福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「心の目で神を見る」

更新日:9月21日


聖書箇所:エペソ人への手紙1章15-19節

Ⅰ.見聞きされる信仰(15-16節)

1. 主イエスに対する信仰

今年の福岡めぐみ教会のテーマ聖句はⅠコリント13:13「信仰と希望と愛」です。今朝のエペソ人への手紙1:15からはその2つ「信仰と愛」が併記されています。1つ目は「信仰」であり詳しくは「主イエスに対するあなたがたの信仰」(15節)です。手紙を書いているパウロは「あなたがたの信仰を・・・聞いている」としています。「信仰を聞いている」という表現に改めて着目すると、ハッとさせられますね。


これはいったいどういうことでしょうか。もし、あなたが誰かに「あなたの信仰を聞かせてください」と頼まれたら、どうしますか?「あー、えー、うー」と言葉に詰まってしまうでしょうか。「私は毎週教会行っていますから、それが信仰です。もう表れています」と半ばやけになって説明するでしょうか。あるいは「私の信仰とは、まず三位一体の神がおられ、決して誤りのない聖書を神の言葉として信じ、この天地すべては神が創造され・・・・・・」と詳しく話すでしょうか。そうしたら、それはいったいいつ終わるのでしょう?本当にそのことで、「あなたの信仰」が伝わるのでしょうか。


このところでパウロが「あなたがたの信仰を聞いています」と書いているのは、決して上記のような意味からではないと思います。たとえば、エペソのクリスチャンだけが毎週休まずに礼拝をしていたとか、突出して献金額が多かったとか、賛美が上手だったとか、性格が良かったとか、伝道の説明が上手だったというわけでは決してないはずです。パウロは同じ手紙の中で「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません」(4:26)とか「だれにも空しいことばでだまされてはいけません」(5:6)、「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」(6:7)などと様々な命令を書き送っているからです。これは、彼らが全部できていたらわざわざ書いてよこしません。彼らの霊的成長や立て直しのために必要な事柄であったからこそ、そうした奨励をたくさん書いています。


であれば、もっと別の要素から「あなたがたの信仰を聞いていた」ということになります。それは、エペソ教会からは「イエスさまを愛している」「イエスさまに感謝している」という姿が、声が聞こえていたということではないでしょうか。周囲にいる人たちは、エペソのクリスチャンからはイエスさまを本当に信頼していることを感じる。このときパウロは遠くにいましたから、そういった彼らの信仰を聞くことによって喜びを覚えていたのです。「エペソのクリスチャンたちはイエスを主として信じている」「いつだってブレない」彼らの姿は完璧ではなかったにしても、彼らが誰のために生きているのか、誰によって生かされているのかについては、誰からも否定できない「主イエスに対する信仰」が現れていました。


これが、今朝の私たちに対する第一のチャレンジです。福岡めぐみ教会からはどんなことが見聞きされているのでしょうか。ひまわり以外に、神の素晴らしさを伝えているものがあるでしょうか。教会といわず、あなた自身から外側へどんなものが現れているでしょうか。周囲にどんな声を聞かせているでしょうか。それが「主イエスに対する信仰(信頼、感謝)」であるようにと願います。


2. 聖徒たちに対する愛

2つ目は「愛」であり「すべての聖徒に対する愛」(15節)です。要するに「信仰と愛」はつながっているのです。それぞれ別個に存在するわけではありません。たとえば「あの人は信仰深いけど、愛には冷たい」というのもありえません。必ず両立し、両方存在するものです。信仰が主イエスに対するものであったのに対し、愛は「すべての聖徒に対する愛」です。教会やクリスチャンは、社会に対する奉仕、愛はもちろん大切ですが、聖書に記されているのはまず「あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」(1ヨハネ4:20)とあるように、主イエスを信じる兄弟姉妹の間で、キリストの愛を輝かせることが命じられています。


さらに「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました・・・ですから、私たちも自分の兄弟のために、いのちを捨てるべきです・・・私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」(Ⅰヨハネ3:16、18)と兄弟姉妹間での愛については大変厳しく記されています。


先週、※※※※兄の前夜式、葬儀を行いました。それぞれ3人のお子さんに思い出を語っていただきました。長男の方が挨拶で「残された母のことが心配でしたが、教会に来て、本当の兄弟姉妹のようにみなさんが交わりを持ってくださっているのを見てすごい、安心しました」と言われました。私はそれを聞いて素直に嬉しかったです。彼はこの福岡めぐみ教会に現れているものが「兄弟姉妹の愛」であることを感じ取ってくれたからです。


それは、オブジェや観光名所のように【ここに愛があります】というものではありません。もっと具体的な形、感覚で長男さんは愛を感じ取られました。皆さんの表情、信子姉妹にかける言葉、葬儀一式にかかわる所作や奉仕・・・・・・挙げたらキリがありませんが、一つ一つの具体的な動作、言葉によって、愛が伝わったのです。


「すべての聖徒たちに対する愛」をまず私たち互いの間でありありと現しましょう。頑張って愛を絞り出すのではなく、主イエスに対する信頼から来る愛で、あふれて愛し合いましょう。の目を開いて(17-18節)

「すべての聖徒たちに対する愛」をまず私たち互いの間でありありと現しましょう。頑張って愛を絞り出すのではなく、主イエスに対する信頼から来る愛で、あふれて愛し合いましょう。


Ⅱ.心の目を開いて(17-18節) 1. 神を知ること

次の17節から23節まではパウロの祈りになっています。今朝はその前半部分19節までを残りの時間で見ていきます。


パウロがエペソ教会に、そして私たちクリスチャンに獲得してほしいものを祈ってくれています。それは「神を知るための知恵と啓示の御霊」が与えられるようにという祈りです。要するに「神を知ること」がクリスチャンにとっての生命線、活力になるということです。


では、「神を知る」とはどういうことでしょうか。どういうことが「神を知る」ことになるのでしょう。優等生の回答は「聖書を読むことです」「みことばから神を知ります」となるかもしれませんね。たしかに、まず「聖書」「みことば」は神を知る上でもっとも大切で、確かな源です。ただ、聖書を読むことだけが神を知る唯一の方法ではありません。主イエスご自身は「空の鳥・・・野の花を見なさい」(マタイ6:26、28)と言われました。マタイ13章では立て続けに「天の御国はからし種に似ています」(13:31)、「天の御国はパン種に似ています」(33節)、「天の御国は畑に隠された宝のようなものです」(44節)、「天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです」(47節)とたとえ話を使って、神の国の奥義について教えておられます。


これらは、何を教えているのでしょう。それは、これらから「神を知ることができるのだよ」ということです。ですから、聖書を正しく読めるのに越したことはありませんが、それだけが神を知る尺度、深さにはなりません。むしろ、私たちが身の回りにある事柄から神を知ることの大切さを教えているのだからです。それが、エペソ教会のクリスチャンたち、福岡めぐみ教会のクリスチャンたちの成長の秘訣(カギ)です。私たちが特に、礼拝において聖書を大事にしみことばの語られることに集中するのは、この聖書箇所の意味を知るためだけではありません。そこから神を知るためです。さらに、その神を知る知識が、聖書の中だけでなく、実際に私たちの生活の場において、日常のステージにおいて、神を知っていく信仰をもたらすために、みことばを学んでいるのです。そうして初めてみことばに生きることができ、神を知る楽しさ、神を知る深さを味わい、芽生えた信仰が成長していくのです。信仰生活を送る意味の手応えを感じていくのです。


2. 心の目

神を知ることは、決して聖書の中だけでない。教会という狭い世界の中だけではありません。むしろ、みことばを入り口、きっかけとして人生すべての時間、すべてのステージにおいて神の存在、具体的な導き、破格の恵み、厳しい戒め、ご自身に引き寄せるための試練等を味わい尽くすのです。


そのために私たちは頑なであってはなりません。続けてパウロは「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって」(18節)と祈ります。実際に目の前で起きている事柄だけを見て神を知ることができるのであれば、「心の目」は必要ありません。しかし、私たちには「心の目」が必要なのです。なぜなら、目の前に起こる出来事は自分にとって不都合であったり、試練であったり、不可解であったり、恨めしいことであったり、呪ってしまいたくなるようなこともたくさん起こるからです。そんなとき、自分の行いのせいにしたり、言い訳をしたり、人に責任をなすりつけたり、境遇を嘆いたり、自分の存在やいのちを粗末にしたくなることが多々あります。


やかんを触って「熱い!」とか、ころんで怪我をして「痛い!最悪!」というのは、単なる反射、反応です。私たちはそうやって神を知るのではないことを教えられます。例えば「今日はいやなことがあった。神さまは味方なんかじゃない」「あんなに祈ったのに結果は悪かった。神さまは祈りなんて聞いてくれない」と起こった事象や出来事をどう感じるで、私たちが神を知るを測っていたら、それは信仰どころではなくなります。良いことが起これば、「神さまありがとう」もしくは「自分は幸運!今度もこうしてみよう」となるし、悪いことが起これば「神さまひどい、もういない」「私なんてどうしようもない。ツイてない」「あの人のせいだ」と結論づけて終わってしまいます。


けれども、そうした反射、反応によって神さまを知ろうとするのではなく、ここに祈られているように「心の目」によって神を知ろうと探るならば、どうなるでしょうか。起こった事象や出来事とは違った側面が見えてくるはずです。しかもここの箇所は「心の目がはっきり見えるように=より明るくされる」とあるように、もともと私たちの内側に備えられていた心の目=神さまを探り求める目がよりよく見えるようにという意味です。


別の箇所では有名なところで「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)とありますね。心の目を信仰と置き換えても良いと思います。そうすると私たちは神を知るために、目で見ているものからだけではなく、目には見えていないけれどもそれを「確信する」力こそ信仰であり心の目で神を見るということになります。


今は不安でいっぱいだけれども、神がともにいてくださることを確信する心の目。

この出来事がなぜ起こったのか今は理由がわからないけれど、意地悪やいたずらをされない主を信じる心の目。

自分でも、最新の医学でも見通すのことのできない身体の病を癒やしてくださる主に祈る心の目。

長年の課題がいっこうに良くならない、解決しないけれども、今日礼拝をし、賛美をするにふさわしいお方は神であることを確信する心の目。

何よりも私を支えているのは、学力でも経済でも評判でもなく神がこの存在を支え、しかも愛してくださっていることを見る心の目。


心の目で主イエスを信じていく可能性をより高く、深くさせていただきましょう。心の目がもっと照らされ、明るくされ、神の力がどれほど偉大であるかに圧倒されたいと願います。


Ⅲ.神のすぐれた力(19節)

1. 信じる者にこそ働く

今朝の結びに、心の目で神を見ていくとどのようになるのでしょうか。私たちが先のすべてのことを見通せて、何が起こるか分かっているから安心、これからどうなるか知っているから大丈夫。心の目があるさ!と陽気に歩むためではありません。


心の目は、神を知ることだけに限らず、その神が与えてくださる「望み」と「受け継がせてくださる遺産・相続」がどれほどのものであるのかも見せてくれるものです。「望み」や「受け継ぐもの(遺産)」も今は目に見えていないものです。目に見えるものは誰もそれ以上望みません。すでに手に入れたものに憧れはしません。私たちは、さらにすぐれたものにこそ憧れをいだき、御国の完成を望み続けます。希望を持ち続けるのです。それは単なる意地、意志の強さからなるのではなりません。


実に「信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを知る」(19節)のが今日の帰結です。私たちは心の目を通して神を信じます。そして神の力が働きます。どんなときにも希望を持ち続けることができます。それは孤独のうちに自分が立ち続けるものではなく、この自分を愛し、決して離れず、いつまでもかたわらにいてくださる神がいることを知っているからです。


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