「救いの道はひとつ」
- 大塚 史明 牧師
- 2024年10月27日
- 読了時間: 8分
ローマ人への手紙 3章24-25節
1. 神を認める
今日はシンガポールチームをお迎えしています。ポーリーン宣教師の母教会(リビングプレイズ長老教会)から女性の祈りのグループ5名が佐賀と福岡で宣教の働きをしてくださいました。彼女たちはただの旅行ではない目的で海を渡って来られました。それは福音を伝えるためです。先ほど一名の方が証ししてくださったように、福音が彼女たち一人ひとりの人生を変えたので、そのメッセージを伝えるために、このようにここにおられます。
人生について考えてみましょう。それは一枚の紙にたとえることができます。この紙を見てください。私たちのいのちは白色です。しかし紙には裏があります。この黒色は私たちの死を意味します。一枚の紙に表と裏があるように、私たちの人生には生と死があります。生だけくださいと言っても、そのような紙はありません。だから、私たちの人生は生と死について真剣に考えなければなりません。そして、人生の生と死は肉体とたましい(霊)の両方です。霊のないからだは死んでおり、からだのない霊も人として生きているとは言えません。からだが生きるためには病院や薬、食べ物や運動があります。では、たましいが生きるためには、何があるでしょうか。それが教会であり、聖書です。主はみことばによって、すべてを創造してからだが生きるようにされ、主はみことばによって、たましいが生きるように交わりを持ってくださいます。
今朝、そのみことばが教えていることは「すべての人は・・・神からの栄光を受けることができない」ことです。これは私たち人間にとって大変不名誉なことです。「あなたは神から褒められることがない」「あなたは無理、除外」と言われているのと同じだからです。こんなことを言われて嬉しい人はいません。ただ、私たちのたましいを救おうとするみことばが伝えていることであれば、より真剣にこのことについて考えなければなりません。
紙に表と裏があるように、私たちにも表と裏があります。人に見せているのが表の生活だとしたら、誰にも見せていない裏の生活があるかもしれません。実際に人と話している言葉とインターネットの世界でしか使わない言葉があるかもしれません。たとえ、人に見られていなくても表と裏が私たちにはあります。そして、人には表しか見られていないとしても、神はあなたの表も裏も見ることができる方です。そして、このことを真剣に考えるなら「神からの栄光を受けることができない」と告げているみことばを認めざるを得ません。
しかし、これは先に悪いことが知らされているので、これから助かる見込みがあるということでもあります。大丈夫じゃないのに、ずっと大丈夫だよと言うのは親切ではなく、不親切であり、冷酷です。もし、目の前の人が危ない目にあいそうだったら、必死に止めたり、助けたりするはずです。
「あなたは神からの栄光を受けることができない」もこれと同じメッセージとして聞くことができないでしょうか。私たちは誰もいつ、どこで、どのような死に方をするのかはわかりません。自死しないかぎり、自分の死の訪れを知ることも操作することもできません。しかし、私たちの生き方は変えることができます。どのように生きるのかについては、多くの判断材料と機会と自由が与えられています。これも紙の表と裏のようであるかもしれません。
そして、どのように生きるのかについては、みことばが教えてくれています。私たちが生きている間に、神の真実が教えられているのです。教会の礼拝では、この神に応える生き方を紹介し、勧めています。同じローマ人への手紙3章の中には「すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった」(3:12)とも書いてあります。すべての人は神からの栄光を受けることができないのは、すべての者は神から離れて行き、無用の者であるからだという流れから来ています。人はもともと神の栄光のために造られたのに、離れて行ったので、そのために役立たない者として、無益な者として生きるしかなくなってしまったのです。飛行機はどれだけ頑丈で、燃料を積み、最新の技術があっても、管制塔の指示やレーダーがなければ衝突したり、墜落したり、目的地に着くことができません。私たちも人生を導いてくださる主から離れていれば、衝突、不安、迷走があるのは言うまでもありません。
2. 罪を認める
聖書は、人が神から離れて生きることを「罪」を呼んでいます。犯罪して捕まる、悪口を言う、盗むといった悪い行いのことを罪と言うのではなく、神から離れて生きている状態を罪と言います。これが聖書の基準です。そして、本当に問題なのは私たちがこの聖書=神の基準から外れているということをわからずに、よもや自分が正しいと思って生きていることにあります。
それを教える話しがあります。ある国で悪党の兄弟がいました。あらゆる限りの罪を犯し、不当なお金を得ていましたが、ある日弟が事故で死んでしまいます。弟の葬儀のときに兄は牧師に「葬式で弟のことを悪く言わないでください。聖人だったと言ってください」とお願いしたそうです。牧師は困りましたが、式で「亡くなった弟さんは盗みをし、詐欺をし、人殺しもしました。しかし、兄に比べたら聖人です」と言ったそうです。これはたとえ話ですが、真理を教えています。私たちは他の誰かと比べれば「聖人になれる」ということです。そして、他の誰かと比べて生きているので、自分が罪人であると認めることができません。しかし、もし聖書を基準にするならば、実に「すべての人が罪人」であり「すべての者が神から離れて生きている」のであり「だれも神からの栄光を受けることができない」という切羽詰まった状態であることを知らされるのです。
あなたは、自分は神から離れて生きている罪人であると認めることができるでしょうか。それとも、何かが邪魔をして認めたくはない、そんな気にはなれないと思うでしょうか。しかし、神を認めるということは、あなたを苦しめません。神は全知全能の知恵と力を持っておられます。この方を認めることで、その知恵と力をいただいて生きることができるようになります。「罪」ということばはもともと「的外れ」という意味です。アーチェリーの選手が的を外したとき「罪!(ハマルティア)」と言ったそうです。
私たちは神を認めないと、皆それぞれの目に正しいこと、それぞれの心で思ったこと、それぞれの気分でやりたいことをします。最初に見た紙のように表裏があり、いつもひっくり返るような不安定な生き方、気持ちの揺れ動き、人間関係の移り変わりがあります。罪のデパートのような世界で、あの罪もこの罪も人間の身勝手な考えからもたらされたものだと知るのです。そして、的を外し続けた人生のゴールは永遠の滅びになります。正しい神が邪魔くさい、聖書によって語ってくる神がやかましい、全知全能の神に見られているのは窮屈・・・そうした人間の願望が死後にかなえられます。神があなたを滅びに突き落としたのではなく、あなたの意志と選択によって神のいない世界で永遠に過ごすことができるようになるのです。神から引き離された世界にはは愛も赦しも平安も自由も喜びも希望も、いっさいありません。
3. 恵みを見つける
このみことばの結末を見ましょう。「すべての人は罪を犯した」で始まれば、自然な結末は「彼らはさばかれて滅びる」です。しかし、これに続く節は「神の恵みにより」と始まります。生きている間に聖書に出会うチャンスが与えられていることを感謝します!罪の増し加わるところには恵みも増し加わり、罪が積みあがったところには恵みがその上から覆いかぶさるというのが福音です。つまり、私たちは自分の罪を認めれば認めるほど、恵みがそれ以上に実感できます。しかし、自分は神なしで生きていくのだと距離を取れば、恵みからも遠くなっていきます。
その恵みの内容は「キリスト・イエスによる贖いを通して」注がれると続きます。「贖い」とは「代価を支払って買い取ること」です。それは自分以外の誰かが代わりに支払いをして取り戻す行為です。さて、これはいったいどなたが、どんな支払いをされたのでしょうか。それが「キリスト・イエスによる贖い」です。神は私たちのために、しかも正しくも普通でもない罪人の私たちのために、ご自分のひとり子を地上に遣わし、罪のないイエスを私たち全人類の罪を背負わせ、十字架につけられました。それが私たちを贖うための代価です。しかも、これは恩着せがましく良い生き方をする人のためにとか、特別に待っていた人だけに支払われた代価ではありません。クリスチャンになった人のためだけの代価ではないのです。
しかも、このキリストの贖いの素晴らしいところは、今はクリスチャンではない人、信じようかどうか迷っている人、キリストの意味なんて分からない、いらない!と突っぱねているすべての人の支払いは終わっているという点です。あなたが信じたから、あなたのために代価を支払うというのは恵みではありません。あなたに優しくしてくれる人に優しくするのは誰にでもできます。悪人にもできることです。しかし、敵対する者のためにいのちを捨てるのが神の恵みです。今はキリストを毛嫌いし、聖書なんか無意味で自分の力で社会で生きていくのだと頑張っている人にこそ、この神の恵みはふさわしいのですね。
キリストはすでにすべての人が神の前に立ち返り、的外れな罪の世界から悔い改めることができる代価を支払い終えてくださっています。最後の文には「価なしに義と認められる」とあります。「価なしに」とは、「理由がない」「根拠がない」「ただで」という意味です。私たちがすべての罪を赦され、義とされて、永遠のいのちを持つためには何の根拠も理由もお金も行為もいらないのです。なぜなら、キリスト・イエスがそのすべてを支払ってくださったからです。神は全知全能であっても、罪を犯すことと嘘をつくことができません。ご自分の性質に反するからです。その神がすべての人はキリストを信じることによってのみ義とされると約束し、救いを保証してくださっています。この神の恵みを見つけ、喜び、たたえましょう!
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