・・大変忙しく働いたことでしょう。楽しかったはずのことも目がくらむほど忙しくなり、だんだんと気持ちに余裕がなくなってきました。歩く音が大きくなり、器も少々乱暴に扱うようになったかもしれません。

これではいけないと深呼吸をしようとしたマルタに、ふとマリアの姿が目に入ってきました。何ということでしょう、マリアは何もせずただイエスの横に座っているではありませんか。マルタのイライラはピークに達し、「自分ばっかり働かされている!」という思いが爆発しました。そして主イエスのもとに行き、次のように言います。


「主よ。の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」(10:40)。


ここで、マルタは二人の人を批判しています。一人は、彼女の手伝いをしようとしないマリア(おそらく妹)です。そしてもう一人は、そのことを全く気に留めない様子のイエス・キリストでした。それで「あなたが何も言ってくださらないから、私ばかりが働かされているのです!」と叫ぶように告げています。


もともとマルタは、イエスの「ために」もてなしをしていました。誰からも強制されるのではなく、自発的に行っていました。しかし、気がついたら、「マリアが私だけにもてなしをさせている」と言い、主イエスには「あなたがマリアに何も言ってくれないせいで、私ばかり忙しくなっている」と言っているのです。喜んで迎え入れたはずが、強制と義務感と孤独にさいなまれることになりました。

「マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず」(10:40)そのような発言となりました。


この「心が落ち着かず」とは、詳しくは「外からのもので圧迫されている、妨げられている」、「多くの責任や仕事(タスク)に負担をかけられている」という意味です。マルタの喜び、奉仕、もてなしは今や負担、義務、圧迫へと変容してしまいました。


マルタの心を乱したもの。それは「働いている私」と「働いていないあの人(=マリア)」という他者との比較です。マリアがいなければ、マルタは心を乱し、イライラすることもありませんでした。主イエスのために一生懸命もてなし、仕える喜びを感じられたのです。しかし、そこに「働いていない人」であるマリアに目を向けることによって、彼女と自分を比較し、彼女よりも「働かされている私」が浮き彫りとなり、心を乱してしまったのです。


「あの人は休んでいるのに、私だけが働かされている」、「私にばかり面倒な役割が回される」、「貧乏くじはいつも私」。そして、そんな他者との差があることをまったく気にしておられない主イエスに文句をつけたくなるのです。「神よ、あなたは私をもっと大切にしてくださらないのですか」、「主よ、この状況はいくらなんでも不平等じゃないんです。

「何とか言ってください、主よ!」。

2. 嵐の中で

マルタから強めに言われた主イエスはどうされたでしょうか。「ごめんね、マルタ」、「おおそうか、悪かった、悪かった」、「マルタ、あなたの言う通りだね。わたしからマリアに手伝うように言おうかね」、「マルタ、余裕がないね。ちょっと休んだ方がいいよ」。私ならこんなセリフを思いつき、また言ってしまいそうです。


しかし、主イエスはこのように言います。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」(10:41)


さて、少し頭の体操をしてみましょう(恒例!)このピンチと思われる場面で主イエスは「マルタ、マルタ」と二度名前を重ねて呼ばれました。聖書の中に、神が二度名前を繰り返して語りかける場面がいくつか出てきます。さて、その回数はどのくらいあるでしょうか?一つだけヒントを出すと、アブラハムが息子イサクを屠ろうとするときに「アブラハム、アブラハム」(創世記22:11)と呼ばれました。それと今回の個所ですでに二人です。では、伺います。少し思い出し、考える時間を取りますね。聖書の中で名前を二回繰り返される人は何人いるでしょうか。

答えは・・・(当日のお楽しみにしましょう♪)

二回名前を呼ぶこと、それは神と特別な関係にあることを思い出させる面でなされます。アブラハム、モーセ、サムエル、サウロ、シモン・ペテロ・・・彼らは名前を二度呼ばれることにより、神との関係が刷新されたり、修復されたり、築き直されたりしています。


マルタは、「私とあの人」のことを気にするあまり、「私とイエス」の関係を見失っていました。この地上では人間関係がすべてではありません。神との関係がすべてなのです。マルタの問題は、彼女がマリアを見ることによって主イエスとの関係を見失っていることでした。マルタは主イエスに仕えることにどれだけ大きな喜びがあるのかを忙しさのあまり忘れてしまったのです。そして、主イエスさえも私を働かせて平気、ちっとも気にかけてくれないと殺気立っていました。そんなマルタに、主イエスはご自分を見るように呼びかけたのです。その名前を二度繰り返して。今、あなたが忘れている主の愛がないでしょうか。名前を呼んでくださる御声に耳を傾けましょう。今、あなたから喜びが奪われている事柄はないでしょうか。そこに主との関係を取り戻してまいりましょう。


他の人のことが気になる私たちがいます。人と比べたり、人の評価や言葉を気にしたり、それによって心が揺れたりすることがあります。報われない、いたわってもらえない悲しみや苦しみがあります。もちろん、それを一切気にしないということはできないでしょう。


しかし、私たちが本当に気にしなければならないのは、「私とあの人」ではなく、「私とイエス・キリスト」の関係です。私を愛してくれるイエス・キリストとの関係こそ、私たちが本当に気にすべきことなのです。そして、「私とイエス・キリスト」との関係を確認できたとき、「私とあの人」の関係にも変化が起こります。


イエス・キリストはあなたのことをどのように思っておられるでしょうか。イエス・キリストはあなたのために何をしてくださったでしょうか。主イエスは蔑まれ、のけ者にされ、悲しみの人で、病を知っており、人が顔をそむけるほどの懲らしめを受けられました。十字架にかかりいのちを捨ててくださいました。しかも、私たちがイエス・キリストを愛する前に、愛してくださいました。それどころか、私たちが十字架につけた罪人の側に立っていたもかかわらず、「彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。すべては私たちがイエス・キリストの愛に気づき、圧倒され、その愛を受けるためです。何よりもまず「私とイエス・キリスト」の関係を確かにしましょう。

3. 嵐ののちに

そうして次のように言って結ばれました。

「しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(10:42)。


「必要なことは一つだけ」と言われているのは、イエス・キリストとの関係です。手足を動かすのか、イエス・キリストの足下でみことばを聞くのかという奉仕の種類選択やどちらの奉仕が優れているかという比較論ではありません。だから、ここでは「あなたはイエスのためにどんな奉仕をするのか」、「あなたはAとB、どちらを取るのか」と選択を迫っているのではありません。ここでは「あなたとイエス・キリストとの関係こそが唯一大事なものだよ」と言われているのです。


同様に、「取り上げられることがありません」というのもどちらかの奉仕がなくなるとか、どちらかしかできなくなるということではなく、「あなたとイエス・キリストとの関係は取り上げられることがない」という意味です。マルタは、イエス・キリストとの関係をマリアから取り上げようとしたことが問題として扱われました。


取り上げられることのない唯一のもの、それはイエス・ キリストによって示された神の愛です。2000年前、  イエス・キリストはすべての人のために、その罪を負って十字架にかかって死んでくださいました。その無償で 無限の愛は、今日の私たちにも向けられています。神の愛を取り上げることは誰もできず、神の愛から引き離すことは何によってもできません。


「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか…私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:35-39)。


最も必要なことであり、取り上げられることのないイエス・キリストとの関係がマルタにも、マリアにも築かれることがこの出来事のポイントです。そして、あなたにもイエス・キリストとの深く、強い関係が結ばれますように。


最も必要なイエス・キリストとの関係を意識したいと願います。決して変わることのないイエス・キリストと愛の関係を築きたいと願います。


実は、このあとマルタとマリアがどうなったのか、ヨハネの福音書で知ることができます。

「人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し・・・一方マリアは・・・イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12:2-3、11:28-31も参照)。


この出来事の後も相変わらずマルタは働いてマリアは座っています!しかし、彼女たちは「必要なことは一つだけ」と知っており、分かり合っていました。それは、ただ一つ、主イエス・キリストを愛し、仕えるということです。それでマリアがいっしょに出迎えて来なくても、香油を主イエスの頭に注いで、そのことが世界中で記念として語られる(マタイ26:13)と称賛を受けても、再びマルタの心が騒ぐことはありませんでした。マルタは自分のわざや義の上ではなく、キリストの愛とみことばの上に信仰生活を積み上げるようになったのです。


イエス・キリストは、私たちの名前も繰り返し呼んでおられます。決して取り上げられることのない愛で愛しておられます。あなたの名を呼んでくださる方を受け入れましょう。あなたを愛してくださるこの方を主としましょう。ともに救い主のお名前を呼んで助けを求め、恵みを受け取り、力ある証しをしてまいりましょう。


閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示

「天と地をつなぐ礼拝」

聖書箇所 : ヨハネの黙示録5章:6~14 はじめに 今朝はヨハネの黙示録をごいっしょに見てまいります。 黙示録は聖書の一番最後にあり、神の救済の歴史もこの書で終わり=完成に至ります。黙示録と聞くと、何だか怖そう、意味が分からない気がする、この世とは別物のように感じる・・・と敬遠したくなるかもしれません。確かに福音書などと比べて、とっつきにくい印象はあるでしょう。ただ、神の救いの計画の全体を知って

「唯一の希望」

聖書箇所 : 詩篇22篇:1~5節 はじめに 神の祝福をいただくことは人の根源的な願いです。 神さまに祝福を願ったのに、まったく違う結果になったという経験はありますか? 聖書には、神からの命令と祝福とが対になっている箇所を見つけることができます。 たとえば「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)とか「すべて疲れた人

「いつも主をたたえる」

はじめに 2024年、私たちの目当ては礼拝の生活をすることです。それは会堂だけでなく、家々で。それは日曜だけでなく、日常で。礼拝の生活を続ける鍵となるのは、①みことば、②祈り、③交わり、④証し、⑤賛美です(多い!)。 みことばは大きなところでは、礼拝でともに聴きます。礼拝では、同じみことばをいっしょに味わいます。旧約聖書の時代から主なる神は、個人はもとより、夫婦や家族、種族や民に向けて語っておられ

Comments


bottom of page