聖書箇所 エペソ人への手紙2章4~7節 |
Ⅰ. しかし、神は(4節)
エペソ書のテーマは「神との和解」「人との和解」です(先週もはじめに確認しましたが、毎週このことを確認して始めるとよいと考えています)。
今朝の始まり「しかし」は、私たちにとってまさに福音となります。2章1-3節で見てきた私たちの本性はどういうものであったでしょうか?「背き(違反)と罪(義の欠如)のせいで死んでおり」(1節)、「悪しき霊の奴隷として生きており」(2節)、「生まれながら神の御怒りを受けるべき子」(3節)でした。人にはそのように見えていなくても、人にはそうではない者のように見せることはできても、神の御前では、誰も自分を誇ることができません。このことを書いてきたパウロ自身は、人に対しては知識も行いも誇ることができた人物です。生まれてから神の律法を学び、それを守り行うことでも群を抜いて他者より秀でていました。それでも、復活の主イエスに出会ったとき、罪なき正しい人、神の御子が十字架にかかって死なれた、その意味を知ることになりました。それ以後のパウロは、それまで見ていた目で生きることはせず、うろこのはがれた目で生きるようになりました。すなわち、迫害していたイエス、嫌っていたイエス、敵対視していたイエス、罪の罰を受けて死んだと思っていたイエスを見るのではなく、すべての人の罪の身代わりになって死なれたイエス、全人類を救ってくださるイエス、自分の過ちに気づかせ新しい道を用意してくださるイエスを見るようになったのです。
今、私たちはイエスをどなたとして見ているでしょうか?聖書に書かれている人物として見ているなら、この朝そこから飛び出してあなたの目の前で語ってくださるお方として見ることができますように。親に連れられてここに来ているんだと何気なく見ているとしたら、自分の救い主として現れてくださるように見ることができますように。あまり関係ないやとぼんやりと見ているとしたら、はっきりこの方が救い主であることを見ることができますように。イエスなしでも生きていけるし・・・と考えているならば、この方がいないと死んだままだ、生きていかれない!と目が開かれますように。
死んでいた私たち、この世の霊の奴隷として生きていた私たち、神の御怒りを受けて当然の私たち。これが私たちの基準、スタンダードです。人類は知恵において進歩します。石器時代の人々よりも自分たちは賢いと主張するかもしれません。技術も進歩します。昔よりはるかに便利になり、頭脳や力量の高い機械を作り動かすことができます。治せなかった病気が治るようになってきました。移動時間も速くなり、世界中どこの食べ物でも手に入れることができます。それでも悲惨な事件や出来事はあとをたちません。どれだけ生活が楽になったり、知識を積み重ねても終わりがないのです。犯罪はますます巧妙になり、詐欺被害は年々増大しています。しかも、詐欺の手口は荒々しいものではなく、甘く優しいものであったり、人の弱み(家族の救済依頼など)に巧みにつけ込むものになっています。これは知識や技術によって、人の住む世界が良くなるばかりではなく、かえって悪くなっているのではないか。かえって暗やみが広がっているのではない、と思わせられるものです。
世界がいぜんとして悪に満ちているのは、人の学び方が悪いからでしょうか。政治家が悪さをしているからでしょうか。警察がなまけているからでしょうか。まだまだ経験が足りないからでしょうか。いいえ、聖書によれば、このエペソ2章によれば、「人の罪」こそが問題であると告げています。知識や道徳で人は改善されません。新生しません。罪の問題が解決されないと人は変わらないのです。
こんな話があります。ある人が信号無視をして警察に捕まりました。そしてこんなやり取りをするのです。
警官「あなたは赤信号が見えていなかったのですか?」
Aさん「いいえ、はっきり見えていました。」
警官「では、なぜ信号無視をして、停まらずに走行したのですか?」
Aさん「あなたのことが見えていなかったからです。警官がいることがわかっていたら、停まったのに。チクショウ・・・!」
これは人間の罪深さをよく表していますね。私たちは警官でなく「神が見ていない」ことを前提に生きています。いいか悪いかは自分が決める。人が見ていなければ、捕まらなければ、バレなければ良いのだ。うまくやっていける。だって、誰も見ていないのだから。
こうして、私たちが人はもちろんのこと、神を抜きに考えて生きていると、罪は増大し、悪い出来事、事件、考えはなくなることがありません。まさに、この背きと罪のゆえに死んだ世界に私たちはいるのです。神を見ることがないので、何も恐れることなく、悪びれることもなくやり過ごしています。ただ、それは死と暗やみの世界。やられたらやり返す、復讐と勝ち負けの世界。競争と争いばかりで救済のない世界。自分の気分がよくなることだけを考えて赦しのない世界です。家にはカギをかけ、駅には改札があり、お店にはセキュリティがあり、ドライブレコーダーが必需品となっています。これらは人間がどれほど罪深いのかを示しています。神を見ることのない世界です。
このように背きと罪の中に死んでいた私たち。暗やみの霊に従っていた私たち。神にすべてのことを見られてしまったら、御怒りを受けて当然の私たち。それを受けて今朝の4節があります。「しかし、神は」と。もし、そのまま罰をくだすのであれば「だから、神は」となるはずですね。「それから人は神の怒りにふれて滅ぼされました」でもいいはずです。この4節に、驚きをもちましょう。「しかし、神は」なのです。ここから福音が始まります。
Ⅱ.私たちを(5-6節)
「しかし」とあるので、背きと罪で死んでいた私たちがそのまま放置されて死んでしまうという展開ではありません。その逆のことが起こったのだというのです。「しかし」にはその方向転換があります。そして「神は」とあるのは、この罪の問題に対して、神が介入されたことを意味します。罪の問題とは、社会悪とか社会問題とかではなく「私たちが罪の中に死んでいる」問題のことです。私たちはすでに死んでいるので、自己救済することができません。誰か他の人に助けてもらうこともできません。その人も同じように罪の中に死んでいるからです。そのために「しかし、神は」と文字だけでなく、実際に身を乗り出して救いのみわざを始めてくださいました。人は自分で自分を救えない。他者によっても救われない。だから「キリスト」なのです。5節から7節まで各節に「キリスト」「キリスト・イエス」と出てきます。罪からの救いが「キリスト」によってなされるのだという明確なサインがここにあります。
キリストは、背きと罪の中に死んでいた私たちを救い出すために、天の御座をおり、人となられました。自らを低くし、死ぬことにも従われ、十字架の上で死なれました。そして1章20節にあるように「死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせ」すべてを支配する王として君臨しておられます。
これと同じことが私たちに起こっていると押しています。5節では「背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かし」、6節では「キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて」とあります。これは、イエス・キリストがたどっt道を同じです。死んでよみがえり、神の右の座に着かれたキリスト。そのキリストを信じる私たちもまた、同じように死から生かされ、よみがえらせ、天上に座らせてくださいます。かつての私たちの居場所は背きと罪の死、神の御怒りを受けるポジションにいましたが、今や救われて天上にキリストとともに座っていると告げるのです。驚くべき変化です。どうしてこのようなことが可能となったのでしょうか。
それは、この変化を記している動詞に注目すると分かります。
「生かし」(5節)「よみがえらせ」「座らせ」(6節)は全部接頭辞に「ともに」が付いています。もちろん、ここは「キリストとともに」という意味です。私たちは、罪の中から救い出され、死者の中からよみがえらされ、今やキリストとともに生きる者とされました。救いは必ず「●●から○○へ」という両方が大切です。死からいのちへ、罪から赦しへ、この世から天上へ、闇から光へ、不従順の霊からキリストの支配へと私たちは移されました。神の御怒りを受けて当然の者が、キリストとともに天上に座っている。
ただ、覚えておきたいのは、キリストは確かに十字架につけられ、三日目によみがえり、天に昇り、父なる神の右の座についておられます。私たちは・・・「ともに生かされ、ともによみがえらせ、ともに天上に座らせ」とありますが、まだ地上での生涯の途中です。これが信仰者が「地上では旅人であり、寄留者」(ヘブル11:13)とか「旅人、寄留者」(第一ペテロ)2:11)と言われている理由です。私たちがキリストとともに生かされ、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに天上に座っていることを「見るようにして」生きることが信仰の旅だからです。信仰は「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)です。
信仰とは、私たちがこのことについてどう思うか、どのように考えるかではなく、何が真理か、何が真実かです。自分がキリストとともに天上にいるなんて考えられないと言って、このことを相手にしないのは、自分の知識・認識に頼っているしるしです。信仰は、キリストがなされたみわざの数々の意味をよく考えることです。信仰は、キリストについて、私たちの罪について聖書が教えていることに対して、どう応答するかということです。その時、自分の知識によってそれらを退けるなら、それは信じるということよりも、分かるという土台で結論を出していることになります。イエスさまは「あなたはわたしのことを知り尽くして、理解しなさい」とは言われずに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。そして、闇雲にわけも分からずやけくそで信じるのではありません。この聖書に記されたキリストにある出来事を、救いを神の言葉としてそのまま受け入れることを信仰と言います。私たちはみな、自分の信仰をこのみことばに置く共同体です。死んでいた私たちを救ってくださったキリスト。この世で終わりではなく天を目指して歩み続ける喜び。キリストとともに歩みましょう。
Ⅲ. 救ってくださった(4-7節)
本日の結びに、この救いを与えてくださった神さまが、どのようなお方かを見ていきましょう。「しかし、神は」と私たちに介入してくださったお方についてです。
神のご性質が記されています。「あわれみ豊か」、「愛してくださった大きな愛」(4節)、「慈愛」、「限りなく豊かな恵み」(7節)と実に4つのご性質が書かれています。ここを整理しておくと、どうして神が私たちを救ってくださったのかが分かります。その理由は神があわれみ深いからであり、神が愛であられるからであり、神が慈愛に満ちておられるからであり、神が豊かに恵んでくださるお方だからです。救いの要因がここにあります。1ミリも「私たちのおかげで」ということが入り込む余地はありません。実に100%救いは神の側に動機と原因があります。だからこそ、私たちは救いを確信することができるのです。1グラムも私たちの行いにかかってはいません。もし、そうであれば救われる人と救われない人が出てきて、確信のある日と不安な日とが訪れることになります。しかし、神は完全にご自身によって救いを与えてくださいました。それは私たちが救われていることに確信と平安を持つためです。
神はあわれみ深いお方です。あわれみは上から下へと注がれます。力ある者から弱い者へと注がれます。大きな者から小さな者へと注がれます。神は私たちをあわれんでくださるお方です。
神は自由な愛で愛してくださいます。それは私たちがどんな者であるかは影響しない、ということです。私たちの良いところを見て愛するのは、条件付きの愛です。人間同士はこの愛の結びつきによります。だから、嫌な部分を見ると同じように人を愛せなかったり、いつも愛されているという自信を持つこともできません。しかし、神は実に自由な愛、大きな愛で愛してくださいます。神から、神ご自身のご性質にもとづいて愛してくださるのです。
神は慈愛に満ちておられます。慈愛は具体的なものです。キリストによって超具体的に慈愛を注いでくださいました。
神は恵み豊かなお方です。恵みは「いただけるはずのない者、受ける資格のない者に与えられる祝福」です。私たちには資格がないにもかかわらず、神は恵みによって救いを与えてくださいました。
それで5節にはこうあります。「あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」 これは完了形で記されています。キリストのみわざを信じるならば、私たちはもう「救われている」のです。救われた事実。これがひっくり返ることはありません。だからこそ、私たちは神に信頼し、神を礼拝し、神をほめたたえ、神を喜ぶのです。
「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」
<了>
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