聖書 詩篇96:1-6
はじめに
本日は主の年2024年結びの礼拝となります。今年の聖句で礼拝を始めましたが、本日も同じ箇所からみことばを聞いて締めくくりといたしましょう。一年間を分にすると「545,600分(Five hundred twenty five thousand six hundred minutes)」です。これを題材にした歌があります(Seasons of love)。一年間をどのように計るのか。朝日や夕陽の数で、コーヒーを飲んだ数、笑った数、けんかの数・・・といった歌詞が並びますが、身近な生活から一年を計算するのは新鮮で興味深い視点です。
ちなみに、睡眠を一日8時間と仮定して計算すると年間175,200分で約1/3。「人生の1/3は寝ている」と言われるのは真実ですね。睡眠と同じか少し多いのが一般生活や仕事です。スマホは最も多い年代(20代)で一日平均3時間(180分)。年間で65,700分、約1/8です。結構ヤバいかもですね。こうして数字で見るとどのように過ごしているのか振り返りやすくなります。多い分野と少ない分野がはっきりとします。そして、今朝は年52回目の礼拝、年間で3,640分(一回70分として)、占める割合は約1/150です。ちなみに食事の割合は、一日三食計60分とすると21,900分で1/25です。私たちは一年の1/3働き、1/3眠り、1/8スマホをし、1/25食べ、1/150主を礼拝しています。
これが多いか、少ないか、どう感じるでしょうか。私の感想は「意外と少ない!」です。私自身は、牧師という職業柄いつも「礼拝メッセージ」のことが頭にあります。またメッセージの機会は毎週欠かさずやって来ます。あちらから忘れることはありませんので、こちらも忘れるわけにはいきません。私には牧師の伯父がおりました。昨年、50年以上に渡る牧師生活に終止符を打ちましたが、しばらくは「何をしていいか分からない」「日曜にメッセージしなくていいのがとても変だ」と言っていました。とは言え、聖書からのメッセージは礼拝の時間だけではなく、それに至る準備(学びや原稿や推敲)があるので、神学校では最低12時間かけなさいと教えられました。そうすると年間37,440分、割合は約1/14になります。礼拝式と比べると10倍の時間感覚です。これは他の仕事や生活をされている方と比較すると恵まれているかもしれません。祈り、支えられていることに感謝します。
さて、私たちは1年間で1/150の時間をともに集まり、神を礼拝しています。それ以外の149/150(93%)はこの場、この雰囲気ではないところで過ごしています。以下に日常に礼拝感覚を入り込ませることができるのかが大切です。特段の意識なく過ごすなら、私たちは容易に149/150の波に流されてしまうからです。この礼拝から押し出される意識、感覚を持って始めてまいりましょう。
1. 主をほめたたえる
私たちが、神を礼拝して過ごすための鍵は「主に歌う」ことです。年間聖句の詩篇96篇1-2節の間に3度続けて「歌え」と出てきます。しかも、すべて命令形です。主の命令は、私たちを苦しめたり、窮地に追い込んだりするものではなく、必ず「いのちに至る」ためになされるものです。私たちが、主に歌い、賛美するなら、それは私たちのいのちを保ちます。
その点で、今年の礼拝から手話賛美がささげられています。毎月の月間賛美を手話付きでリードしてくれる兄弟姉妹がおり、私たちは本当に意味をよく味わい、また何か一つにされるような感覚があります。このために、手話ゴスペルハウスのメンバーがよく準備し、練習し、そうしてリードをしてくださっています。敬意と感謝をここに表します。
「私たちの礼拝を豊かにしてくださってありがとうございます」 礼拝をともにする方の中には、手話に不慣れな方や同じようにできなくて申し訳ないと感じる方がもしかしたらおられるかもしれません。しかし、そのような遠慮や引け目は不要です。手話を見ていると「そのように表現するのだ」という学びがあったり、マネできるところだけでも手話をしてみると、思わぬ感覚や喜びがあります。それが「新しい歌」として、一人ひとりを励ます力、活力となります。
そして、「礼拝でこんな手話をしていたなあ」「あの賛美素敵だったなあ」と家や外で思い出すことで、1/150の割合が少しずつ増えていきます。そして、賛美や手話をしているときは、表情が明るくなりますから、自分にも周囲にも良い影響をもたらすことができます。まさに、主をたたえることは力となり、いのちの躍動になります。「主を喜ぶことは、あなたがたの力」(ネヘミヤ8:10)です。
実際に「喜ぶ」を手話でやってみましょう。喜びは胸が躍る様子を表すので、両手を胸の前で上下に振ります。そして「ハレルヤ=主を喜びます、主をたたえます」の場合は最後にパッと両手を広げます。(実際にやってみる)これは単に「喜び」と言ってみるのと、手話をするのとでは感覚や経験、体感にも違いが出ます。
反対に「悲しい」を手話でやってみましょう。悲しいは涙が頬をつたい落ちる様子を表します。ポロポロっといった感じですね。もし、この手話を一人の部屋でやってみると・・・おそらく本当に涙が出そうな気分になるでしょう。単に言葉や音だけで言い表すのと、手話(+表情)で表すのとでは、言っていることの意味合い、重みが違ってきます。ここで「歌え」と三度も繰り返し命じられているのは、そういう「歌い方」なのだと教えられます。単なる言葉としてではなく、たましいやからだ全体で神を賛美すること。これが教会堂での礼拝式と日常の生活エリアの境界線を突破する鍵となります。
ぜひ、手話賛美を思い返しながらお過ごしください。
(記録)2023年12 月 天には栄え2024年3月 神はひとり子を4月 心を一つに5月 あがめます6月 主は良いお方7月 主はわれらの太陽8月 主がそばにいるから9月 すべてにまさって10月 心くじけて11月 キリストにあって12月 クリスマス讃歌
2. 救いの良い知らせ
続いて、なぜ主に歌い、賛美できるのか。その理由がなければただの陽気な人です。2節には「御救いの良い知らせを告げよ」と賛美の内容が示されています。私たちは神から救いにあずかったので、賛美するのです。神は、私たちを救うためにすべてのことをしてくださいました。
それは、クリスマスの出来事から始まっています。クリスマスは神の子であるイエス・キリストが地上にくだり、人となられた出来事です。なぜ、神が人となられたのでしょう。それは、私たちの救いと関連しています。たとえば、皆さんが夜寝られなくなったとして、深夜のコンビニに行ったと想像してください。その時、店の前に若者が集まっていれば「元気な青年、早く家帰ってね」くらいで済みます。しかし、店の前におじいさんが一人でいたらどうでしょうか。なんだか不安そうな表情で、目的もなさそうに歩いていたら、名前や事情を尋ねて、家が分かるかを聞いて一緒に帰ろうとしないでしょうか。そのおじいさんが意地を張って「わしゃ大丈夫じゃ」と言えば言うほど、心配になります。そして、そのおじいさんにとって自分は見知らぬ人扱いされたとしても、「おじいさん。安心してください。私はあなたに危害を与えるためではなく、助け導くために来たのです。さあ、いっしょに行きましょう」と手を握ります。それは、その方が自分で居場所を判断し、自力で帰宅することができないからです。
同じように、キリストは私たちを救うために来られました。それは私たちが道を誤り、目的を失い、どこにいるのか、どこへ行くべきか分からずにいたからです。それほどまでに、私たちは神から離れ、自分勝手に生きてきました。しかし、それではまことのいのちを得ることができません。
しかも、その失われていた私たちが呼んだからでも、いい子でいたからでもなく、ただ愛なる神のご性質に基づいて、キリストは人となってそばに来てくださいました。この日本の文化は「因果応報(カルマ、業)」の考えが根深いです。過去の行いが現在の幸不幸を決定し、現在の行いが未来の幸不幸を決めるという考えです。悪いことをしたら、悪いことが起きる。悪いことが起きたのは、悪いことをしたから。その教えに縛られて、過去の自分を後悔し、これからの自分に不安を感じ、自分の前世や先祖まで供養しなければ、行いの報いは避けられない。このような教えを今朝の個所では「まことに どの民の神々も みな偽りだ」(5節)と断言しています!これは歴史や他の宗教をけなしているのではありません。そうでなく、偽りの神々は「あなたのことはあなた自身で救いなさい」と教えているからです。「あなた自身が不幸なのは、あなたが〇〇をしたからですよ。そうですよね?」とあきらめさせるからです。しかし、それは間違っています。人間の頭や文化や教育の中ではしっくり来るかもしれませんが、真実はそうではありません。
聖書だけが正しい、偉いと言っているのではありません。聖書以外に「迷っているあなたを、造られた方がおられる。この方に帰れ」とか、「迷っているあなたを捜し出し、救いのためにいのちを捨ててくださった方がおられる」という救い主を伝えるものはありません。迷っている私たちのために、いのちを与えるという方はキリスト・イエス以外におられません。救いのために犠牲を払われた方が、他の神々にはないのです。
私たちの救い主はただイエス・キリストおひとりです。これは窮屈でしょうか?束縛されるような気持になるでしょうか?もう一度、深夜に自宅が分からずに歩き回るおじいさんのことを想像してみてください。そして、今度はあなたが助ける側ではなく、あなたがおじいさんになったことを想像してください。自分でどうしたらよいか分からない。周囲の誰もが敵に見える。どこから来て、どこへ行ったらよいのか、名前さえも分からない。そんなとき、あなたのそばに来て、あなたの名前を呼んでくれる方がいたとしたら?そんなとき、あなたに手を差し伸べ、「もう大丈夫。わたしがあなたを助ける。わたしについて来なさい」と言ったとしたら?その時、喜んでその手を握り返し、安堵し、ついて行くのではないでしょうか。「いや、この私の自由を奪おうとしている!」と疑ったり、「他に助けが来るかも」と断ったりしません。なぜなら、この方があなたを救ってくれる唯一の方だからです。
3. 山びこのように
主を賛美することと救いについて見てまいりました。最後に「国々の間で語り告げよ その奇しいみわざを あらゆる民の間で」(3節)に注目しましょう。これは、クリスチャンの信じている神が素晴らしいお方であることを、ただ一人で歌うのではなく、ただ教会の建物の中だけで讃美歌を歌うのではなく、あらゆる国々の間に行って広めなさいということです。しかも、ここでも「語り告げよ」と命令形になっています。思い出してください。神の命令は必ずいのちにつながります。人から元気を奪うためとか、人を落ち込ませるための命令はいっさいなさいません。その反対に、神の命令は悪から離れること、力のかぎり善を行うこと、知恵深く選択すること、祈って待つことなど、私たち人間に品性や喜びや忍耐や力を備えさせてくれます。この方が「民の間で語り告げよ」と命じておられます。
このことを別の言葉で「伝道」と言えます。私たちには神の素晴らしさを伝えたい人がいます。それは家族であり、友人であり、近隣にお住いの方であり、同窓生であり、職場の方であり、ネットの友であったりするでしょう。今年のエステル会では、ほぼこの話題ばかりでした。どのようにしたら伝道ができるか。こう伝道したけれど他に何と言ったらよかったのか。良かったことも残念だったことも分かち合いながら、伝道意欲が燃やされています。
秋に始まった歯科大のゴスペルハウスでも家族伝道のために分かち合い、具体例を挙げて励まし、祈っています。
それはノルマでやっているのではありません。何か心がうずいて、そうするように主に導かれていると感じているからです。簡単な仕事ではありません。相手の機嫌やタイミングを見計らないながら知恵をもって伝道します。すぐに相手が内容に同意したり、キリストを受け入れるような成果は出ません。やんわりと断られたり、それ以上話が進まなかったりもします。しかし、ここで命じられているようにクリスチャンは救いの良い知らせを人々に伝えます。それを始めるのは、まずその人自身が福音に感動しているからです。おいしいものを食べたら、口、喉、食道を通って胃袋に入ったあと「おいしい~」と思わず声が出るように、神の素晴らしい福音を自分で受け入れ、理解し、味わうとき「主は素晴らしい~」と思わず口に出るのです。
主が素晴らしいことをしてくださったから、歌います。神が救ってくださったので、感謝します。賛美も伝道も、私たち自身の内側にしっかり届いてこそ、次に外側に出て行きます。そうして、救いの道を教えてきました。福音を伝える人は、その人の内側に救いの喜びが届き、響いたので、それを次の人へと伝えます。やまびこのように、主の救いの良い知らせは国々の間、民の間で歌われ、教えられ、響き、伝わっていきます。
福音は人を追い詰めるために、人を困らせるためにあるのではなく、人を救うための良き知らせです。神に救われることには生涯をひっくり返すような価値があります。ぜひ、キリストを救い主として受け入れ、信じてください。自分の人生をすべて肯定してくれます。自分の人生の決断に間違いはなかったと平安を与えてくれます。
(静まりながら)ある人が公園にある噴水の絵を描いていました。とても魅力的で、没頭して描き続けましたが、夕方になり公園が閉じられる時間になるという放送がありました。その絵描きが焦りながら、最後の仕上げにかかろうとしていると、背後に人がいるのに気づきました。その人はにこにこと笑いながら、ただ絵を眺めています。その絵描きは「集中できないからどこか行ってくれ」とわずらわしく思っていました。そして絵を描き上げ、いよいよ公園を出るとき、管理人室から「いい絵が描けましたか?」と声がしました。見ると、あのとき後ろに立っていた人です。彼は、その人が噴水の絵を描き終えることができるように見届け、公園の閉園時刻を過ぎても噴水を止めずにいてくれたのでした。そのとき、絵描きは邪魔だと思ったことを恥じたそうです。自分にとって邪魔者だと思っていた人が、本当は恩人なのでした。
私たちが知り、感じている以上に主は素晴らしいお方です。この方が与える救いの良き知らせを語り、伝えられたらぜひ、キリストを信じてください。
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