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福岡めぐみ教会

日本同盟基督教団

「愛のうちに歩も。」


聖書 エペソ人への手紙5章1~7節

アドベント~クリスマス、私にとって初めて福岡で過ごしました。キッズクリスマス、佐賀バイブルチャーチ、イブ礼拝、キャロリング、クリスマス礼拝、祝会、ジュニアクラスでの年越し泊り会・・・多くの恵みを味わいました。キリストを中心に集えましたこと感謝します。また、私たちに救い主が与えられた福音をすべての人に喜び伝える福岡めぐみ教会の軌道を、今年も続けて力を増して進みたく願います。

今朝からふたたびエペソ人への手紙に戻ります。1章で神の救いの計画、2章で恵みによる救い、3章で祈り、4章からは新しくされた者の生き方と続いてきました。本日から5章に入り、最後6章まで春前に学び終えましたらと考えています。


Ⅰ. 私として生きる(節)

  1. 獲得するか

「私(たち)が誰であるのか」。これは「アイデンティティ/identity」とも言われ、永遠のテーマです。「あなたは何者ですか?」と質問されたら、どのように答えるでしょうか。名前、国籍、年齢、家系、職業、身長体重、性格、特技、星座・・・などで答えるかもしれません。この質問は、あなた自身の存在意義を問うものなので、しっかり答えられるほど生きる上で重要な支えになります。たとえば、「名前」で答えたとします。私であれば「私は大塚史明(おおつか・ふみあき)です」と。これは、「どんなときも大塚史明として生きていきます」という意思表示になります。このアイデンティティは、今礼拝をご一緒している皆さんには理解してもらえるかもしれません。「ああ、牧師なんだな」とか「そういう性格でずっといくんだ」とか「名前に誇りを持っているんだな」など印象を持つことでしょう。しかし、私のことをまったく知らない人や言語や文化が違う人に「私は大塚史明として生きています」と言っても通用しません。すると、私の名前の意義は失われてしまいます。それ以上「あなたは誰なのですか?」とつっこまれたら困ってしまいます。また、人に納得してもらう前に、自分自身でも答えをつかんで握っていることが大事です。自分がいったい何者なのか。世界の人から理解されなくても、私が私でいることの意味は何でしょうか。


ある人は「勝つこと」で自分自身を証明しようとします。また、ある人は「善を行うこと」で自分自身を証明しようとします。そのほかにも健康や美、知識や持ち物で自分を証明しようとします。それは、勝つことで人々が自分の存在価値を認めてくれるようになるからです。善を行うことで、自分が役立つことを確認できるからです。健康でいることで自分を保てるからです。知識を積み上げることで自分の地位を確保しているからです。これらは自分を励ましたり、支えたりしてくれるものですが、これらができなくなったとき、自分自身も失い、共倒れしてしまいます。勝てなくなったら終わり、動けなくなったら価値がない、自分よりも優秀な人が出てきたからもうダメ・・・このように揺れ動き、倒されてしまいます。


自分自身が何者であるか。その証明を自分で獲得しているかぎり、本当のアイデンティティとは言えません。なぜなら、これらのものがなくなったり、取り去られたらなくなってしまうからです。Aだと思っていたけれど違った、だから次はBを獲得しよう。Bを持っていたらすたれてしまった、次はCを獲得しなければ・・・このような答えさがしはしんどくて大変です。休まること、安定を知りません。私たちは、自分が獲得しているアイデンティティでは、真の永続する平安は得られないのです。成績や順番がさがって落ち込む、退職して人脈がなくなって心もとなくなる、うまくことが運ばなくて取り乱すといったことを繰り返すのが「獲得するアイデンティティ」です。


  2. 受け取るか

「獲得」の反対は「受け取る」です。もし、私たちのアイデンティティが受け取るものであったとしたらいかがでしょうか。頼りなく聞こえるかもしれませんが、実は受け取る方が獲得するよりも確かなのです。自分の手で獲得したり、持ち続けなければいけなかったり、証明し続けたりするのではなく、誰かによって与えられ、誰かによってずっと認められている生き方です。それは、自分に基づくよりも確かです。たとえば、私がどれだけ今日は雨ですと言い張っても、太陽が輝いていたら正解は晴れです。私がどれだけ頑張って生きていても、それが間違っていたら意味がありません。


それゆえ、「私が何者であるか」に絶対的な答えを与えてくれるのは、自分でも世界でもなく、創造主なる神です。その意味で、私たち人間が考え出したものではなく、神のことばが届けられようとしていることは何よりも幸いなことです。その神のことば=聖書の位置づけをどこよりも高くすることを確認して始めましょう。


今朝の始まり5章1節は「ですから、愛されている子どもらしく」と記されています。このことを受け取るのです。それで最初の質問「あなたは何者ですか」の答えは「私は神に愛されている子ども」です。この世でもがき、自分自身がわからなくて苦しんでいる私たちに、神さまがどうしても伝えたいこと。それが「わたしはあなたを愛している。あなたは愛されている子どもなんだよ」というメッセージです。

無差別殺人の犯人が「誰でもいいから殺したかった」と言っているのに対し社会学者が「誰でもいいから愛してほしかった」に聞こえますとコメントしていたことを思います。この世からは、自分では決して獲得することのできない「私は愛されている子どもなんだ」というメッセージ。これを受け取ることは、私たちが生きていくうえでもっとも大切な答えです。


Ⅱ. 命令に生きる

  1. 第一の命令

自分が何者であるか答えることができると、どのように生きるか定めることができます。今朝の個所はたくさん「命令形」が続きます。それは「このように生きなさい」「こうしてはなりません」という生き方を示すものです。

1節を整理すると以下のようになります。


起点:あなたは神に愛されている子どもである

命令:だから神に倣う者になりなさい


聖書において命令文が出されている場合、必ず条件や理由がセットになっています。「〇〇してはならない。〇〇だから」(偶像を作って拝んではならない。わたしはねたみの神だから)、「〇〇しなさい。そうすれば〇〇になります」(探しなさい、そうすれば見つかります)といった具合です。それでこの個所では「あなたは神に愛されている子どもだから、神に倣う者となりなさい」と整理します。すると、失わない絶対条件は「あなたは愛されている子ども」であり、それに付随する命令(生き方)が「神に倣う者となれ」だとわかります。これが逆だと「あなたは神に倣う者になりなさい。そうすれば愛される子どもになります」となって、大変です。私たちは神に愛されるためにめちゃくちゃ頑張らないといけないし、ポイントを獲得しなければならないからです。それは世における法則と同じです。終わりがなく、疲れ果て、真の平安を得られない生き方です。それから救い出すのが神の福音です。あなたは愛されている子どもだから、神に倣いなさい。受け取った自分の身分を基盤として、生き方を定めていきます。そして、そのようにできたら感謝ですし、できなかったらまた自分が何者であるかの起点に戻ればよいのです。


そうした生き方が次に記されている「愛のうちに歩みなさい」(2節)です。

これは、私たちが神に倣って、神と人とを愛する生き方に頑張れ~、そこから外れるな~と言われているのではありません。「私は、あなたは神に愛されている子どもだよ」ということを絶えず確かめながら過ごすことが「愛のうちに歩みなさい」という命令をまっとうすることなのです。「愛のうちに歩む」とは、自分が愛することよりも自分が愛されていることを確認し続けます。

なぜなら、2節には「キリストも私たちを愛して・・・くださいました」と続いているからです。ここで、私たちは真の揺るぎない土台をいただくのです。自分のアイデンティティは、キリストにあるのだ。キリストが愛してくださっていることが自分の基盤であり、存在意義であり、受け取ることなのだ。ここから外れないように歩み続けることを、神は願っておられる。そうして、自分の生き方が定められていきます。なくならない神の愛に基づいて、命令を丁寧に聞いていきたく願います。神の愛と命令の関係は以下のようなものです。


「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い・・・」(第一ヨハネ4:18)


  2. 第二の命令

同じように起点から他の命令を見ていきましょう。


起点:あなたは神に愛されている子どもである

命令:淫らな行い・汚れ・貪りを口にすることもいけない

   わいせつなこと・愚かなおしゃべり・下品な冗談を言うな

   感謝のことばを口にせよ

   空しいことばでだまされるな

   彼らの仲間になるな


これらはすべて、神に愛されている子どもを起点として命じられている事柄です。それを「聖徒にふさわしく」(3節)生きなさいと言い換えられてもいます。エペソ4章も「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」(4:1)で始まっているので、この5章がそれと同じ流れの続きにあることが分かります。


だから、ただ個人的な目標ではなく、キリストのからだとしての教会の生き方でもあります。あなたが愛されている子どもとして、淫らな行いや汚れを遠ざけることは、教会全体の益となることなのです。あなたが聖徒にふさわしく口を慎み、愚かなおしゃべりや下品な冗談、考えにひたらないことは教会の聖さを引き上げることです。反対に、あなたがこれらの禁じられた命令を守り、事あるごとに感謝を口にするならば、それは教会全体が喜ぶことです。ただ、あまりにも誘惑や愚かな方向への力が強いので、それに警戒し、常に用心し、この命令に聞き続けることによって罪から守られていくことを今朝の3~7節で繰り返し教えています。これは4章25~31節でも語られていたことでした。


Ⅲ. 信じて生きる

  1. 神の怒り

私たちが神に愛されている子ども・聖徒としてスタートし、神の命令に聞き従う生き方をするために、ただその身分・立場と命令・行動を教えられるだけでは不十分です。主は「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(マタイ22:37)と私たちに仰せられるお方です。最後に、「心を尽くし・・・知性を尽くし」の点を学びます。


今朝の個所では5節に「このことをよく知っておきなさい」と私たちの知性に訴えかけています。知るとは、神のことばの真理です。つまり、私たちが神の愛を受け取るだけでなく、神の命令を守るだけでもなく、神を信じて生きることを主は願っておられます。信仰とは、心と知性とで神を信頼することだからです。ただ盲目的に、命令的に主に従うのではなく、心も知性も伴って主に従うことを願っておられます。そのため、ときには礼拝メッセージが教育的に感じることがあるかもしれません。ただ、それは後になって思い出すべき知識、頼りになる学びが込められているのだと受け止めてください。


さて、ここで知っておくべきことは「淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって・・・キリストと神との御国を受け継ぐことができ」(5節)ないということです。さらに重ねるように「神の怒りは不従順の子らに下る」(6節)とも告げています。これを「知っておきなさい」と強く念を押します。私たちが信じるのは、愛の神です。これは間違いがありません。そして、同時にそれは「怒りを下す神」でもあります。これもちゃんと知っておかなければならないことです。実は、聖書に使われている語句の回数・頻度では「神の愛・いつくしみ」よりも「神の怒り・さばき」の方が多く出てきます。これは私たちが神の怒り、さばきを軽んじないようにと重要なことを教えています。主は愛すると同時にねたむお方であり、主はあわれむのと同時に怒るお方です。主はいつくしむと同時に厳しいお方です。


神の怒りは、神が頭に湯気を立てて怒鳴りちらし、人々を追いやることではありません。人間の怒りと神の怒りを混同しないようにしましょう。神の怒りは神の正しさの現れです。神が悪い行いに目をつぶっておられたら、私たちはその方にさばかれることをよしとはしません。えこひいきをし、気分次第で善悪が決められたらたまったものではないからです。神は常に正しいお方で、善しかないお方なので、正当な怒りを持っていて当然です。隠されたことも明るみに出されて、最後には正当なさばきをくだされるお方なので、私たちはこの世の不条理にも、敵にも耐えることができます。神の怒りが正当に下されることを信じられるからです。神の怒りがなければ、このような希望を持つことはできません。神が怒りを下すお方でなかったとしたら、神の代わりに人間が人間同士で常にさばきあい、復讐しなければなりません。神が怒られるお方であるからこそ、私たちはそのお方の判断・さばきにゆだねることができます。


また、神の怒りは、私たち人間の罪の選択がどのようなものであるのか気づかせてくれるものです。愛の神だけを教えられたら、私たちは自分の罪が見えなく、わからなくなります。罪を深刻に考えることはしませ。どうせ見つからない、みんな一緒、人間だもの・・・こうして自分の罪を見過ごし、神の怒りを積み上げることになります(参照:ローマ2:5)。すると、さばきの日が訪れたとき、滅ぶしかなくなります。今、神は怒られるお方であることを教えられているからこそ、罪の処理をキリストにあずけ、真剣に救いを求めることができます。それゆえ、神がご自身は怒るお方であると教えてくださっていることは、私たちにとって益なのです。それを知らずに、今をのうのうと生きていると・・・終わりの日に泣いて歯ぎしりすることになります。


 2. キリストの愛

このエペソでも「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(2:3)と私たちがどこから救い出されたのかを前もって教えられていました。このことがはじめの「愛されている子ども」(5:1)と呼応しています。どのように愛されているかと言うと「キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださ」(5:2)ったほどに愛してくださったからです。キリストは私たちのためにご自分をささげ物とされました。また、神の怒りをなだめる(正当に、完全に処理される)ためにご自分をいけにえとされました。それらは「私たちのため」です。本来、私たち罪ある者が受けるべき、受けて当然の神の御怒りをご自身で受けてくださった。ここに神の愛があると教えます。あなたはこれほどまでに愛されていると語っています。神の本気の怒りからの救い、神の真剣な愛を受け取りましょう。そして、受け取ったらそれにふさわしく愛のうちを歩みましょう。


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