聖書箇所:第一コリント人への手紙12章8-13節 |
今朝は、さらにそれらの賜物の詳細から始まり(8~10節)、賜物→奉仕→働きが結局=究極何のために、どなたのためにあるのかというところまで到達していきます。ご一緒に、神の言葉を聴く期待感と姿勢とをもって過ごしてまいりましょう。第一コリント12章1~7節までを二週に渡って見てきました。私たちは「イエスは主」と告白して歩む者です。そして、イエスが人生の主になると(お迎えすると)、自らに与えられている賜物を理解し、その賜物を主と人とに仕える奉仕のために、またそのささげた奉仕が神の働きのために用いられるという道に生きるようになることを学びました。
Ⅰ.照らす賜物(8~10節)
1. いろいろな種類の賜物
本日のはじめの3節は「ある人には」でつなげられています。あの人には・・・この人には・・・と続くわけですが、それは「賜物はいろいろ・・・奉仕はいろいろ・・・働きはいろいろ」(4~6節)と見てきた展開のその2のような流れです。聖書はその内容の確かさはもちろんのこと、文学的にも語句やリズムがきれいにまとまっているのを発見することもできます。そして、そのことを知るともっと聖書に親しみを抱きやすくなります。
この8~10節のリストは大きく3つに分けることができます。グループ1は「知恵/知識のことば」、グループ2は「信仰、癒やし、奇跡、預言、霊を見分ける力」、グループ3が「異言、異言を解き明かす力」となります。こうしてみると、1は「ことば」についての賜物、2は「神の働きが五感で分かるように示す賜物」、3は「ことば」についての賜物その2、です。もちろん、これら一つ一つに意味がありますが、「賜物はいろいろ」とか「ある人には」と続いているように、ここですべての賜物を挙げているわけではありませんから、詳細を見るよりも、全体図を把握して、これら全体が何を言おうとしているのかをつかむことが大事かと考えます。
では、これらのリストからいったい何を教えようとしているのでしょうか。この12章の始まりは「私はあなたがたに知らずにいてほしくはありません」(12:1)とあり、これからの内容をぜひ知っておいてほしい!というパウロの熱意ある手紙部分です。もう一度質問します。これらのリストを通して、神はいったい何を語っているのでしょうか。ここから、私たちはいったい何を理解するように求められているでしょうか。
例:どの人にどんな賜物があるのか判定する
自分にあった奉仕を探す
ここを読んでから癒やしの賜物があるか試してみる
2. みことばが分かるように
実は、これらのリストで共通しているのは「神をよりよく知ることのできる賜物」です。グループ1の「ことば」は神の言葉のことであり、聖書です。ただ一般的な知恵や知識に長けていることを賜物と呼んでいるのではなく、神の知恵のことばを理解し、教える賜物であり、神のことばの知識を正しく持って、分かち合うことのできる賜物のことです。学校の試験やテストができる人が神のことばを知ることにも長けているのではなく、ただ「御霊を通して」その賜物を与えられている人が、神のことば・聖書を知恵として吸収し、知識として蓄えて伝達することができるのです。聖書の理解も、聖書を教えることも聖霊による賜物・ギフトであり、知的能力や学業成績とは無関係です。
グループ2はたくさん並んでいますが、これらはすべて神を現すわざになっています。信仰は、人が本当にへりくだり、自分を捨てていなければ持つことができません。「信仰深い人」を見ると、私たちはその人がすごいではなく、その人を通して神さまを見るから嬉しくなります。その人ではなく、神さまを映し出している人が信仰深いという真の意味です。
次の癒しや奇跡も同様に、もしそのような賜物があったとしても、それをその人の成果にはしない人。神が今働かれた!ということがはっきりと分かることです。昔、ロシアからの宣教師が東北地方の人々の足のあかぎれを見て、次の訪問に石けんを持参し、ぬるま湯で洗ってあげました。すると、人々の足の皮膚が洗浄され、傷やかゆみが回復したので、彼らは「宣教師は魔法使いだ」と呼びはじめたという日記が残されています。現代は、医療や看護を通して、また薬やケアを通してさまざまな癒やしや奇跡が行われています。災害ではキリスト教会のネットワークが救援や支援活動に協力して、その土地と人々に仕えていますね。
またある人は「癒し系」と称されることもよく耳にします。なんとなく優しそうな、無害な、無印良品みたいな人。ただ、そこにキリストの香りをしっかりとかぐわせている品性の賜物をいただきたいと願います(私とは正反対でしょうか♪)。
「預言」はみことばによって励ましを与える人(使徒の働き15:32「ユダもシラスも預言者であったので、多くのことばをもって兄弟たちを励まし」)を指します。次の「霊を見分ける力」は、それら励ましのことばを語る人を選別する力を与えられている人です。これは、今の執事会にも当てはまります。牧師の説教が聖書からズレている・・・洗礼を受けたいと願う者の証しを読んでその時期を判断する・・・非常に重要な決断をしなければなりません。そんなとき、執事会ができるのは経験値やその場の雰囲気ではなく、聖霊に頼って判断をさせていただくことです。そして、時には厳しいことや言いにくい話題にもしっかりと取り組まなくてはなりません。これらはすべて聖霊に頼ってこそ、なせる働きです。
グループ3の異言とそれを解き明かす力は、特にこの新約聖書の初代教会の時代に顕著な賜物であったようです。それっぽいことを言う人誰もが教会での教師になったり、教えの権威を持つのではなく、それが解き明かされて、皆に理解されてその語る内容が正しく明瞭であることが大事です。
「エズラは民全体の目の前で、その書を開いた・・・彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した」(ネヘミヤ記8:5~8)
これらグループ1~3に共通するのは、賜物は「神の栄光、神のことば、神の力を他者に明らかに示す」ものであるということです。それらはすべて聖霊から与えられています。聖霊の働きは「照明」「照らす」ことです。私たちそれぞれに与えられている賜物は、神さまを照らすためのものです。私たちの賜物、奉仕、働きはすべて神の素晴らしさを人に伝え、示すためのものです。
Ⅱ.一つのからだ(11~12節)
1. 11節:神の深いお考え(熟考)により
賜物は聖霊が与えてくださいます。誰一人同じ種類、同じ量の賜物をいただいている人はいません。顔のつくりがみんなと違うように、賜物に関しても誰ともかぶりません。その賜物は「御霊がみこころのままに」(11節)分け与えるとあります。よくクリスチャンや教会でも「みこころ」という言葉を使います。神さまのご意思とかお心とも理解しています。そして、このところで使われている言葉は「熟考する」という意味の語です。私たちに、そしてあなたに与えられている賜物は、聖霊なる神さまが、熟考の下与えてくださった宝物です。決して粗末に、無下にはできません。神さまの深いお考えに基づいて与えてくださったものなのですから。宝の持ち腐れ、ふてくされはよくはありません。私たちはよく考えもしないで買い物をしたり、決断をして後悔することがあります。反対によく考えて家具などを選ぶとサイズもピッタリ合います。そして、それを見るたびに満足感があふれてきます。
神さまは、あなたをどのように見ておられるでしょうか。熟考してあなたを備えられました。そして、今も導いておられます。神さまのお顔に後悔はありません。熟考のもとにあなたを練り上げ、造り上げておられるからです。神さまが満足されているのであれば、それを私たちの土台にし、その視線をたくさん浴びたいものです。
2. 12節:部分と全体
そして、一人として同じ賜物、同じ分量でないのには、理由があります。それは誰もが「部分」(旧訳では器官)だからです。部分は全体のためにあります。小さなパーツでも抜けてしまうと全体がヨレヨレになり、成立しないこともたくさんあります。一人で完結しないのには理由がここにあります。あなた一人で生きていないのには理由がここにあります。あなた一人で何でもできなくてよい。あなただけが頑張るのではない。全体はもっと多くの部分によって成り立っているからです。それは、一般社会の組織論ではなく、「キリストもそれと同様」(12節)」という真理を教えるためです。ここでの「キリスト」とは「キリストのからだ=教会」の省略ですね。あなたはただ全体の中の一部というのではなく、組織の歯車の一つでもない。実に、イエス・キリストのからだの一部分です。何よりも大切な部分を他でもないあなたが担っている。担うどころか、あなた自身がその欠けてはならない部分そのもの。
例にあるハンバーガーは、色々あって美味しくなります。これとこれが合うの?という意外な組み合わせが絶妙な味わいになります。私たち、自分は良いにしても、隣に座っている人、またその隣の人を見てください。どうですか?人間的に見れば、決して交わることのなかった者同士かもしれません。性格的に一致なんて望めない者同士だったかもしれません。けれども、私たちは今ともにキリストのからだを形成しています。これこそ、神神さまの深いお考え、ご計画、熟考によるものであり、神さまのなせるわざです。自分じゃ足りない、あの人とは無理・・・そんな考えはいっさい捨てて、キリストの豊かさを味わいましょう。なぜ、神さまは私をここにおかれたのか、ここにいることをよしとしてくださっているのか。驚きと感謝をもって過ごしましょう。そして、互いに「いてくれてありがとう」と励まし合いましょう。それは、主をほめたたえることであり、主が喜ばれることだからです。
Ⅲ.新しいいのち(13節)
1. たった一つの原因
私たちがキリストのからだの部分とされたのは、たった一つの原因によります。どの国、どの時代、どの立場であっても、原因は人間にはありません。ただ、御霊なる神が、あなたを決心へと導き、バプテスマ(洗礼)にあずからせてくださいました。「みな一つの御霊を飲んだ」(13節)とあるのは「御霊を飲まされた・注がれた」という意味の言葉です。私ではなく、主が私の主となってくださり、人生を正しい道筋へと導き、キリストのからだへと引き入れてくださいました。それこそが、私たちそしてあなたの人生の舞台です。
2. どこから来て、どこへ行くのか
人の最大の問いは「自分はどこか来て、どこへ行くのか(向かうのか)」というものです。私たちは神の言葉からこれらの答えを知っています。御霊なる神によって新しく生まれ、神の国の完成を目指して歩みます。それは他のどんな目標よりも尊いものです。なぜなら、神の国は永遠に堅く立ち、永遠に残るからです。この最高の栄誉のため、私たちは今日も礼拝をし、ともに歩みだします。
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