聖書箇所:第一コリント人への手紙13章4-7節 |
「愛の章」と呼ばれる第一コリント13章は「愛がなければ」(1~3節)の3連発で書き出されます。愛がなければどんな崇高な行為でさえも無意味であり、何も益をもたらさない。けれども、人間は愛がなくても全財産や自分のいのちさえ引き渡すことのできる矛盾、衝動、プライドの誇示を抱えています。愛がなくてもそんな行為ができてしまえるのです。そこに立ち入ることができるのは人間の愛や決意ではなく、「神の愛」しかありません。愛は神から出ています。神からのみ愛が出ています。この神の愛、無償の愛を受け取ることからすべては始まります。神の愛を信じ、受け取ってこそ「愛がなければ」という無価値な悲惨から一歩ずつ離れることができます。今朝は、「愛とは何か」という具体的な教えが示されますが、それはまず「私たちに向けられた神の愛の現れ」であることを受け止めたいと思います。それから、人を愛することについて思索してまいりましょう。
Ⅰ.心に愛を(4節)
1. 寛容と親切
「愛(アガペー)」とは◯◯ですと言い切ってくれています。これほど歯切れ、テンポの良い文章はすがすがしくも感じます。いくつかに分けて進めてまいりますが、初めは「愛は寛容であり、親切」です。日本語だと「寛容」「親切」と名詞のように響きますが、これは動詞です。愛はたたずまいや品性というよりも、動的なもの、行動なのだと言うわけです。字義的には「寛容=長く耐える、過敏に応戦しない」、「親切=自分をかわいがる甘えに打ち勝つ」というものです。1つ目の寛容から紐解いてきましょう。「長く耐える」というのは他の人からされた悪事、他の人の態度に対して怒らずに耐えるというものです。誰しもが「怒りのツボ」というものを持っているかと思います。それを言われたら反射的に言い返したり、心を閉ざしたりしてしまう。これをされたら瞬間的に怒ってしまう。そんな怒りのツボは、誰もが持っています。それでも、自分の怒りを爆発させるかしないかは、ある意味自分に選択権があります。いざ過敏に反応してしまいそうになるとき、ここの「愛は寛容という行為をすること」とのみことばを思い出してみましょう。
次の「親切」は「自分本位、自分ファーストを避ける」ということです。それによって、他者を優先するようになります。私の知人であまり事務仕事や時間管理がうまくできないけれど、嫌われず頼りにされる人がいます。彼の特徴はどんなときも「人優先」であることです。どんなに忙しくても人に持ちかけられた話をさえぎらず、面倒が増えると電話を取らないでいることもありません。そうして彼の周りには、いつも人が寄ってきてゆっくり交わりを持っています。けれども、その周囲は大変・・・彼の仕事の取り掛かりの遅さを周りの人がカバーするからです。それでも、彼がうとまれたり、その性格どうにかしなさいよ!と詰め寄られることもありません。彼の人優先の親切さが、それらを補って余りある祝福を注いでいるからです。
愛のあるところには、怒りは後回しになり、人が惹かれるあたたかさがあります。
2. 自慢や高ぶりの裏には
続いているのは「~せず」の連続です。特に最初の三つ「人をねたまず、自慢せず、高慢にならず」は、隣人への心の態度の特徴です。ねたみは、自分のうちから喜びを奪います。反対に自慢は、隣人の喜びを奪います。はしゃぎすぎて、喜ぶものも喜べなくしてしまうのが自慢の怖さです。高慢は自慢よりもさらに鼻息が荒いものですから、隣人の喜びが失せるどころか、有害な空気を撒き散らす威力を持っています。では、なぜ私たちは言わなくてもよい自慢をしてしまうのでしょう。わざわざ知らせなくてもよい自分の頑張りや功績をひけらかしてしまうのでしょう。それは、そうすることで自分の存在価値を認めてもらう、承認してもらえるからではないでしょうか。自慢や見せびらかしの裏には、寂しさ、不安、自信のなさ、ふがいなさと戦っているからです。そして、誰もこの恐怖から自由な人はいません。
誰が、この恐怖を取り除いてくれるのでしょうか。自分の存在意義を確かめるために、いつも人に確認を迫らないといけないのでしょうか。解決は「神から出る愛」にあります。「愛は」で始まるこの箇所、すべて神から出る愛が源、泉、源泉です。愛とはねたまず、自慢せず、高ぶらずだから・・・と一生懸命自分に言い聞かすのではなくて、そうしなくてもよいほどに神は私を愛されているのだということに気づかせてもらうのです。そんなにあがかなくてもよいと神の愛を求めるのです。
Ⅱ.行いに愛を(4~6節)
1. ~せず×4連発
次の4つは「隣人に対する行為・行動・行い」の愛のリストです。何か町内や学校の標語のようですが、これが「愛とは」を説き明かす箇所であることに驚きます。愛は決して難しいこと、ハードルの高い、高難易度のわざではないことに気づかされます。相手に対して礼節を尽くす、苛立たないこと。これだけでも相手には愛が伝わるのだと言うのです。「~しない」ばかりが続きますから、この反対のことも考えてみましょう。礼儀に反することをしないとは、積極的には品位ある振る舞いをするということです。自分の利益を求めずは、直訳すると「自分の道を主張しない」です。積極的な意味にするならば、「隣人の主張に耳を傾ける」「隣人の益を一番優先する」ことです。苛立たずの語源は「ナイフの剣先」です。ときに私たちは目で人をさばいたり、語気を強めて制圧しようとしがちです。
これを積極面で変換すると穏やかな視線を向けてあげる、人を支える言葉を選んで会話することです。「ほら、言ったとおりじゃない」「何度も言うんだけれど」と相手を追いやりがちな私たちの日常に愛が入り込むならば、あなたと隣人との関係にも良い変化が訪れるはずです。「人がした悪を心に留めず」は「悪事を数えない」ことです。積極面では未来に向けて励ましてあげることです。過去を持ち出し、攻撃されたら相手はいつまでたっても赦されていない感覚を持つでしょう。誰しもが、過ちを犯し、それを取り消すことはできません。解決は、その悪を赦してもらうこと=忘れてもらうこと、持ち出さないこと、蒸し返さないことです。ずっと罪の荷物・重荷を持たせていては良い交わりはできません。
2. 愛と真理の両立
これら4つの「◯◯せず」に続くのは、「◯◯せず、△△する」という消極面と積極面のペアになっています。「(愛は)不正を喜ばずに、真理を喜びます」(6節)。愛は正義と両立しますし、愛は真理と両立するということです。よくある疑問に「赦してばかりではいけないのではないか」「ダメなものも何でも良いとしていたら正義も社会も成り立たないのではないか」「いつもいいよいいよとしていたら相手がつけあがるのではないか」というものがあります。確かに、罪を犯した相手をそのまま赦していてはお互いのためになりません。罪感覚を教えられずに育てられた子どもは、悲惨です。善悪の判断、人の痛み、罪の刈り取り、悔い改めを知らずに育てるのは愛ではなく、放任、、無責任です。それを教えるように、ここで愛は不正ではなく真理を喜ぶと説くのです。
似たような教えに次のようなものがあります。
「愛をもって真理を語り」(エペソ4:15)
真理のない愛は、何ら問題を解決しません。同じく、愛のない真理も人を罵倒するだけです。愛と真理の両面を持ってこそ、問題やあやまちに光が当てられ、真理に向かって立ち上がる力の与えられるものです。ここで注目したいのは愛と真理を分かち合う場合、たとえば話す方も聞く方もそれを味わっていることが大切だということです。一方的に諭すのは、語る方はご満悦でも、聞く相手にはシコリが残ります。やりこめられた居心地の悪さ、気持ちの持ってき場を失って、ますます窮屈になります。真理とは何でしょうか。それは、神の前における事実です。神の真理の光が、話す側にも聞く側にも射し込んでいるならば、そこにはいっしょに真理を喜ぶ愛がもたらされます。このように教えられているのは、私たちは一人では真理に気づけないからです。交わりの中、人付き合いの中、衝突の中で私たちは罪を示され、真理も示され、愛によって赦されたり、支えられたりという体験をすることができるのです。ぜひ、教会の交わりの場を大切にしましょう。積極的に交わりを持ち、交わりの場に出ていき、神の祝福をいただきましょう。
Ⅲ.すべてに愛を(7節)
1. 愛を働かせる機会
さらに今朝の結びは4つの動詞が連なっています。「すべてを耐え・・・信じ・・・望み・・・忍びます」(7節)。「~せず」の連続の後は「すべて」が4連続で来ています。明らかに強調点が移ったことがわかります。愛はまったきものなので、スキがありません。愛は完全なものなので、欠けがありません。愛は途切れないものなので、休みがありません。期限付きの忍耐、一時的な希望であれば持てる私たちに、主は「すべてだ」とお答えになります。「主よ、いつまでですか?」「ずっとだよ」「主よ、どこまで信じればよいのですか?」「すべてだよ」「主よ、どれだけ望むのですか?」「すべてだよ」「主よ誰に忍耐すればよいのですか」「すべての人にだよ」と言われます。もう主の答えは「すべて」で決まっている・・・
どうして主は「すべて」と言われるのでしょうか。限界があり、全能ではない私たちに対して「すべてを耐え忍び」と言われるのはなぜでしょうか。それは愛こそが、すべてに勝利するものだからです。私たちの人生に立ちはだかるものは、小手先やテクニックを駆使してやっていけるものばかりではありません。どうして?こんなに頑張っているのに!私ばっかり!?と色んなものに手を出そうとする私たちに対して、「すべてに勝利するのは愛だよ」と教えておられるのです。「耐える、信じる、望む、忍ぶ」のこれら4つに共通しているものは、反対や困難に対する姿勢です。愛は、反対や抵抗、困難や苦難を感じるときこそ、愛の働く機会です。もうダメだ、我慢の限界、継続の限界、すべてがどうでもいい・・・とキレそうになる私たちに「愛はどこへ行った」「すべてに打ち勝つのは愛ではないのか」と熱く語り続けてくださっているのが、この章での主の声です。
2. 神の愛から始めよう
13章は「愛の章」であると紹介しました。愛はもらうものです。愛は与えるものです。愛は戦うものです。愛は困難を感じるものです。愛は限界を超えるものです。愛は壁を乗り越えるものです。そんな愛は、どこにあるのでしょうか。少なくとも自分からはありません。けれども、その愛を与えてくださった方がおられます。神こそその御方です。主は限界を超えて愛してくださいました。主は私たちの背きの罪を耐えてくださいました。主は私たちが振り向く前から信じていてくださいました。主はこれからも私たちを見限ることなく望みを抱いてくださっています。主は私たちの罪を背負って忍んでくださいました。自分に向けられた神の愛を知る時、私たちはこの愛の道に歩むことができるようになります。神が底知れない愛で自分を愛してくださっている。ただそこからこのみことばに向き合いたく願います。神はすべてをご存知の上であなたを愛してくださいました。なくなることのない不動の愛を受け止めましょう。
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